第三十四話:依頼
「おかしいとは、思わなかったかい?」
まだ酒の匂いが微かに残るランドルフの部屋で、リュートは密談に応じた三人の男に向けて、おもむろにそう言い放った。それを受けて、レギアスが口を開く。
「おかしいって、何が?」
「東大公の話さ。ここに来たときに僕らに語った過去の話。その中でも、僕の父が彼に国王への取りなしを頼みに行ったくだりさ。あの時、大公はこう言ったね。『彼のその健気なる夫婦愛に動かされた』と。……あれが、そんなものに心動かされるタマだと思うかい?」
その指摘に、大公の息子であるランドルフが、はっとした表情を見せる。
「確かに。あの、糞親父めが、そんな事でほだされるとは、思えぬな」
「そうだろ? あれは、そんなことで動くような男じゃない。何か、別の思惑があって、僕の父の頼みを聞いたに違いないんだ」
リュートのその推測に、今度はオルフェがいつものように眼鏡を光らせて、一つ仮説を口にする。
「選定候に復権するであろうお前の父親に恩を売っておいて、彼の復権後、宮廷に東部派の貴族を少しでも増やしたかった、という事ではないのか?」
「……まあ、それも考えられるだろうが、それじゃあちょっと説明がつかないんだよ。それが狙いなら、ずっと僕の父が東部で隠遁していた事を知っていたのに、何故父が頼みに行くまで、父を復権させようとしなかったんだい? ……答えは簡単。僕の父には、無理をしてまで復権させる利用価値がなかったからさ。そう、 王太子妃を奪った大逆人の後ろ盾になって、一人東部派の選定候を増やした所で、どうと言うことはない。ただ、面倒なだけさ。だから、クレスタに捨て置いたままだったんだ。それが、急に、僕の父親が頼んだ途端に、動いた」
ぎらり、とリュートの碧の瞳が光る。
「わざわざ、面倒な大逆人の後ろ盾になることを了承した理由。さて、それは、何なんだろうね?」
その言葉に、三人の男はそれぞれに考え込む。
……あの大公を、動かした理由。あの老獪なる鷹が、彼を選定候に復権させる事によって得られる利益。それは、何だ……?
「僕はそこに、あの事件も係わってくるんじゃないかと思っているんだ。あの、収穫祭の夜の、僕の拉致事件」
突然、リュートの口から飛び出した事件に、三人はより困惑の表情を見せる。
「あ、あの事件か。あの密偵がお前を狙ったっていう事件。あれが、どうして……」
その額に、冷や汗を垂らしながら、ランドルフはそう疑問の声を発した。何故なら、七年前とつい最近起きたこの事件の間に、何の関連性も見いだせなかったからだ。だが、目の前の金髪の男は何かをかぎ取っているようで、にや、とその口元を歪めている。
「そこで」
男達の思考を断ち切るように、リュートがおもむろに、懐から何かを取りだして、目の前の机の上に置いた。
それは、彼がいつも身につけている、獅子紋が刻まれた、金の首飾りだった。
「調べて欲しいのは、これだよ」
差し出されたそれを、三人は初めて間近で、しげしげと観察してみる。すると、紋章の下に、何か数字が刻まれているのが見える。荒く、歪んだ刻みぶりから、職人ではなく、素人が彫ったかのような印象を受ける数字だった。
「これは……年号か?いや、日付も、入っているな」
オルフェがその眼鏡を直しなら、首飾りを日に当てて、さらに観察してみせる。
「そう。年号だ。……あんたに調べて欲しいのは、この日付だよ、オルフェ」
「……私に?」
名指しをされ、狼狽えるオルフェに、リュートは何かを含むように、微笑みを浮かべて近づく。
「ねえ、覚えているかい? あんた、『東部解放戦線』の事件の時、黒幕とされた女を調べた事があったよね? そう、『クローディア』と言う名の女を東部の名簿、片っ端から調べ上げた。あれ、どうやったんだい?」
突然出された昔の事件に、オルフェは驚きつつも、答える。
「あれは、宿帳なんかは取り寄せたり、こちらから出向いたりして名簿を手に入れて調べたんだが、生まれたときに神殿に納める出生帳なんかは、東部の各都市や村々から、控えがレンダマルの資料庫に届いているから、それを使ったんだ。後は関所の記録は言わずもがな、市庁舎にその控えが届くから、それを……」
「それは、ずっとそうなんだよね? 宿帳はともかく、東部の出生帳や、関所記録は全てレンダマルの資料庫に控えが残っているってことだよね?」
「ああ。特に親父はそう言った事に関しては几帳面だったから、他の資料も山と残っているぞ。神殿への寄付記録、結婚、死亡記録……。なんでも、まだきな臭い東部の状況を、全てこのレンダマルで把握しておきたいから、だとか言っていたな」
オルフェのその言葉に、リュートの口が、より一層にんまり、と歪んだ。
「さすが、あんたの親父さん。ぬかりないね。じゃあ、オルフェ、あんたレンダマルに帰って、その資料庫で調べてきてよ。……この、日付をね」
「え……。どういう、ことだ」
「本当はクレスタに帰って、僕の義母に聞けば早いんだろうけど、多分あっちは、既に大公に押さえられているだろうからねえ。それに、クレスタの方の資料は、とっくの昔に改竄されているだろうし」
そう独り言を言うリュートに、さらに、男達は混乱を増すのみである。
……改竄? 資料が改竄されているって、どういう事だ?
