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第三十三話:山猫

「さようなら、我が君」

 

 

 男の額に、たらり、と厭な汗が流れる。

「……と、言ったのは、どこのどいつだったかな」

 

 朝一番に目にした恐ろしい光景に、かつて『我が君』と呼ばれていた男が、頭を抱えて、一つ、そう呟いた。だが、その言葉を向けられた当人は、それをまったく意に介さず、極めて爽やかな声で答える。

 

「僕だけど、何か?」

 

 この、爽やかな冬晴れの朝にふさわしい、清らかな声。その声に、また男はその額にさらに汗を滲ませる。

「……うん。そう、自覚はしているんだな。結構、結構。ならば、その、お前が。……私に別れを告げたはずのお前が、何故……」

 そう言いながら、『我が君』と呼ばれていた男はもう一度、目の前の光景を、その黒い瞳で確認した。

 ……認めたく、ない、光景だ。

 

「そのお前が!! 何で、こんな朝っぱらから、うちで堂々とくつろいで、挙げ句に、どうして、母上と仲良く茶まで飲んどるんだ!!」

 

 王都の中心にある、この麗しきロクールシエン家の館に、この家の息子であるランドルフの怒声が、これでもか、と、響き渡った。

 

 

 そう、たった今、起きたばかりの、この大公家の若君の寝ぼけ眼を、まるで氷で突いたかのように、一気に覚まさせた光景。それは、自分の母親と仲睦まじい様子で堂々とお茶をし、このやんごとなき大公の館に、違和感なくとけ込んでくつろいでいる、この金髪の男の存在だった。

 

「なんで、お前が、うちにおるんだ、リュート! お前は自分の屋敷を貰ったはずだろう!?」

 未だ寝間着姿のままのランドルフが、悠々と茶をすする白羽の男に掴みかかる。

 ……この男、昨日、あれだけの台詞を吐いておいて。ああ言って、自分から離れておいて。あれだけ、冷たい目で自分に別れを告げておいて。

「何で、何で、その昨日の今日で、もうお前はうちに住み着いておるんだ!! リュート!!」

 

「……やだな。住み着くだなんて。まだ、返還された屋敷の掃除やら整理やらを使用人達がしている最中なので、ちょっと遊びに来させて頂いているだけですよ。ねえ、マダム?」

 ランドルフの問いに、目の前の白羽の男はしゃあしゃあと答えながら、隣の貴婦人に微笑む。

「ええ、ええ。よろしいのよ、私も貴方のような若い殿方と朝からお茶することが出来て、嬉しい限り。いいわねえ、爽やかな朝に、こんな美男子とお茶出来るなんて。ええ、ええ、どこぞのみっともない寝間着姿の馬鹿息子なんぞ、視界に入れたくもありませんとも」

「……母上! あなたまで!」

 すっかりとこの白羽の男に魅了された様子の自分の母親に、ランドルフはやるせない様に、その頭を抱えて、寝癖のついたままの黒髪をがしがしと掻きむしる。

 

 ……昨日、あれだけ、この男のことで悩まされておったのに。

 これに真実を話すべきか、そして謝罪すべきか、いや、自分にはその資格すらもないか。もう、これは自分の元から去っていってしまったのだ、と、あの後もずっと悩んでいたというのに、この当人ときたら……。

 

「あ、ランドルフのおぼっちゃまも、ご一緒にお茶など、いかがです?」

 

 何喰わぬ顔で、悠々と茶まで勧めてくる。

 ……これでは。

 これでは、あれだけ悩んでいた自分が馬鹿みたいではないか!!

 

「この、気まぐれの山猫め! 私が、私が、昨日、どんな思いでお前を見送っていたと……」

 そう言って掴みかかるランドルフの目の前で、にっこり、と美麗な顔が微笑んだ。

 

「あれ? 僕がいなくなったと思って、寂しかったの?」

 

「――だ、だ、だ……誰が、誰が、誰が!! お、お前なんかいなくなって、いっそ、清々したわ、このクソ生意気な山猫!」

 突然の発言に、その顔を真っ赤にしながらも、ランドルフは、昨日まで臣下だった男を、いつもの如く『山猫』と揶揄してみせる。だが、それに対して、返ってきた答えは、いつものツン、と澄ましたような態度ではなかった。

 

「……ひどい」

 

