第二話:手紙
『ルークリヴィルの奇跡』と呼ばれる劇的な勝利より、七年の時が過ぎた。
穏やかな七年間だった。帝国の侵略から解放されたイヴァリー半島も徐々に復興し、以前の活気を取り戻しつつある。だが、依然として帝国への警戒は解かれることはなく、半島各地の城には常に物々しく、国王軍及び諸候軍が駐留したままになっていた。
――エイサァ、エイサァ。
今日も港町クレスタには、漁師たちの網を引く声が平和に響き渡っている。
だが、クレスタ城裏にある森まではその勇壮な掛け声も届かない。静かな静寂と、鳥の鳴き声があるだけだ。
その鳥たちが突然、ピチチ、と、ざわめき、飛び立った。そして皆、一様に森の水場の方向に集まってゆく。その森の水場には、清らかな水音に重なる、澄んだ笛の音。
泉の反射によって、キラキラと長い金髪が照らしだされる。
美しい純白の翼を、背にいっぱい広げた青年が、そこにはいた。
青年は、その形のよい口から、澄んだ音色を紡ぎだしている。彼の周りには次々と鳥達が集まり、その音色に聞き入るかのようにその羽を休めていた。
――バキッ。
その音色を乱す、突然の木が折れる音に、鳥達が一斉に飛び立っていく。
「誰だ!!」
笛を吹いていた青年が、その金の髪を揺らして、素早く音のした方を振り返った。
「俺だよ、俺。そう警戒すんなって」
そこには、森の中から現れた一人の黒髪の青年。その背には空にも似た薄い青色の翼が変わらずに輝いている。
「なんだ、レミルか」
金髪の青年は、その空色の羽の男の存在に、拍子抜けしたように警戒を解いた。その様子に、青羽の青年は、嘆息しながら言う。
「お前ね、いつもいつも山猫みたいに警戒し過ぎなんだよ。ここに来るのは俺とお前しかないだろ、リュート」
彼は、すらりと伸びた手を金の髪へのばすと、そのままポンポンと子供をあやすように金の髪をなでた。それを金髪の青年が恥ずかしそうに払いのける。
「やめてくれ。僕はもう子供じゃない」
そこにあどけなかった少年の顔はない。七年の時が二人を青年へと成長させていた。
「で、何の用?」
リュートは笛を布に巻きながら、不機嫌な様子でそう尋ねた。それにレミルが思い出したように答える。
「ああ、そうそう。父さんが呼んでるんだった。お前も一緒に、だって」
「旦那様が? どうして僕まで?」
言い放たれた単語に、レミルは不満げにリュートの言葉を訂正する。
「こら、旦那様じゃないだろ。もう義父さんって呼んでいいんだぜ」
七年前、両親を亡くしたリュートは、すぐにクレスタ領主のニーズレッチェ家に引き取られていた。心身の回復には長い時が必要だったが、領主夫人リーシャとその息子レミルは根気よく彼に寄り添い、声を掛け続けた。
『私達が貴方の家族だ』と。
戦地より帰還した夫ロベルトも、これを黙認し、さらにはリュートの回復を機に、彼との養子縁組手続きに同意をした。以前より、息子同然にリュートを育ててきたリーシャは、もう一人息子が出来たと、これをひどく喜んだ。
ところが、当のリュートはこの縁組みが行われた後も、決して臣下としての態度を崩そうとしなかった。それどころか今だに義父であるロベルトには心を開いてはいない。彼がその固く閉ざされた心を開くのは、義兄のレミル、義母のリーシャ、そして時折城に遊びに来ていた幼なじみの姉妹だけだった。
だが、その姉妹も今はクレスタの町を離れており、リュートは益々その心の壁を厚くしている。
「わかったよ。行こう、レミル」
リュートは仏頂面でそう答える。そんな彼を見兼ねて、義兄であるレミルがいつもの調子で、明るく声をかけた。
「どうせつまんないお説教だぜ? そんなのパパッと聞いちゃって、街にうまいものでも食いに行こうぜ」
