第十五話:漏洩
最初に飛び込んできたのは、優しく揺れる栗色の髪だった。
あれ、確か自分は戦場にいたはずなのに。寒くないぞ……。灰色の空はどこへいった……?
「リュート、リュート」
聞き覚えのある声。……そうだ、これはマリアンの声だ。落ち着く懐かしい声。ここはクレスタなのか?
あれ、じゃあ、あの戦場はなんだったんだ?あの、皇帝と対峙した恐ろしい戦は……。
「リュート、しっかりして。私がわかる?」
軽くぺちぺちと頬を叩かれ、ようやくリュートはその瞳をしっかりと開けた。その目に映ったのは、あの寒い灰色の空ではなく、見慣れた天井の木組み。どこか小さな部屋のベッドの上に、彼は寝かされていた。
「……マリアン。ここは、一体。……戦争は? 皆はどうなった?」
はっと、その体をベッドから起こすや否や、リュートは目の前の看護婦に食って掛かろうとした。だが、それも出来ない。激しい胸の痛みが、彼を襲った。
「あ、い、痛っっっ!!!」
「無理しないで。あなた、胸を竜に切り裂かれたんだから」
見ると、彼の胸には、白い包帯がしっかりと巻かれている。おそらく目の前の女性が施してくれた治療だろう。引きつるような傷の感覚に、リュートはあの戦が夢でなかったと、改めて確信した。
「ここはカルツェ城よ。あなた達、この城を守ったの。あの戦に勝ったのよ」
「か、勝った……? こ、皇帝は、皇帝は死んだのか?」
その問いに、マリアンは残念そうに横に首を振った。
「いいえ、寸での所で逃げられたそうよ。でも皇帝の竜は山肌に打ち付けられて死んだわ」
「……そうか……。竜だけか……」
そこでようやく彼は周囲の状況に気付く。小さな城の中の一室、彼と看護婦以外誰もいない。辺りは不気味なほど、しん、と静まり返っていた。その静寂に、彼はいい知れぬ不安を覚える。
「そうだ! 皆は? 皆はどうなった? 皆は無事か! ……ああ! こうしちゃいられない!」
そう言うと、彼は看護婦が制するのも聞かず、ベッドから飛び降りると、素肌に包帯を巻き付けたそのままの姿で部屋を飛び出した。
――なんだ、この胸のもやもやは。皆……どうか無事でいてくれ!
彼のその不安を掻き立てるかのように、チリーン、チリーン、という鈴の音が耳についた。部屋から出て、すぐの広間からだ。抹香臭い香の香りまでいやに鼻に付く。
入ってすぐ、広間の光景に彼はぞっと身をすくませた。
ずらりと並べられた、白い布の固まり。
それは、この場で共に戦った兵士達の死体に他ならなかった。頭から足先まで、ミイラのように白い布で巻かれた遺体が、その部屋に粛々と整列していた。
その間を縫うように、一人の神官が右手に鈴、左手に香が薫かれた香壺を持ち、ゆったりと歩き回っていた。その顔に生気はない。まるで地獄からの使者のように、弔いの経文を唱えながら部屋を周回している。
再び、リュートの背を、ぞくりと寒気が襲った。
そのまますぐに広間を抜け出すと、彼は一直線に廊下を駆け出す。時折、視界に入る負傷兵が彼に何か声をかけるものの、その声を一切無視して、彼は城の最上階を目指す。
――レギアス! オルフェ! ナムワ殿! ……我が君!!
最上階に着くや否や、リュートはその一室のドアを、ノックもなしで勢いよく開ける。そこはこの城で一番上等の、主人が居るべき部屋だった。
「みんな!!」
そう叫ぶリュートの目に、まず飛び込んできたのは、ベッドに横たわる黒羽だった。
「―――――――――!!!!」
あまりの衝撃に、声がでない。
上等のベッドに横たわった体。それは紛れもなく、彼が主君と崇める男の体だった。
ぴくりとも動かぬ四肢、固く閉じられた瞳、そして、そのはだけられた左胸に、深々と刺さった矢。
その姿を認めるや否や、リュートは一目散にベッドへと駆け寄った。
「ランドルフ様っっっ!!!!」
「ああ……どうして、こんな……!!!!」
まるで崩れ落ちるかのように、彼は主君の足に縋り付く。
いくら皇帝を相手にしていたとは言え、主君を守れなくては臣下である意味などない。自らの道を行くと誓った兄に、そして自らの意志で忠誠を捧げると決めたこの主君に、自分はどう償えばいいのか! 彼を失って、自分は、東部は、そしてこの軍はどうしたらいいのか!