 ふるふると、目の前の碧の瞳が潤んでいた。そして、ご丁寧に、すんすん、という鼻を啜る音まで立てている。

「ひどい……。そんな風に言わなくたって、いいのに……」

「り、リュート?! お、お、お、お前、一体何のつもりだ。そ、そんな……」

 いつもとあまりに違う反応に、思わずランドルフは狼狽える。すると、その男の泣き様を見たランドルフの母が、立ち上がってその息子に食って掛かった。

「ランディ! 貴方、なんて事を言うの! こんな素晴らしい貴公子に向かって、『山猫』だなんて!」

「き、き、き、貴公子?! これが、貴公子?! 貴公子?」

 この目の前の男の性格には、あまりにも似つかわしくない単語に、ランドルフは思わずその単語を壊れたように連呼した。それに構わず、さらに、リュートはその瞳を子猫のように潤ませて、貴婦人に向かって哀れっぽく泣いてみせる。

「いいんです、いいんです、マダム。僕は蔑まれても仕方のない育ちですから。大公家のやんごとなきお坊っちゃまにしてみれば、僕みたいな平民育ちなんて……」

「まあ、まあ、まあ。そんな事ありませんとも。ランディ! この方がいくら素敵な貴公子だからって、嫉妬して意地悪するんじゃありません!」

「し、し、し、嫉妬!? い、い、い、意地悪?」

 もう自分の言葉すら出てこないランドルフを尻目に、リュートはさらに、隣のランドルフの母を潤んだ眼差しで見つめる。

「なんて、なんて、お優しいマダムなんでしょう。ええ、大公家の奥方様というからには、どのように気位の高い方かと、気後れしておりましたのに。だって、昨日、祝勝会で出会いました貴族の方達と言ったら……」

「あら、あら。宮廷で意地悪されたのね、可哀想に。どうせ、あの狐でしょう。大丈夫よ、私が守って差し上げますからね」

「ああ、マダム。貴女のような方にそう言って頂けるなんて、なんて光栄なんでしょう。この若輩者にどうぞ、宮廷の事、色々お教えくださいましね」

 リュートの口からつらつらと出てくる台詞に、ランドルフはその全身にぞわぞわと鳥肌を立てる。かつて、この男の口からは聞いたことのない可愛げのある台詞。それに、ランドルフは嫌な予感を感じ取り、二人の間に割って入って抗弁する。

「は、母上、騙されてはいけません。こいつはね……っっっ!!」

 だが、ランドルフに、その先の台詞を紡ぐことは出来なかった。なぜなら、目の前の男が、とびきりの微笑みを浮かべながら、机の下で、思いっきり、ランドルフの足を踏みつけていたからだ。

 

 ――黙れよ。

 

 目の前の微笑みと、ぐりぐりと踏みつける足は、無言で、そう語っていた。

 

「お……お、ま、え……な……」

 あまりの痛みに、絞り出すように発せられたランドルフの声を遮るかのように、リュートはその足を踏みつけたまま、またも貴婦人との距離を詰めて、彼女をその美しい碧の瞳で見つめて言う。

 

「マダム。ええとね、僕、今度開かれる王妃様主催のパーティーにぜひに、と招待されたんですけどね、ほら、僕、特に女性の事には疎くて。どうしたらいいかと悩んでいるんです。ねえ、マダム。僕どうしたらいいでしょう」

 今にもキスされんばかりの距離で、この美男子にねだるように見つめられては、さすがの大公夫人とて抗う術はないらしい。その頬を嬉しそうに上気させ、得意げになってお喋りを始めた。

「まあ、まあ、王妃様の。ええ、あの方はちょくちょく盛大なパーティーをお開きになるのよ。そうね、多いときは週に二三回ほども。王宮は勿論、ご実家である北の大公家の館の方でもね。いつも、素敵なドレスを新調なさって、それは素晴らしいのだけれど、でも、ねえ……」

 そこで、夫人はその自慢の黒髪を一撫でして、溜息をつく。

「……でも、なんです?」

「いえね、確かに素晴らしい宴ではあるのだけど、こうもちょくちょくあるとね。こちらも着た切り雀と言うわけにはいかないでしょう? 大公家の威信、というものもありますから、こちらも衣装代やら何やらかかりますのよ。正直、もう少し減らして頂けると助かるんですけれど。それにね、あの、狐」