その男達の問いに、答えずに、リュートはさらに言葉を重ねて言う。
「でも、いくら改竄したって、それだけ資料があれば、どこかには残されているはずさ。存在していたものを、まるっきり消すなんて、案外難しいものだからね。それに、もし僕の推測が正しければ、レンダマルに残ってなきゃおかしいんだ。証拠がなきゃ、あの鷹は納得しないだろうしね」
リュートのその言葉に、場はより一層困惑の色を増す。これには堪らないと、頼まれた当人であるオルフェが口を開いた。
「そ、そりゃあ、親父もこっちに来ているから、レンダマルの資料庫なんて使い放題だが、面倒な事はお断りだぞ。私にだって、仕事が……」
「勿論、ただで、とは言わないよ」
オルフェの抗議を受けて、再び、リュートはその白い羽を、上等の椅子にゆったりと預けて、堂々と足を組む。そして、また、本筋とは関係ないような問いを眼鏡の男に向けて、語りかけた。
「ねえ、オルフェ。この王都に来る途中の宿屋で、あんたが書き付けていた帳面の事なんだけど」
その言葉に、オルフェがぎくり、とその身を強張らせる。それを敏感に感じ取ったリュートは、さらに続けて、彼にその事を問いつめた。
「あれ、あんたの個人的な預金の額だろ? 随分、ため込んでるね」
「お、お前、見たのか! あれを、お前、見たのか?」
リュートの指摘にオルフェはその顔をいつにないほど真っ赤に染めて、彼に再び抗議する。だが、それに返ってきたのは、ふふん、とあざ笑うような笑みだった。
「なんだ。ビンゴか。あの時、ちらっと入金の文字が見えただけだったけど。カマかけて、正解だね」
その言葉に、まんまと乗せられたことを悟ったオルフェは、慌ててその場を取り繕う。
「あ、あれは、そんなんじゃ、なくて……。その……」
「なんだよ。そんなに貯金してたなんて知らなかったぞ、オルフェ。一体何に使うつもりなんだよ。女か?」
狼狽えるオルフェに対して、レギアスが相も変わらぬ緊張感のない声でそう尋ねた。一方で、ランドルフだけはその事実を知っていたかのように、何も言葉を発せず、黙ったままでいる。
「お、女なわけあるか!あ、あれは……」
「詳しいことは、聞かないよ。ただ、あんたのその様子から行くと、まだまだ物いりなんだろ? いつぞやの戦いの後にも、給金弾んでくれと、ねだっていたものね」
リュートのその指摘に、レギアスはすぐにカルツェ城の戦いの後の会話を思い出した。
……そういえば、こいつ、投石機での活躍がなかったら勝利できなかったんだから、給金、たんと弾んでくださいよ、と言っていたっけ。
「それから、あんたは、こうも言ったね。『損得で動く以上に、効率的な動き方は知らない』と。なら……」
そう言いながら、リュートはその懐に手を突っ込んだ。そして、そこから取りだしたものを目の前の机の上に、ぱちん、と小気味よい音を響かせて、見せつけるようにして置いた。
「損得で、動いてくれないかな」
それは、オルフェの一ヶ月分の給料に相当するような、最高価値の金貨だった。
「これは、基本給。さらに、これに加えて、必要経費」
さらに、ぱちん、ぱちん、と机の上に、銀貨が並ぶ。
「これに、その仕事ぶり次第では、特別報酬」
ぱちん、ぱちん。
「それから、口止め料も、つけるよ」
とどめの、再びの金貨。
「……どうかな? 悪い話じゃ、ないと思うけど?」
煌めく金銀を前に、それにも増した金の髪の輝きを持つ男が、これ以上なく、爽やかに、笑っていた。
……ば、買収かよ……。
だらだらと、ランドルフとレギアスの額に、厭な汗が流れる。
「お、オルフェ、お前はこんなんで、動く奴じゃないよな。お前は……」
そう、同僚を信じる目で、レギアスは彼の方を振り返った。
「何なりと、御命令を。リュート様」
そこには、金貨を前にちらつかされて、白い羽にひれ伏す眼鏡の姿があった。
その姿に、残された二人の男の肩が、がっくりと、地に着かんばかりに落とされる。
「――オルフェ!! お前何、簡単に買収されてんだ! お前はそんな金で動くような安い男だったのかよ!!」
「な、何を言うか。わ、私は他でもない、このリュート君の頼みをだな……」
掴みかかって唾を飛ばさんばかりに抗議するレギアスと目を合わさぬ様にして、オルフェはそそくさと、懐に金貨を隠す。その様子を見るや否や、リュートはその碧の瞳を満足げに細めて、にっこりと言い放った。
「うんうん。オルフェは話の分かるいい子だね。くれぐれも内密に、親父さんには、ばれないようにね。信頼してるよ」
その言葉を受けて、ランドルフとレギアスが遠い目をしながら、内心で一つ呟く。