一瞬にして、激しい自責の念がリュートを襲う。
ああ……、自分はなんと無力で、愚かな。あそこで、この方だけでもお逃がしするべきだったのだ。ちょっと剣の腕が上がったからと、調子に乗って、皇帝まで相手にして、このざまだ。……かくなる上は、死を決意してでもこの僕が弔いを……。
「我が君、さぞ……、さぞかしご無念だっだでしょう……。あなたの仇はきっとこの僕が……」
「おい、勝手に殺すな」
頭の上から、よく知った声が響いた。
リュートがすぐさまその頭を上げると、胸に矢を突き立てられたままの黒髪の男が、いつものように、こちらを見下していた。
「……い、生きておいでで?」
「悪いか」
「……だって、矢、刺さってるし……」
「矢が刺さっていても、生きていたら悪いか」
いつもと変わらぬ憎まれ口。紛れもなく、それは彼の主君だった。
「……ら、ランドルフ様っっっ!!!」
その生存を確認するかのように、リュートは目の前の主君に抱きついた。途端に、悲鳴が上がる。
「や、やめろ、リュート!! 矢が刺さってるんだ、こっちは!! い、い、痛!!」
見ると、目の前の主君の左胸、心臓より左にずれた脇の辺りに、リンダール特有の形をした矢が深々と刺さっていた。丁度、胸当てと肩当ての装甲の間を射抜かれたような状態だった。
「はあ……まったく……。大丈夫だ。皇帝から最後に受けた忌々しい矢だが、致命傷になるような傷ではない。まあ、前線に出てこの程度の傷で澄んだのだから、よしとすべきか」
黒羽の主君は、そう言ってから、はた、と気づいて後悔する。
……しまった。これの前で、前線に出たなど言うべきではなかった。どうせ、これのことだ。指揮官がそのような所に出るなど、言語道断! とかなんとか、きゃんきゃんと言ってくるに違いない。
来るべき小言を警戒して、主君はその耳と目を前もって塞ぐ。しかし、一向に小うるさい声は聞こえてこない。不審に思い、おそるおそるその目を開いてみると、予想だにしなかった光景が飛び込んできた。
そこにあったのは、潤められたエメラルドの瞳だった。
涙をその大きな瞳に溜めながらも、それがあふれ出すのを堪えるかのように、きつく唇を噛んでいる。すん、すんと、子供のように鼻を啜って耐えているが、それもすぐに保たなくなり、ぼろぼろと大粒の涙がその頬を伝った。
「りゅ、リュート?!」
「だ……だって、本当に、死んだかと……」
一度溢れ出た涙はとどまる事を知らず、次々とベッドのシーツを濡らしていく。あまりの意外な臣下のリアクションに、主君はベッドの上で、為す術なく、おたおたするしかできない。
「な、泣くなって。お、おい、リュート?」
「あ、あなたに死なれたら……本当にどうしようかと……思って……。また、行く所なくなっちゃうし……」
「ば、馬鹿、お前。いい男が泣くんじゃない! わ、私はちゃんと生きてるだろう。そ、そりゃあ、ちょっと矢が刺さってるが……」
その言葉に、リュートはますますその瞳を潤ませる。
「わーっ! ごめんなさい! 僕がお側を離れたばっかりにーっっ!!!」
その膝元に涙と鼻水を垂らしながら泣き伏す臣下に、主君はもはやあきれ果て、子供をあやすように頭を撫でてやるしかできない。
本当に、これがつい先まで、自分を奮い立たせ、皇帝を敗走させた男なのか。……まるで十にも満たぬ子供。そう、まるで迷子になって、ようやく親を見つけた子供のようだ。
なんという、アンバランスさ。なんという、ギャップ。
もしかしたら、自分はとんでもなくやっかいな男を臣下にしてしまったのかもしれない……。
黒羽の主君は、また一つ、諦めたようにため息をついた。
「あの、もういいかしら」
幼い頃からよく聞き知った女の声が、投げ掛けられた。
涙を拭いながら、リュートが顔をあげると、主君の物ではない美しい黒髪が目についた。驚いて、すぐにリュートはその女の名を呼ぶ。
「トゥナ! どうしてここに!?」
「さっきからずっと居たわよ。今から矢を抜こうとしてた所にあんたが来たんじゃない」
その言葉に、改めてリュートは周りを見回す。トゥナの言うとおり、ベッド脇には治療の為の器具や包帯、薬品がずらりと並べられていた。
「ちなみに」
改めて自分の視野の狭さに反省させられたリュートに、さらに後ろから声がかけられる。
「俺たちもさっきからずっと居るんだけどな」
振りかえると、そこにはよく知った巻き毛の長身の男と、眼鏡の小男が二人。その姿を認めるや否や、潤んだリュートの瞳が、一瞬にして輝いた。
「レギアス! オルフェ! 二人共、無事で!?」