 何かを憚るように、夫人は手に持っていた扇でこそり、とリュートに耳打ちするように話しかける。

「ええ、王妃様は少々派手好きが玉に瑕だけど、基本はお優しくて、人好きのする方なの。でもね、あの兄。北の大公と来たらそりゃあ、王妃様の権威を笠に着てやりたい放題。さっきも言ったでしょう、大公家でのパーティー。そこで、これでもかと湯水のように金を使って、中央の貴族共を取り込んでいるのよ。特に、西の大公家が、ばたばたしている、今のうちにね」

「西の、大公家?」

 王国西部を治める四大大公家の一つだ。確か、昨日の祝勝会にはいなかったはず……、とリュートはその記憶をたどる。

 

「ええ、そうよ。ちょっと前までは北の狐に対抗するように、西の大公様が宮廷にいらっしゃったのだけれどね、先日お若くしてお亡くなりになられて。今は幼い若君が成人するまで、ご夫人がその代理として政務を務めていらっしゃるの。その隙をついて、あの狐が最近めきめきと宮廷で力を伸ばしてきたのよ」

 心底、忌々しいといった表情で、貴婦人は歯噛みする。

「それであの銀狐ときたら、他の中央の貴族と一緒になって、そりゃあ、私たち東部に嫌がらせばかり。ええ、あの出征だってそうでしょ? 結局、東部が力を持つのが気に入らないのよ。本当に、嫌らしいったらないわ、あの銀狐。利用されている王妃様が、本当におかわいそう」

 夫人の言葉に、リュートは昨日会った王妃の姿を思い浮かべる。

 自分の母に、よく似た容姿、そして、いつまでたっても少女の様なあどけなさ。確かに、兄に利用されていたとしても、それに抗うどころか、利用されている事すら気づかないのではないか、と思わせる様な雰囲気の女性だった。

「王妃様はね、華やかで貴婦人達の憧れの的でもあるのだけれど、ちょっと、鈍いところがおありでね。あ、そうそう、鈍い、といえば、最近後宮に入ってきた占い師よ」

「占い師……?」

 そう言えば、昨日、王妃付きの女官が、言っていたな、とリュートは思い当たる。……確か、占い師に、幸運色だったっけか。

「そうよ、占い師。ええと、確か、あなた達が出征してからだったかしらね、あの占い師の噂が聞こえてきたのは。ええ、最近、王妃様の専属として雇われた占い師がいるんだけどね、これがまたよく当たる占い師らしいのよ。それで王妃様、すっかり占いにのめり込んでしまって、今や、すっかり占い、占い、占い、でね。まあ、あの鈍い王妃様らしいといえば、そうなのだけど。それで今度の立太子の礼の日取りだって、占いがいいからとわざわざ前倒しされたほどよ」

「……立太子の礼?」

昨日、王子が言っていた言葉だ。王子が、正当なる王位継承者、すなわち王太子になる、という儀礼だろう。それの、前倒し、か。

「ええ。春にある御前会議の直後よ。貴方もご出席なさらなきゃね、御前会議には。なんと言っても、大公と選定候全てが揃う会議ですもの。でも、その重大な会議の直後に、立太子の礼というのもねえ。まったく、占い師の言いなりの王妃様にも困ったものだわ」

呆れたように、夫人は大きく溜息をつく。


「へえ。それでその占い師はどんな人物なんですか?」

「私はまだ会ったことがないんだけどね。……ああ、彼女なら知っているわ。タミーナ!!」

 そう言って、夫人は後ろでお茶請けの準備をしていた侍女の名を呼ぶ。確か、最初にこの屋敷を案内してくれた侍女だ。

 

「彼女はこの王都の館を取り仕切っている侍女で、王宮の事にも詳しいのよ。ねえ、タミーナ。確か、あの占い師は……」

「はい、いつも占い師のローブを被っておられるので、お顔ははっきりと私も見たことがありませんが、まだ若い女性だそうですよ。今や、宮廷中の貴婦人に引っ張りだこで。奥様も宮廷の話題に乗り遅れないように、一度占ってもらわれたらよろしいのに。私、後宮になら顔が利きますから、ご予約お取りしますよ」

