第三十話:王宮
「よし、いないな」
美しく剪定された木々の間から、ひょっこりと顔だけを覗かせて、一人の男が、辺りの様子を窺う。
青年、というにはまだ、少々幼さが勝ちすぎている顔。いたずらな、十五歳の少年の顔だ。
えてして、十五という歳は少年と大人の間に位置する、微妙、かつ多感なる時期ではあるのだが、この少年もご多分に漏れず、その心にのっぴきならない悩みというものを抱えて、この場に隠れていた。
「……ふう、思った通りだ。今日は、ここの警備は薄いな。これなら、今日こそ中庭を抜けられるか……」
一つ、気合いを入れるかのようにして、少年の袖が捲られる。金襴の刺繍が細かく施された、上等の服の袖だ。
その生地が傷むことなど、一向に気にしない様子で、少年は木々の枝の間を隠れるようにして、その身を中庭の方へとじりじりと移動させていく。
いつ見つかるかもしれないというスリルと輝く未来への希望が、ドキドキと、少年の心を激しく躍らせていた。その鼓動を、確かに感じながら、少年は内心で呟く。
……よし、ここを抜ければ中庭だ。あとは、近衛兵の交代時間を待つだけで、晴れて僕は自由の身。もう、こんな牢獄うんざりだ。こんな上等の上着も、最高級の食事も、どうだっていい。僕が欲しいのはただ一つ。……自由だ、自由! 誰にも縛られない自由が、僕は欲しい!!
カーン、カーン……、と鐘の音が響き渡る。近衛兵の交代の時間だ。
――今だ!!
少年は意を決したかのように、その翼を木々の間から羽ばたかせ、中庭へと抜ける。思ったとおり、兵士はいない。
「よし、あとはここを突っ切れば……!!」
そう叫んで、輝く自由な未来へ、少年は意気揚々と飛び出していくはず……だった。
「どうも」
その声と共に、碧の輝きが、少年の、青い瞳を射抜くように見つめていた。
近衛兵が去った誰もいないはずの中庭、その中心にある銅像の前に、男が一人、凛として、立っていた。
鋭さのある深い碧の瞳、冬の薄い太陽の光を受けて、きらきらと輝く金髪、そして、何よりもその背の翼。この少年のものよりも遙かに白い、純白。
それは、見たことがない、美しい男だった。
「……こんにちは」
堂々と、挨拶をしてきた。
……この、自分に、だ。この、自分に、『こんにちは』などという挨拶をしてきた。
少年は、その当たり前とも言える行為に絶句する。それも当然と言えば、当然である。少年は、今まで『こんにちは』などという庶民が使うような言葉を投げかけられたことがなかったからだ。
「こ、こんにちは」
辿々しい少年の挨拶に、心なしか男の碧の瞳が細められる。そして、一言、世間話でもするかの様に、目の前の銅像を指さして、話しかけてきた。
「この銅像、誰です?」
その言葉に、再び少年は驚愕する。
……この男、知らないのか?この僕だけでなく、この銅像が誰なのかすら知らないのか?この、この格式高い王宮の中庭に居られる様な身分の男なのに?!