……だ、誰だよ。この悪魔に、地位と金という恐ろしいものを授けたのは……。
「さて、この件はオルフェに任せたとして、あとはレギアス。あんたにも頼みたいんだけどなぁ」
金で買ったオルフェから、今度はレギアスにその誘惑的な目線を移して、リュートが嗤う。その視線に、勿論レギアスは厭な予感を感じ取る。
「え、ええ? 俺? 俺はそんなに賢くねえし、それに……」
「大丈夫、大丈夫。レギアスの得意な事だよ。あのね、ちょっとここの侍女、誑かしてくれないかなぁ?」
あまりに、さらっと、爽やかに言われたその言葉に、再び二人は絶句する。それに構わず、リュートはさらにレギアスに詰め寄って、背の高い彼を下から見上げるようにして、にこっ、と嗤う。
「だって、前、レンダマルにいた時、翡翠館の侍女にも手、つけてたじゃないか。得意だろ? 女たらし込むの」
「……そう言えば、そんなこと、ありましたっけね……」
リュートのその言葉に、レギアスはその額に、だらだらと冷や汗を流す。それで、リュートがランドルフの主任護衛官になる羽目になって、それで彼にぼこぼこにされたのだ。忘れるはずも、ない。
「それで、たらし込んで、いろいろと聞いて欲しいんだ。ここの仕事の事。もし、勤務記録やら、日記やら、文書で残っているものがあるんだったら、それを調べて欲しい。……調べるのは、あの日のことだ。あの、僕らが初めて会った日、市長暗殺未遂事件の日前後のこの館のことを」
――市長暗殺未遂事件だって……?
「あ、あの私が、『東部解放戦線』のメンバーだった元秘書に殺されかけた事件の事か? あの事件があった時の、この館の事、だって?」
また、出された昔の事件に、ランドルフはさらに混乱して、そう尋ねる。
「そうさ。あの事件より少し前のこの館の勤務状況。それを、レギアス、あんたに探って欲しい。あんたの手管なら、侍女達もそれとなく話してくれるだろ。頼むよ、色男」
そう言うとリュートは、レギアスの手を取ると、その掌に、ぎゅっ、と金貨を握らせて、さらに彼の耳元で殺し文句を囁く。
「……これで、高級なお店行って来なって。噂じゃ、ガリレアの娼婦はこの国一番らしいじゃないか。天国見ておいでよ。ね、レギアス教官」
「おお。かわゆき我が弟子よ。お前の頼みなら、俺、何でも聞いちゃうよん」
殺し文句で、すっかりと瞬殺された様子のレギアスが、リュートに抱きついて、スリスリとその頬を擦りつけた。
……今度は、女で釣りやがった……。本当に、悪魔か、こいつ……。
もう、あきれ果てて、ランドルフにはそう呟く気力すらない。
「さて、あとは……」
金と女で釣られた男二人をその背後に控えさせ、リュートの碧の瞳がちら、と黒羽に向いた。これには堪らず、ランドルフが構えるように、その身を狼狽えさせる。
「な、何だ。わ、私に何をさせようって言うんだ。私は金でも、女でも釣られんぞ」
「分かってるよ、そんなこと。うん、でも、いいや。あんたはお見合いでもしてれば?」
「……は?」
あまりに拍子抜けの答えに、思わずその黒目が見開かれる。
「だって、あんたは今のところ、使えそうな所がないしさあ。うん、また坊ちゃんが使えそうな場面にでもなったら使ってあげるから、それまでおとなしく待ってなって。たまには、遊びに来て上げるからさ、ランディ」
言われた言葉よりも、最後の愛称に、いち早くランドルフは反応していた。
「お、お前!! だ、誰がその名で呼んでいいと許可した?! 母上にだって呼ばれたくない愛称なのに、何でよりによってお前が!!」
「いいじゃんか。可愛いよ。ランディ? 僕とは仲良くしておいた方がいいと思うけど?」
「な、何で、お前と仲良くしなきゃいかんのだ! 私はただ……」
そう抗議する、ランドルフの目の前で、何かを企むように、碧の瞳が、にや、と嗤った。
「ふうん、いいんだ。僕の家には、あんたの弟のクルシェが来るって言うのに、僕にそんな態度取っちゃって、いいんだ?」
突然出された弟の名に、再びランドルフは激しく狼狽えて、思い出したように、目の前のつんとすました白羽の男に掴み掛かって抗議する。
「そうだ! お前、さっき母上の頼みをどうしてあっさりと聞いた?! お前、どういうつもりでクルシェを預かるだなんて……」
「どうも、こうも、ないよ。今は大公の言う事、はいはいと聞いておいた方が得策だと思っただけさ」
「あの、糞親父の言う事だと?」
再び、ランドルフにはリュートの意図が理解出来ない。預かってほしいと言い出したのは父ではなく、あの母の方だったからだ。
……それが、大公の意向だって……?