このレミルの清々しいまでの気楽さは、いつもリュートの心を軽くする。
街に出てもこの調子で、誰にでも声をかけて、まったく気取ったところがない。そのため、クレスタの領民にとても親しまれており、街の笑顔の中心にはいつも彼の姿があった。
リュートは思う。……彼の笑顔は、空色の翼に映える太陽だと。
この太陽があるから、自分は生きてこられたのだ。
自分が、暗い闇の深淵を漂っていたときに、絶えず暖かい光を送ってくれた太陽。
彼の笑顔こそが自分の生命の源。彼こそが自分の生きる意味。
――レミルのために生きていこう。
それが、リュートがこの七年でたどり着いた、彼の生きる道だった。
二人が城に戻ると、母リーシャが出迎えてくれた。
リーシャは、以前と比べて少し老けてはいるものの、その聡明さは少しも衰えておらず、夫が帰還した今も共に領内の政務を取り仕切っている。
リュート達は、彼女達夫婦がいつもその政務を執り行っている部屋へと通された。普段は簡単に入室を許可されない部屋だ。
その部屋の中心に、クレスタ領主、ロベルト・ニーズレッチェは悠然と座っていた。
品のよい、知性的で、尚且つ精悍な男だ。薄いグレーの翼に合わせられたかのような、灰色の口ひげがよく似合っている。
「二人とも掛けなさい」
ロベルトに促され、リュートとレミルは彼の机の正面の椅子へと腰掛ける。
「ああ、リーシャ、君も聞いてくれ」
部屋から出ていこうとした妻を呼び止め、ロベルトはその懐から一通の手紙をとりだし、机の上に静かに置いていた。
リーシャは、その手紙に一瞬にして目を見張る。
上質な封筒に、真っ黒な蝋で押された四つ羽の印章。彼女が見間違うはずもない。
それは、このニーズレッチェ家の主君にして、王国四大大公の一人、ロクールシエン家の紋章だった。
「た、大公様からの手紙があったなんて、私は聞いてないわよ」
リーシャからの抗議を無視し、ロベルトは手紙を開けて便箋を取り出した。
「レミル、リュート。お前たちはもう十七になるか。もう十分に大人だ」
ずい、とロベルトは二人の前に手紙を差し出す。
「大公様からだ。お前たち両名にレンダマルの兵士鍛練所まで来てほしいと」
突然の、その言葉に、三人は一瞬にして言葉を失う。
「お断りします」
誰よりも早く、きっぱりと答えたのは、リュートだった。彼は領主に向かってさらに臆することなく、その言葉を続ける。
「私はロクールシエン家の兵士などになるつもりはありません。そのことは旦那様とてよくご存じでいらっしゃるものと思っておりました」
揺るがぬ目で、尚もしっかりと、リュートは領主を見据えた。
「もしご理解いただけていないのなら、再三に渡って申し上げます。私の望みは、このクレスタにおいて一生領主様のそばで御仕えすること。恐れながら、その為の努力は怠ってこなかったと自負しております。それは旦那様もご承知のことでありましょう」
確かに、ロベルトはよく知っていた。
リュートが毎日、誰よりも早く起きて鍛練に励んでいること、また、自分が入室を許可した書斎の本をすべて読み尽くしてしまったことを。レミルなど一冊も読んだことがないのにな、と心の中で笑う。
「旦那様、どうぞご一考を。私がこの家に一生お仕えすること、お許しください」
『ずっと、ずっと一緒にいよう』
義兄のその言葉を頼りに生きてきた彼の、切なる願いだった。
ロベルトは、一つ苦笑する。
……まったく、雄弁なことだ。普段は私には愛想笑い一つせぬくせにな。
「まあ、聞け。何も大公家に仕えよ、というのではない。第一、跡取りのレミルまで大公家の兵士になられてはかなわん。兵士鍛練所というが、そこには東部の名門子息が多く集まって、勉学に武道に励んでいる場所なのだよ。私はお前たちにそこでぜひとも見聞を広めて欲しいと思っているのだ」