「し、獅子王だよ。獅子王、ピリス一世。ほ、本当に知らないの?」
少年のその言葉に、目の前の白羽の男は、思い当たったようにその首を縦に振った。
「ああ。先の統一戦争の時の。今の王家の始祖だね。そうか、これが……」
そう言って、碧の瞳が目の前の銅像を舐めるように観察し始める。
銅で作られた堂々たる体躯に、大きな翼。そしてその頭には獅子の鬣を思わせる豊かな髪。それは、約百年前に、このミラ・クラース王国を統一した、不世出の英雄の姿だった。
「こ、この銅像を知らないなんて、あ、貴方、一体何者? み、身なりからして使用人じゃないみたいだけど」
「いや、今日、初めてこちらに招待された者ですのでね。無知で申し訳ない。少し時間があるので、散歩をしていたらこの銅像を見つけたんですよ。そういう貴方も、身なりからして使用人じゃないみたいですが?」
男の問いに、少年は、はた、と気づく。
「そうだ! こんな所でぐずぐずしている場合じゃなかった! 早くしないと、うるさい奴が……」
「うるさい奴、とは私の事ですか」
少年の後ろから、よく通る若い男の声が、投げかけられた。
見たところは二十代の後半くらいの年頃だろうか、猫の毛を思わせる、ふわりとした淡い茶色の髪に、それに合わせたかのような薄い栗色の翼。そして、嫌味なほどに長い睫毛に彩られた大きな瞳。その腰には、彼が武人であることを明確に語っているよく使い古された剣。だが、その無骨な剣の輝きとは裏腹に、男はどこまでも華やかで雅やかな雰囲気を、その体全体に纏った男だった。
「ら、ラディル!!」
その若い男のものと思われる名を、少年が呼ぶ。
「ようやく、見つけましたよ。このようなところにいらっしゃるとは、さてはまた脱走でも試みられるおつもりでしたか。……甘い、甘い。この先にも近衛兵を配置してありますとも。そうは簡単にいくものですか」
余裕の笑みを漏らしながら、長い睫毛の瞳がうっすらと細められた。
「さあ、こんな所でぐずぐずしている暇はありません。じきに謁見のお時間ですよ。早くお着替えになってくださいまし」
「嫌だ!祝勝会なんてくだらないもの、僕は出ないぞ!それよりも僕は城下に……」
抗う少年の言葉を、まるで聞こえていないかの様に、男が少年の身柄を駆けつけてきた近衛兵に引き渡す。
「待ってくれよ、ラディル! 僕は……」
近衛兵に囲まれながら、少年は振り返って、先に会話した白羽の男にその目線を向ける。まるで何か助けを求めるような瞳だ。それを断ち切るかのように、栗色の髪の男が、一言、ばっさりと言い捨てた。
「さあ、陛下がお待ちですよ、お早いご準備を」
少年の姿が見えなくなるのを確認すると、睫毛に彩られた栗色の瞳が、銅像の前の白羽の男に向く。そして、値踏みでもするかのようにして、その姿を頭から足先まで、観察すると、ようやく口を開いた。
「どなたです?この宮廷では、一度もお見かけしない顔ですね」
その舐めるような視線にも、少しも動じない様子で、白羽の男が答える。
「今日の祝勝会に呼ばれた者ですよ。それにしても、宮廷というからには、どれだけのものかと期待してきてみれば、何て事はない。自分が名乗りもせずに、他人に名を聞くような作法がまかり通る、無粋な所なのですね」
その嫌味に、ぴくり、と栗色の瞳が動く。だが、それも一瞬で、男はすぐにその瞳に余裕の色を戻らせ、優雅に礼をして、悠々と答えた。
「……これは、失礼を。私、ラディル・ミルアーウルフと申します。この王都と王宮を守る近衛隊の長にして国王軍第三軍の長。選定候の一人です。どうぞ、お見知りおきを。……それで、今日の祝勝会と申しますと、もしや、貴方様が、……『白の英雄』殿?」
目の前の白羽の男の身分を確かめるかの様にして、栗色の瞳が動く。その呼称に、目の前の碧の瞳が、にや、と不敵に歪められた。
「ええ。まあ、そう呼ばれている者です。こちらこそ、お見知りおきを。近衛隊長殿」
一瞬、二人の間に、ピンと張りつめた空気が流れる。