 変わらぬ品の良い声で、侍女は夫人にそう勧める。どうやら、この侍女もすっかり、宮廷風というのに染まっている様子だ。

 ……王妃への御追従の為の、占いか。下らない……。と、内心でリュートは呟いて、その苛立ちを紛らわすかの様に、さらにランドルフの足をぐりぐりと踏みつけた。

「お……お前な……!」

 その息子のうめき声に、はた、と夫人が気づいたように言う。

「ああ、そうだ、ランディ! 貴方占って貰いなさいな。ええ、それがいいわ。未来のお嫁さん候補!!」

「は、はあ?」

「どこの姫がお嫁にきてくれるかしらねえ。今から楽しみだわぁ。タミーナ、予約取れるかしら」

 そのうきうきとした夫人の表情とは裏腹に、侍女が困ったように言う。

「そりゃあ、ご予約はお取りできますけど、後宮に若様は入れませんでしょう。男子禁制ですもの、後宮は」

「ああ、そうだったわ、残念ねえ。でも、また何かあったらお願いね。……ああ、そうだ、お願いと言えば」

 この年頃の婦人にはよくあることなのだろうか、このロクールシエン家の奥方は思いつくままにその話題を変えて、聞きもしないことをぺらぺらと喋ってくる。

 

「お願いと言えば、クルシェのことよ」

 突然出された弟の名に、一瞬ランドルフが動揺する。その息子の様子には一切気づかぬ様子で、夫人はリュートに改めて向き直って、懇願するように彼に言う。

「ええ、この子の弟の事なんだけどね。もうじき十四になるんだけど、そろそろ他家に行儀見習いに出そうと思っていてね。この子と違って、次男でしょう? いずれは他家に養子として迎えられるかもしれない身だから、今の内に他のお家に慣れておいたほうがいいでしょう? それで、しばらく西の大公家にでもご厄介にならせて貰おうと思っていたんだけど……」

 その突然の母の言葉に、兄であるランドルフが喰って掛かった。

「ちょ、ちょっと待って下さい。クルシェを他家にだなんて、そんな……」

「貴方は黙っていなさい、ランディ! これはお父様もそして本人も納得済みのことなの! ちっとも本邸に帰ってこない貴方がクルシェの事に口を出すんじゃありません!!」

 夫人の言葉に、リュートは初めてこの屋敷に来たときに会った、黒髪の少年の姿を思い出す。

 あの少し怯えたような、この兄とのぎこちない会話……。

 

「ええ、それでね、リュートさん。さっきも言った通り、今、西の大公家は先代がお亡くなりになって、クルシェの面倒をみるどころじゃないのよ。そこで、貴方にお願いがあるのだけれど……」

 今度は夫人がリュートにねだるような視線を向ける番だった。

 

「ねえ、貴方のところで、弟のクルシェ、預かってくれないかしら」

 

 その母親の、予期しなかった突然の申し出に、兄であるランドルフが、泡を食ったように、おたおたと動揺をみせる。

「な、な、何を言っとるんですか、母上!! こ、これに、この山猫に、クルシェを預けるですって? 気は確かですか?!」

「何を言っているの、はこっちの台詞です、ランディ! この方は貴方よりずっと気品がある立派な貴公子よ。これはお父上の意向でもありますし、それに、やはり大公家の息子を預けるのですから、選定候家くらいでないと釣り合わないしね。いかがかしら、リュートさん。歳も近いし、本当に弟として接してくれて構わないのだけれど……」

 

 その母の嘆願に、ランドルフは内心で、ふん、と嗤う。

 ……甘いな、母上、これがそんな面倒なこと、請け負う訳がない。なんせ、こいつは自分の兄の事しか頭にない奴で、この主君だった私の事すらこうやって足蹴にする奴なんだ。それが、まさかあのクルシェを預かるわけが……。

 

「よろしいですよ」

 

 ……にっこり。

 ランドルフのその思いを、あざ笑うかのように、目の前の美麗な顔は、清らかに微笑んでいた。

「あの可愛らしいおぼっちゃまでしょう? ええ、あんな子がうちに来てくれるなら大歓迎です。丁度、僕も一人で寂しかったところなんです。ましてや、僕の復権に助力してくださった貴家の頼みをどうして断れましょうか。どうぞ、僕でお役に立てるなら、なんなりと」