ロベルトのその言葉に、いち早く反応したのは、レミルだった。
「父さん、俺行くよ。行ってみたい」
「レミル、あんた……」
驚くリーシャに、レミルは目をキラキラさせて答える。
「だってレンダマルだぜ? 東部一の都会だぜ? そこに留学に行くみたいなもんだろ? 俺、一度行ってみたかったんだ」
「レミル、あなたねぇ、遊びに行くんじゃないのよ!」
「わかってるよ。ちゃんと勉強して帰ってくるからさ。ちゃんと領主の仕事に役立てるって」
息子のはしゃぎぶりに一抹の不安を覚えながらも、ロベルトは安堵する。これで、このお気楽息子も鍛えられることだろう。問題は、このはねっかえりだ。
「どうだ、リュート。レミルと共に行ってくれないか?そこで学ぶことは、今後君がこの家に仕える上で役に立つものになると思うが?」
ロベルトはリュートのアキレス腱をよく心得ていた。こう言えばリュートが断れないと知って言うのだ。
――タヌキ親父め。
リュートは内心でそう毒づくと、精一杯の愛想笑いをして答えた。
「承知しました、旦那様。そのお話、謹んでお受けいたします」
息子達二人が部屋から辞した後、すぐに妻リーシャは夫に食って掛かっていた。
「あなた、どういうつもり? レミルはまだわかるけど、どうしてリュートまで? あなた、あの子がどういう子かわかってて言ってるの?」
「無論だ。わかっていないのはリーシャ、君の方だ」
そう言うと、ロベルトは机の引き出しを開け、もう一枚の便箋を取り出した。
「大公様からの手紙だ、と言ったろう?」
ロベルトのその言葉で、リーシャはこの便箋の内容を読まずとも、全てを理解した。しばらく俊巡したのち、彼女は夫に憎々しげに言い返す。
「本当に恐ろしい方! 私はあの方が大嫌い!」
ロベルトはそんな妻の激情を理解出来ぬでもなかったが、努めて冷静に答える。
「聞かなかったことにしよう」
結構よ、と、妻はいい捨て、汚物でも触るかのようにして便箋をロベルトに返すと、踵を返して出ていこうとした。
そんな彼女に、最後にロベルトは声をかける。
「君は聡明な女性だが、ときに女性らしい情に流されるところが欠点だ。だが、私は夫としては、君のそういうところが好きだよ」
「私はあなたのそういうところが大嫌い!」
リーシャはそれだけ吐き捨てると、壊れんばかりの勢いでドアを閉めた。
城の北の一角に、リュートは部屋を与えられていた。いつも雪崩が起きんばかりに本が積み重ねてあるこの部屋に立ち入るものは、彼以外誰もいない。
リュートは自室に戻ると、普段は滅多に開けることのない机の引き出しを開けた。そして、その最奥にしまっていた包みを、そっと取出す。
布をめくると、それは鈍い光を放っていた。金の台座に、安っぽいガラス。
それはあの日、母の手に握られていたペンダントだった。文字通り、母が命を賭して取り戻したものだった。リュートは、七年ぶりにそれをまじまじと観察してみる。ふと、裏に文字が刻んであるのに気付いた。
『ヴァレル・シュトレーゼン……』
かろうじて読めたのは、父の名前だった。今は亡き父の名と、今はもう捨ててしまった自分の姓。
今、自分はニーズレッチェの姓を名乗ることを許されている。それは何より優しく明るい義兄と義母の存在とその尽力があったからだ。
……この家を守るためならなんでもしよう。ずっとこの家の家族であり続けるためなら、僕は何を犠牲にしても厭わない。
――必ず、レミルとともにこの地へ帰ってこよう。
リュートはそう決意すると、ペンダントをその首に掛けた。