……先代の近衛隊長でもあったシュトレーゼンヴォルフ選定候の復権。
その情報は、当然、この現近衛隊長の耳にも届いていたからである。その動揺を隠すかのようにして、現近衛隊長が、さらに言葉を紡ぐ。
「ところで、英雄殿。貴方、先にあの方と何を話されていたのです?よもや、この王宮の……」
「いや、単なる世間話ですよ。お気遣いなく」
そう、目を伏せて静かに答える白羽の男に、再び、ラディルという近衛隊長の厳しい瞳が向けられた。
「そうですか。それは何よりですが、一つだけご忠告を。あの方に、そうそう気やすく話し掛けられぬほうがよろしいですよ。何となれば……」
そこで、もったいぶるかのようにして、男は言葉を区切る。
「あの方は、畏れ多くも、この国を統べる国王陛下の第一子、ヨシュア・ピリス・ガリア王子であらせられるのだから」
それでは、また後で、という言葉を残して、王子の後を追うように、近衛隊長は去った。
「……ふん。王子様、それに、近衛隊長殿、ね」
嫌味たらしいまでの睫毛の男がその場を去ると、白羽の男の口から、何か値踏みするような言葉が漏れる。と、同時に、別の方向から、見知った黒羽が駆けてくるのが見えた。
「リュート! お前、こんなところにいたのか。もうすぐ謁見の時間だぞ! まったく、お前は本当に猫の様に、目を離すとすぐに消えてしまうんだから……」
最近ではもう聞き慣れた黒羽の男の小言に、にっこりと碧の瞳が細められる。
「お前、ここがどこか分かってるのか? 王宮だぞ、王宮! その中庭までふらふらと、お前は……。まったくこれから陛下に謁見の後、祝勝会だというのに」
「分かってますよ。ここは宮廷、『毒蛇の巣』。くれぐれも行動は慎重に、でしょう?」
「それだけ分かっているんだったら、ふらふら出歩くんじゃない。ただでさえ、毒蛇中の毒蛇である『狐』めまで来ておるというのに」
「『狐』?」
その問いに、黒羽の男はその眉根に一層の皺を寄せて、忌々しげに答える。
「北の『狐』だよ、北の。北の大公、ガーデリシュエン家の皆様が揃ってお出でだとよ。……お前の母親を勘当した実家だ」
――北の大公。
東の大公家ロクールシエンと同じ、四大大公の一人だ。
「そんな大物が、何をしに」
「決まっているだろう。甥のお前に会いに来たんだろうよ。今の大公はお前の母親の兄に当たる人物だ。つまり、お前の伯父、ということになるわけだから」
「伯父……上。ふうん、伯父上ね」
「お前にとっては、血の繋がった親戚になるわけだが……気を付けろよ。あの糞親父と対等に渡り合う人物だ。ただの狐じゃない。あれは、腹黒の化け狐だ。おそらく、英雄であるお前に接近して来るに違いないが、用心しろよ」
「……ええ。わかりました」
そう、おとなしく返事はするものの、リュートの心はここに非ず、といった様子だ。ただ、小高い丘の上にある王宮の中庭から、眼下に見えるガリレアの町並みを悠々と見渡しているだけである。
その様子に、ランドルフは一つ思う。
……昨日の今日だ。無理もない。突然明かされた自分の身の上に、両親の過去。そして、降って湧いた選定候への復権。これでは、さすがの山猫とて、堪らないだろう。……それに、誰あろう、この私とて、明かされたこれの父親の存在に、酷く戸惑っているのだから……。
そのランドルフの内心の思いを断ち切るかの様にして、目の前の白い羽が、突然、ふわり、と翻った。そして、冬晴れの寒い空に、白い息を一つ弾ませて、言う。
「さあ、参りましょうか。国王陛下に、会いに」
王宮の中心とも言える、謁見の間には、すでに絢爛たる貴族達が、その脇にずらりと並んでいた。皆、口々に話題にしているのは、新たなる英雄にして、旧七大選定候の一人の遺児、リュート・シュトレーゼンヴォルフなる存在がいかなる人物であるか、についてである。
噂、というものは得てして勝手に尾ひれがつくもので、やれ、筋骨隆々の野蛮児であるに違いない、とか、ただ運が良かっただけの田舎者に違いない、とか、それぞれがまったく違う事を口にしている。