 その恐ろしい言葉に、ランドルフはまるで自分の体が石になったのかと思うくらいに、カチン、と固まる。一方で、リュートはそんな彼に見せつけるかのように、夫人の手を取って、その手の甲に、ちゅ、と口づけして見せた。

 これには、夫人も堪らぬ、といった様子で、その顔を真っ赤に赤らめて、激しく動揺する。

「まあ、まあ。ど、どうしましょう、こんな素敵な貴公子に……」

「こちらこそ、こんな上品な貴婦人の頼みを聞けて、大変光栄に存じますよ、マダム。ああ、そうだ。また今度、僕と一緒に……」

 そう言うと、リュートはランドルフには聞こえぬ様に、夫人の耳元でそっと、何やら囁く。それを聞くなり、夫人の顔がさらに、茹で蛸のように赤くなった。

「まあ、まあ! リュートさんったら! もう、いけない子ね! ああ、もう、私これで失礼致しますわ。そ、そう、クルシェの準備をしてやらないとね!!そうそう、準備、準備! あ、ああ、そうだ、西の大公家にもお断りとお詫びの手紙を書かなきゃね。タミーナ、貴女いつものように、書いておいてね。そ、それじゃあ、また、ね、リュートさん」

 その動揺を隠すかのようにして、夫人はそそくさとその場を立つ。だが、その顔はと言えば、まんざらでもない様子だ。……さしずめ、恋する乙女、といった、顔。

 その照れながら去っていく夫人と侍女達の後ろ姿が、部屋から出て行くのを確認すると、リュートはその微笑みを別のものに変えて、ふふん、と言い放つ。

 

 

「ちょろいね」

 

 

 ――パァン!!

 辺りに、破裂音が響く。

 

「お前は何、人の母親たぶらかしとるんだ!!! くおの馬鹿たれのクソ山猫め!!!」

 この言葉には堪らず、今まで足を踏まれたままだったランドルフが、リュートの頭をはたいていた。さらに、それでも気が収まらぬ、と言った様子で、ぎりぎりとその首元にまで掴みかかる。

「ええ?! 何が、貴公子だ! 何が、マダムだ! 何が僕でお役に立てるなら、だ!! どの口が言うか、どの口が!!」

 その唾を飛ばさんばかりの、ランドルフの猛抗議に、リュートはその眉一つ動かさず、しれっと言い放つ。

「うっさいな。坊っちゃんは黙ってろよ。これぐらいでおたおたしてんじゃねーよ、能なし」

 

 あまりの暴言に、一瞬、ランドルフの思考が停止する。……今、何と言われた?

「い、い、今の言葉、だ、誰に向かって……」

「あんただよ、ランディ坊ちゃん。別に、僕とあんたは、もう臣下でも主君でもないんだ。そう言うあんたこそ、僕、誰だと思ってんの」

 

 再びの、思考停止。

 

 ……こいつ、さらに、凶悪に、なっとる。

 

 誰だよ、こいつ。選定候に、したの。

 

 

「お、お前、どういうつもりだ! う、うちの母親たぶらかして、一体どういうつもりで……」

 何とかその気を保って、そう問いつめるランドルフに、またも、ふん、と鼻が鳴らされる。

「ただの情報収集だよ、ただの。宮廷の事ならご婦人方の方がよく知っているだろうと思ってね。いや、おかげでなかなか有益な話が聞けた。あんたよりよっぽど役に立つね、マダムは。宮廷の占い師に、御前会議、前倒しの立太子の礼、ね……」

「じょ、情報収集って、ええ? お、お前、また、何か……」

 そう問いつめるランドルフに構わず、リュートはきょろきょろと辺りを見回す。

「丁度いいや。あんたにも釘を刺しておこうと思ってたんだ。あ、それからレギアスとオルフェも呼んでよ。そうだな、ちょっと他の人間に聞かれたくないから、うん、あんたの部屋でいいからさ、さっさと人払いして、案内してよ」

 ……これが、ついこの間まで、臣下だった男の言葉か。

 ランドルフは、また殴りたくなる衝動をぐっ、と堪えて、小さくそう呟いた。

 

 

 

 

 

「なんだ、酒臭いな」

 部屋に入るなり、リュートは鼻をつまんで、そう抗議してみせる。それも、そのはずで、ランドルフの寝室も兼ねたこの部屋には、昨日祝勝会から帰った後に、呑み散らかしたままの酒瓶が、机の上に転がったままになっていたからだ。