「このとおり、生きてるよん。いやー、いいもん見せてもらったわ」
「まったく、お前の方が重傷だろうが。私こそお前が死んだかと思ったぞ」
軽やかな巻き毛と、光る眼鏡に、リュートはさらにまたその目を潤ませて、主君の膝の上に泣き伏した。
「よ、よかった……皆! 無事でっ……本当に……痛っ!!」
ごつん、と泣き続けるリュートの頭に、突然、拳が叩き落とされた。見ると、黒髪の女が呆れ果てたように怒っている。
「いつまでそうしてる気よ。治療の邪魔! 早くどきなさい! まったく、あんたはそうやって、すぐに人に依存する!」
「ご、ごめん」
トゥナの言葉に、リュートは、はっと気付かされる。
ああ、これは自分の悪い癖だ。こうやって自分が決めた人の為なら、いつも周りが見えなくなるまで、突っ走ってしまう。この性格のせいでレミルにも『重荷』とか言われたんだった。
「す、すみません、ランドルフ様。あ、あの、お、重荷になってたら、遠慮なく言って下さい。今度から気を付けますから」
リュートは自らの行き過ぎる性格を反省し、珍しくしゅんと、うなだれる。彼にとって、また、この主君にまでいらない、と言われるのだけは嫌だったからだ。その様子を見ていた彼の主君は、まるで投げ捨てるように、乱暴に一つ言い放つ。
「……そうだな。お前は確かに重い」
「えっ……」
その言葉に、再び碧の目が潤む。今度はまるで捨てられる子供のような目だ。それを見た主君は、また苦笑しながらも、その臣下の金の髪をくしゃり、と一つ撫でてやる。
「此度の戦、お前なしには勝てなかった。そういう意味で、お前の存在は重い。感謝しているぞ、リュート。これからも、存分に働いてくれ」
「……我が君」
また、別の意味で泣きそうな瞳で見上げる臣下に、いつになくその黒曜石の瞳が優しく細められる。
「リュート、お前が生きていてくれて嬉しいぞ。レギアス、オルフェ、お前達もだ。よく、生きていてくれた。皆、本当によく戦ってくれたな」
そう言って、黒羽の主君は、自らの臣下一人一人と、満足げに笑みを交わした。
この若き主君にはよくわかっていた。この勝利は自らの力ではない。皆の協力と、信頼があったからこそ、為し得たものだと。
――臣下なくして、主君はあり得ない。
それを身をもって示したくれたのが、この膝に泣きつく子供だった。
「ま、此度の戦いではなんと言っても私めの投石機による活躍がなければ、皇帝を敗走させることなどできませんでしたからな。たんと、給金をはずんで貰いますよ、ランドルフ様」
面と向かっての主君からの礼が照れくさいのか、オルフェはいつものように、眼鏡を光らせながら、憎まれ口を叩く。その様子に、隣のレギアスが辟易したように言う。
「まったく金、金と。ああいやだね、守銭奴は。損得以上のものがあるってわからないのかねぇ」
「あいにくと、損得で動く以上に効率的な動き方を私は知らないのでね」
「はあぁあ、つまらん男。やだやだ、リュート、お前はこうなるなよ」
「何を言っている。リュート、こんな適当な男にだけはなるんじゃないぞ。そうでなきゃ、もう助けてやらんぞ」
「かーっ。恩着せがましい奴! 最初は城の中でぴいぴい泣いてやがったくせによぉ!!」
「何を!私は来るべきチャンスに備えてだな……」
ごつん、ごつん、とまた二つ、鈍い音が響いた。
「いい加減にして頂戴!! 治療の邪魔だって言ってるのがわからないの! さっさと出ていかないと、三人纏めて包帯で簀巻きにして放り出すわよ!!!」
「……ご、ごめんなさい……」
看護婦の迫力に、そそくさと三人の男は退散する。それでも、レギアスは懲りずに、ああいう気の強い娘もいいねぇ、大変そうだけど頼もしいよ、などとほざいていた。その言葉に、リュートは激しく苦笑する。
……あの気が強いのが、未来の義理の姉さんか。……苦労しそうだ。
廊下に出ると、ぶるり、と一つ、リュートはその身を震わせた。義姉への恐怖、というよりも、実質的な寒さ故だった。それもそのはずで、彼は起きたときの、素肌に包帯、という姿のまま、寒い廊下に放り出されていたからだ。慌ててランドルフから借りた服を着込むが、なかなかその寒気はおさまらない。ぷるぷると体を揺すらせ、彼はレギアスに尋ねる。
「ああ、寒い。まだ雪は降ってるの?」
「まだ本格的な冬じゃないからな。すぐにやみそうなもんだけど……」
そう言って、レギアスは廊下の窓の木戸を開けた。
そこは変わらぬ灰色の世界だった。ついさっきまでの喧噪が嘘のように、ひたすら静かで、穏やかな世界。ちらちらと舞い散る雪は、ひどく牧歌的でもあって、先まで殺し合いをしていた男達を複雑な気分に変える。