「ほほほ。今更、選定候に復権なさりたいなんて、どのような恥知らずかしら、ねえ、皆様」
「まことに。ええ、聞けばあの醜聞の二人の遺児でしょう。本当に、どんな厚顔無恥な男か楽しみね」
その、お喋り雀とでも言うべき、喧しい貴族共の口が、一瞬にして黙った。
高らかにならされるラッパの音と共に、謁見の間の扉が開かれる。
「な……」
黙った貴族の口から、一瞬にして、感嘆の溜息が漏れていた。
そこにいたのは、一分も臆することなく、堂々と紅の敷布を踏みつけて歩いてくる男達。
その中の一人に、貴族達の目は釘付けになる。
どこからでも好きなだけ見ろ、とでも言わんばかりに、凛として上げられた顔。そして、一分の隙もなく、すらりとよく伸びた体。
何よりも、その背の翼。この、国中の美女が揃うと言われる宮廷においても、誰もかなう者のいないような、大きく、美しい純白の羽。
その、矮小なる貴族らの視線など、針の穴ほども気にせぬ様子で、男は堂々とその金の髪をなびかせて、その前を通り過ぎる。そして、その敷布が途切れるその先で、共に歩んできた黒羽の男と共に、その膝を恭しく床に折った。
その男達に、一段高い所から、声がかけられる。
「此度、大変ご苦労であったな。ロクールシエン大公が第一子、ランドルフよ」
それは、紛れもない、この国を統べる王、コーネリアス・ピリス・ガリア三世、その人の言葉だった。
一段高い玉座の上に、堂々と王者として君臨する貫禄と威厳。その背には、王の栄光を示すが如くの輝く白銀の羽、そして、濡れたような黒髪に輝く金の王冠。その端正な顔に、年相応に刻まれた皺が、さらに彼に威厳と気品とをもたらしている。
それが、この有翼の民の長にして、かつての偉大なる英雄、獅子王の末裔たる男の姿であった。
その堂々たる貫禄に、リュートの碧の瞳が少しだけ、釘付けになる。
――これが、……これが、王というものか。
かつて戦った将軍も、昨日自分に過去を語って見せた鷹も、確かに、十二分に威厳のある壮年の男達であった。だが、この男はそれにも増して、なお気高く、誇り高い。……これが、王者の血か。
「ええ。ご苦労様でしたわね、若君」
今度は、王の隣から、玉の様に滑らかな女の声が響いていた。
ちら、と碧の目が玉座の隣に動く。
そこには、あの、美しい母によく似た、気品のある女性が座っていた。
……王妃、エミリア・ピリス・ガリア。
リュートの母、ラセリアの妹にあたる女性である。白い翼、碧の瞳などはその姉に瓜二つであるが、ただ一つ、違うのはその髪。一面の銀世界を思わせる白みがかった銀髪。そして、その髪に映える王妃の証の王冠。
そして彼女の後ろには、王妃によく似た銀髪の少年が一人。
つい先ほど、リュートが中庭で出会った少年、第一王子、ヨシュア・ピリス・ガリアである。
何やら、未だに先の一件が気に入らぬといった様子で、その父譲りの青い瞳も心なしか沈んでいる。
「陛下、陛下。他の、他の、方々にもお言葉を」
今度は国王の後ろから、小さな初老の男が出てきた。
背の低いオルフェよりもさらに低い、小柄な男だ。何やら早口で、国王に喋りかけて、その小さな体と、その体に反して、ぎょろりと飛び出るような大きな目を、せわしなく動かし続けるその姿に、リュートは一つの動物の姿を思い出す。
……鼠だ。
そういえば、この少々飛び出した出っ歯といい、鼠にそっくりだ。
これが、……これが、選定候の一人にして、この国の宰相、リヒャルト・シュタインウォルフか。この小さな体躯とは裏腹に、国王の有能なる懐刀として、随分なやり手だと聞いている。
その鼠の宰相に促されるかのようにして、再び国王の口が開いた。
「よく、……よく戻られたな。シュトレーゼンヴォルフ候。そなたの武勇、書簡にて聞き及んでおるぞ。大変、ご苦労であった」
眉一つ、動かさない、冷静な王者の顔で、国王はそれだけ言葉を紡いで見せた。
その事務的とも言える言葉に、リュートは内心で一つ呟く。