「ふうん、なんだ。やっぱり僕がいなくなって、寂しくて、泣きながら呑んでたの? 可愛いね、あんた」

 そう言って、空いている方の手で、つん、と同じようにランドルフの鼻をつまんでくる。

「だ、誰が、お前のことなんか!! な、悩んでいたのはお前の……」

 ……お前の、父親のことで、だ。

 そう、言うべきなのに、ランドルフの口からは、その先の言葉が出てこない。何か、その口に石でも詰め込まれたかのように、押し黙ってしまう。

「なんだよ、はっきりしないな。言いたいことが、あるんだったら……」

 

「リュ・ー・トぉ!!」

 

 言いかけたリュートの言葉を遮るように、レギアスが部屋に飛び込んできていた。後ろには眼鏡のオルフェの姿も見える。

「リュート! リュート! 帰ってきたのか、可愛い我が弟子よ。昨日、あんな事言うから、俺、ずっと心配してたんだぞ。もう、お前に会えなくなっちまうのかと……」

 まるで大きな犬の様に、彼に、ひし、と抱きつくレギアスの巻き毛を、リュートは、よしよしと撫でてやる。

「ごめんね、レギアス。オルフェも。うん、でも、別に帰って来たってわけじゃ、ないんだよ。……まあ、とりあえず、みんな座ってよ。話があるからさ」

 そう言うと、リュートはこの部屋の主人が座るべき上等の椅子に、その背の白い羽を預けて、ゆったりと座った。

 

 

「話っていうかね、ちょっと、釘をさしておこうと思って」

 おもむろに、そう言い出したその目は、さっきまで夫人に向けていたものとはうってかわって、恐ろしいほどに挑発的だった。

「あのね、どうやら、僕、宮廷では、おとなしくて、東大公に利用されているだけの可愛い子猫ちゃんだと思われているらしいんだ」

 言われた言葉に、居合わせた三人の男が、絶句する。

 ……こ、子猫ちゃん。こ、これが、子猫ちゃん……。

 

「それなら、それで、都合がいいから、僕、その路線で行こうと思うんだ。だから……」

 ぎらり、と碧の瞳が光る。そして、射抜くように三人の男を睨み付けて一言、言う。

「そのつもりでいてね。……邪魔すると、容赦しないよ」

 次に、誰かの前で『山猫』とか言ったら、殺す。……その目は、そう語っていた。

 その本気の視線に震え上がる三人を尻目に、またもリュートは悠々と言葉を連ねた。

「ま、あちらさんが、そうやって侮っていてくれるなら、結構、結構。こちらも利用するだけさ」

「あ、あちらって……?」

「決まっているだろう? この王都の毒蛇共全員だ」

 そう、レギアスの問いに答えると、リュートはその背をより一層椅子の背もたれに預けて、その脚を組んで、堂々と言い放つ。

 

「僕はね、あいつらの言いなりになる気は、毛ほどもないよ」

 

 その言葉に、ランドルフ達の目が、一瞬、揺れる。


「僕はね、こんな腐った王都で、親父共の手駒になる気も、宮廷の愛玩動物になる気もないよ。まあ、くれるって言うんだから、選定候の位はもらってやってもいいけど」

 ふふ、とリュートの口から、嗤いが漏れた。それにつられるかのようにして、三人の口も不敵に歪む。特に、ランドルフはもう堪らない、と言った様子で、唸るように言葉を絞り出した。

 


「……そう、こなくては。お前は、そうこなくてはな。『山猫』」


 

「だろう? ……で、それで? ……あんた達は? あんた達は、我慢できるの? あんな風に親父共にコケにされてさ。それで、あんた達は終われる?」

 リュートの指が、何かを誘うように、三人の男達を指し示す。それに、もう諦めたように、男達は首を横に振って答えた。

「……おうおうおう。また焚きつけおるわ、この跳ね返りの、山猫め」

「ホント、ホント。また、俺ら、乗せられちゃうのかねぇ」

「悔しいが、仕方がない。ここは、もう、いっそのこと、率先して乗ろうではないか」

 

 その、三人三様の言葉を聞くなり、リュートの瞳が、かつてないほど優雅に、そして凶悪ににっこりと微笑んだ。

 

 

「――だから、好きさ。あんた達」

 

 

 


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