その世界に、一つぽつり、と影が浮かび上がった。
「あれは……!!」
空中に浮かんだ影は、ふらふらとよろめきながらも、こちらへとやってくる。羽のあるシルエットから、有翼兵と推察された。その明らかな不自然な飛び方にただごとでない気配を感じ取った三人は、屋上へと急いで駆け上がる。
「おい、こっちだ!! 大丈夫か!?」
レギアスに抱きかかえられ、ようやくその有翼兵はカルツェ城の屋上へと着地した。間近で見たその姿に、リュートとオルフェは絶句する。
そのすべてが、ボロボロだった。羽はその多くがむしられ、その体には数本の矢が刺さり、鎧はもうその役目を果たさぬほどにひどく割れていた。その様子に、三人は言いしれぬ不安を覚える。
「どうした!? もしかして、別働隊のものか!?」
リュートのその問いに、兵士は力無く頷いた。
「……はい……そうです。私は……バッハ城に待機していた……く、クレスタ軍の兵士です……」
「クレスタの?!!」
「ええ、……レンダマルの修練生で……クレスタ軍に配置……されていました」
確か、レンダマルからの出征の折、レミルがランドルフに面倒をみたい、と申し出ていた者たちだ。彼らも、ここでの激戦を避けるため、あちらへ行っていたはず……。
「それで?!!! それで、あちらの軍はどうしているのだ! どうして、奇襲に来なかった!!!」
激しく問いつめるリュートに、兵士は口から血を流しながら必死に答える。
「そ、それが……バッハ城からこちらへ向かう途中に……襲われました。サイニーとかいう……将軍が率いる部隊が……突然……。そのまま竜騎士達は……ほとんど空になっていたバッハ城を……占拠……」
「何っ!!!」
心の隅で、予想していたこととは言え、兵士の言葉に三人は動揺を隠せない。なおもその先を兵士に問いつめる。
「ど、どうしてそのようなことが!?」
「お、おそらく、漏洩です……。我らのこの作戦が……すでに、敵に漏れていた、としか……」
「漏洩だって!? そ、それじゃあ、誰かが裏切ったってことか!」
「はい……。クレスタ伯は、そのように……」
――裏切り……。
この軍に裏切り者がいる……!!!
その驚愕の事実に、三人は言葉を失う。
「そ、それで、あ、あちらの軍は……どうなった? まさか、まさか……」
もともと白い顔を、尚真っ白にして、リュートはそれだけ尋ねる。寒さのせいではない震えが、止まらない。手も、足も、がくがくと震えながら答えを待つ。
「ほ、ほとんど……全滅でございます……」
恐ろしい戦場の光景を思い出したかのように、兵士はぼろぼろと泣き崩れた。そんなボロ雑巾のような兵士に、つかみかからんばかりにリュートは食って掛かる。
「ぜ、全滅だって?! じゃ、じゃあ、クレスタ軍は? れ、レミルは? レミルはどうなった?!」
「れ、レミル様は……私たち……修練生をかばったあと……その行方がわからなくなりました。も、申し訳ありません……」
――行方不明……!!!!
レミル……レミル、レミル、レミル、レミル、レミル、レミル、レミル、レミル、レミル!!!!!!!
頭の芯がぼうっとする。立っている心地がしない。真っ暗闇の穴の中へ、突然放り込まれたような感覚……。
突然、がくり、とリュートの足が、雪の上に折られた。
「おい!! しっかりしろ! リュート!!!」
レギアスが肩を揺さぶるが、リュートの瞳は焦点が合わないまま空を見つめている。何を言われても、まったく反応がない。ただ、うわごとのように、小さく兄の名前を連呼し続けているだけだ。
そんなリュートを、兵士の一言が呼び戻した。
「お願いです! 助けて下さい……。全滅とは言いましたが……まだ……戦場に生き残りがいます……。うまく逃げた……修練生達も多分……どこかに。皆、自力で動けずに……助けを……」
「生き残り……? 生き残りだって?!!」
もしかしたら……もしかしたら、レミルもその中にいるかもしれない。レミルが、生きているかもしれない!
一気に碧の瞳に光が戻る。
「行こう! レギアス、オルフェ!!」
「待て! リュート!! 罠かもしれないだろ!!」
そう制するオルフェの言葉を無視して、灰色の空に白い翼が舞い上がる。まっすぐ、バッハ城のある方角をその碧の瞳で、キッと睨み付けると、彼は風の力を借り、猛スピードでその空へと翔だした。
彼は祈るように、首にかけていたお守りとペンダントをきつく握りしめる。
――レミル……。待っていて。今、助けにいくよ!!