……まあ、こんなものか。
当然と言えば、当然なのだ。かつて自分の顔にこれでもか、とばかりに泥を塗った二人の息子だ。面白い訳がない。ならば、こちらも、事務的に振る舞うべきだろう。今更、お涙頂戴の再会劇など、茶番にすらなり得ない。
にや、とその口を歪めて、リュートが答える。
「国王陛下におかれましては、恐悦至極の事と存じます。この度は、その寛大なるご措置に、甚だ感激の至りでございまして、この身を歓喜に打ち震えさせておるところでございます。未だ至らぬ若輩者ではございますが、御為に存分にお働き申し上げたき次第にて、どうぞ、何なりとご命令をば」
「……意外に、あっさりしたものだったな。謁見てよ」
渡された酒を片手に、レギアスがそう溜息をつく。……無理もない。緊張にも増した緊張で臨んだ謁見だというのに、結局、あのリュートの発言の後も、場は全て事務的に終始し、毛ほども面白いことなどなく、謁見は終了していたからだ。
「ま、陛下との会話なんて、そんなもんかね。あーあ、退屈だった。それよりも……」
にや、とレギアスの瞳がいやらしく歪む。
「それよりも、この祝勝会! この素晴らしき祝勝会! うまい飯に、着飾った貴婦人、彼女たちと楽しむ会話にダンス! う〜! これを待っていたんだよ! これを!! さあ、ぱあっと、楽しもうじゃないか、諸君!!」
彼の言う通り、場は既に煌びやかなパーティーの装いに姿を変えていた。立食形式で振る舞われる宮廷料理に、華やかな貴婦人達。流れる優雅な音楽に、それに乗せた貴族達の会話。
勿論、リュート達もその衣装をさらに華やかに変えて、この場に臨んでいるのだが、もっぱらはしゃいでいるのはレギアスのみ、である。
こういう場が元々苦手なオルフェは隅で、黙々と食事をしているし、ランドルフとリュートはそれぞれが何やら考え込むようにして、なかなか場に入ろうとしない。
そんな彼を見かねるかのようにして、後ろから声がかけられる。
「英雄殿、行ってきたらよろしいのですよ。貴方なら、女達もよりどりみどりでしょうに」
それは、後ろの皮製の椅子に悠々と腰掛けている、ランドルフの父、東大公だった。相も変わらぬ鷹の鋭い目線で、大公は会場内を睥睨してみせる。
「ほら、あちらの姫なんかずっと貴方の事、見ておりますよ。ああ、それから、あちらなんか……」
「結構」
大公たる大貴族の言葉にも、それだけ短く答えて、リュートはその場から去る。
「おやおや、英雄殿は身持ちが堅いと見える」
そう言って、ふっふ、と余裕の笑みで笑う東大公の目の前に、一人の男が姿を現していた。
王妃のものによく似た銀髪に、白羽の壮年の男。そのつん、と上を向いた鼻ときりりとつり上がった目が、そのあだ名が示すが如く、狐によく似ている。その姿を認めるなり、東大公が、男の名を嫌味たっぷりに呼んでみせる。
「これは、これは。北の大公、オリヴィエ・ガーデリシュエン殿。てっきり寒い北の大地で冬眠でもされておると思うておりましたが、こんな場所までわざわざいらっしゃるとはね」
その鷹の嫌味にも、一切狐は動じる事はない。同じように、その口を歪めて、嫌味をこれでもか、解き放ってみせる。
「おやおや、そう言う鷹殿も王都にずっとおられると聞いておりましたので、ついにその翼の羽でも全て抜けて、禿鷹にでもなってしまわれたかと心配しておりましたが、ご健勝でなにより」
「はっはっは。健勝も健勝にして、笑いが止まりませんわい。なにせ、此度は、我が東部軍の功績に対しての、陛下直々の祝勝会ですからなあ。いやあ、まったく、私の血を引く息子が優秀すぎて申し訳ないくらいで。なにせ、あの、ルークリヴィル城を、あれだけの寡兵で落として見せたのですからなあ。はっはっは」
……心にもないことを、よう言うわ、この糞親父。
父親のその棒読みとも聞き取れる言葉に、後ろにいたランドルフはそう呟く。
そんな息子の思いにはとんと気づかぬ様子で、北の大公がまた嫌味を応酬してきた。