「そうさ。さっきマダムが大公の意向でもあると言っていたじゃないか。あんたの糞親父殿はね、どうしても弟を僕の元に寄越したかったんだよ。僕が選定候になってしまったら、僕はあんたの臣下じゃなくなるからね。今度はあんたの弟を僕の側に置いておくことによって、僕をロクールシエン家につなぎ止めておきたいのさ。……僕が、血縁である北の大公家に靡かないように。そして、僕を東部派につなぎ止めておくために、だ」
「……そのために、クルシェまでこの王都に呼び寄せたっていうのか?!」
「おそらく、ね。行儀見習いは建前さ。だって、どう考えても僕しかいない選定候家に行儀見習いなんておかしいじゃないか。まったく、次から次へ、色んな手を打ってくるよね。ま、今は、はいはいと可愛い飼い猫でも、演じておくとするけど、ね。まあ、毒を食らわば、皿までってね……」
……こいつ、私より遙かに、親父の事を分かっている。……いや、それ以上か。
分かっていて、利用しようというか、この男。
改めて、ランドルフは目の前の男に、戦慄を覚える。
あの、戦争の時もそうだったが、このリュートという男は、恐ろしいほどに勘が鋭い。いや、鋭くなった、と言うべきだろう。
……あの、兄の死によって、だ。
あの兄の死の後、何か、そう、覚醒するかのように、眠っていたこいつの勘が目覚めた。そんな気がしてならない。
これが、英雄の血、とでもいうべきものなのか。それとも……。
そう、思案するランドルフの目の前に、可愛らしく小首を傾げた、碧の瞳が現れる。
「何? 心配してるの? 大丈夫、あんたと違って、可愛い子だから、大事にするよ。ランディお兄ちゃん?」
「――馬鹿たれ!!」
その言葉に、再び真っ赤になったランドルフが、怒りの鉄拳を振り下ろす。だが、その拳を向けられる金の頭は、ひょいひょいとそれを軽くかわして、ぺろり、と舌まで出して見せた。
「くそっ……。本当にお前という奴は!! 一体、何を企んでいる? せっかく返還された財産まで使って、一体どういうつもりだ!!」
息を切らせて、忌々しげにそう問うランドルフの目の前で、再び碧の瞳がにっこりと嗤う。
「ふふ、投資だよ、投資。僕の推測が正しいことを証明する証拠が欲しいのさ。それがあれば、あの大公も毒蛇も出し抜けるかもしれないと僕は踏んでいる。そうなったら、こんなはした金、安いものさ。今ある金なんて、家の使用人とオルフェ達を養うのが精々……。それじゃ、到底僕の望みには足りないからね。まだまだ、これから、これから……」
そう目の前で、二人といない美麗な顔で嗤いながら、ぷに、と自分の頬をつまんでくる男に、ランドルフは一つ思う。
……これといると、本当に胃に穴が空くかもしれん……。
「そいじゃ、ま、今日の所は退散するとしますかね。僕はこれから王宮に行かなきゃならないんで」
「王宮、だと?」
きりきりという胃の痛みをそこはかとなく感じつつあるランドルフには一向に構わず、リュートはまたその瞳を、ロクールシエン夫人に向けていた子猫の様な眼差しに変えて、彼に言う。
「うん。ちょっと、国王陛下におねだりに、ね」