「いやあ、落としたと言われても、七年前とは事情が違いますわい。此度はまだ侵攻したてで、あちらも数が少なかったと聞いておりますぞ。それを意気揚々と語られてもねえ……」
「はっはっは。何をおっしゃる。戦いもせず、巣穴でただ冬眠しておるだけのお宅の息子さんに比べたら……、いや、比べるだけ我が息子に失礼というものですな。いやあ、息子が優秀で、困る、困る」
心の隅にもない台詞を東大公は、まるで脚本でも読むかの様にして、つらつらと喋っていく。その姿に、息子であるランドルフはもはや抗う気にもならない。ただ、その内心であきれ果てるのみである。
……狐と鷹の化かし合いか……。勝手にやってろ。
「……あー、くだらない」
そう、ぽつりと呟いて、会の主役である『白の英雄』リュートは、周りの制止を振り切り、中庭へと一人散歩に来ていた。
あと、三時間は続くというこのくだらないパーティーだ。半分くらい抜け出したって、構いやしない。
……それにしても、あの豪華な食事に、着飾った貴族達ときたら。どれだけの出費があるのだろうか、見当もつかない。あの資金が、手元にあれば……。
そう、思案しながら、すっかり日が暮れて暗くなった中庭を、白い羽がうろうろと動き回る。
ふと、昼間に見た銅像の前にまでたどり着いた。獅子王、と呼ばれたピリス一世の銅像だ。
――その体、獅子の如く頑健で、その心、獅子の如く誇り高い。
そう、叙事詩に謳われた名君である。
その獅子王の、銅で作られた双眸を、碧の瞳が睨め付け、一言、ぽつり、と言う。
「王よ、僕は……」
「何かな」
銅像が、……銅像が、喋った?
慌てて、リュートはその瞳を見開かんばかりにして、銅像を頭からつま先まで見渡す。すると、その陰から白銀の羽先が、ちら、と姿を現していた。その姿に、思わずリュートが呟く。
「こ、国王……陛下」
「やあ、英雄殿。こんばんは」
そこにいたのは、紛れもなく、昼間に謁見の間で会った、国王そのものの姿をしていた。だが、そこにはあの威圧感のあるような、堂々たる威厳はない。ましてや、『こんばんは』などという、王族が使うことなどないような言葉まで使っている。
「少し、よいか?」
そう、静かに微笑む男は、もはや王ではなかった。そこにいたのは、ただの、一人の男。
「へ、陛下……」
戸惑うリュートに、なおも王は親しげな微笑みを浮かべたままで言う。
「触れても、よいか?」
「え……」
リュートの返事を待たずして、王の手が、リュートの首に回されていた。そして、そのまま、子供を抱きしめるかのようにして、愛おしげにその肩を抱く。
「会いたかった、会いたかったぞ。ラセリア、ヴァレル……。よう、よう帰ってきてくれた。よう、この王都へ……」
――泣いて、いる。
紛うことなく、一国の君主たる男が、リュートの肩で泣いていた。その、あまりの衝撃に、リュートは一分たりとも体を動かすことが出来ない。そんな彼に構わず、国王は尚も、泣きながら言葉を紡いでいた。
「……悪かった。本当に、……悪い事をした。許しておくれ。許して……」
何故、国王に謝られる必要があるのか、リュートには理解出来ない。謝るのは、自分の両親の方ではないのか。それが、何故。
「リュート……と呼んでよいか?そなたには本当に済まない事をした。余が、余が、あれほど狭量でなければ、そなたとて幸せに暮らせたのだ。こんな……英雄と呼ばれて、戦争に利用されることもなかったであろうに」
……利用?
利用、だって?何を、何を、言っている?
リュートのその怒りにも似た感情とは裏腹に、王はさらに愛おしげに彼の体を抱きしめていた。
「こんな、こんな細い体で、戦っていたのか。さぞ、さぞかし辛かっただろうに。東大公の若君もこんな細腕の若者を戦わせるなど、酷い事をする……」
そして、親が、子供を諭すような声で、静かに彼に囁いた。
「もう、戦わなくてよいのだよ。竜騎士達など他の者に任せて、お前は、この王都で、幸せに暮らしておくれ。……どうか、どうかこの王都に、私の側に、ずっといておくれ」