第十四話:信頼
――獰猛。
それが、リュートが初めて抱いた感想だった。
目の前の黒い鱗の空飛ぶけだものに対してではない。その背に乗った、赤毛の男に対して、である。
帝国特有の黒の全身鎧を身に纏った、逞しい二十歳前後の美丈夫。それがリュートが間近で見た、初めてのリンダール人だった。
本当に、羽がないんだな、と今更ながら確認する。
生まれた時からその背に翼を持ち、その翼で空を翔ることが当たり前の民族の中で暮らしてきた彼にとって、その何もない背中は、非常に奇妙に映る。まあ、それはあちらも同じことだろう。あの焔の目にとっては、この背の翼は奇異そのものに違いない。――おそらく、自分とはまったく違う異形の者、人外、そう思っているだろう。そうでなければ、絶対に、あの様な目はできない。
あの、目の前のけだもの以上の獰猛な目は。
「ニクート・ヴェリーサ、『シュヴァリエ』(ごきげんよう、『希少種』君)」
まるで牙が生えているかの様な、大きな八重歯をちらりと見せながら、皇帝はリンダール語で話し掛けた。勿論、リュートはその意味を理解できない。それでも、皇帝は尚も言の葉を紡ぐ。
「できれば、生きて連れ帰りたいが、残念なことに、我は手加減ということを知らぬ。悪く思うな」
その意味はリュートにはわからなくても、その言葉が醸し出す不気味さは察して余りあった。
こいつは、本当に自分を殺しにくる。
何よりも、その焔の瞳が雄弁に語っていた。
恐くないと言ったら嘘になる。
飛竜の鋭い爪、牙、そしてきらりと光る帝国特有のサーベル。あれで切り裂かれて、殺されるかもしれない。そう、心の底で恐怖を覚えながらも、尚、リュートはこの場で凛としてあり続けた。
――信じよう。
別動隊にいる兄を、ここで共に戦っている戦友を、自らがその忠誠を捧げた主君を、そして、今までその身を研鑽し続けてきた自分を。
「我らの勝利のために、その首頂戴致します、皇帝陛下よ」
吹き荒ぶ寒風に、剣が一つ、ひゅん、と鳴った。
その風切り音を聞くや否や、黒の指揮官は意を決してその場を離れる。自らの臣下の戦いを見届けたいという気持ち以上の意志が、彼を動かしていた。
――負けられるか。
我が臣下が、あれほど戦ってくれているのに、私が負けられるものか。あれが稼いでくれているこの時間、一秒たりとも無駄にするものか。
先にいた城壁中央より、少し左に寄った城壁の前で、有翼兵と竜騎士との戦闘が激しく続けられていた。侵攻の時と変わらず、太鼓の音を空に響かせ、陣を崩す事なく竜騎士達は城壁へと迫る。
このままでは第一城壁が破られる。投石機が備え付けられた第二城壁まで、一旦部隊を退かせて、態勢を立て直すべきか……。
ぎり、と黒曜石の瞳で、指揮官は目の前の戦場を睨み付ける。
駄目だ、それでは完全な打開策にならぬ。退かせたとしても、この竜騎士の纏まった陣に再びやられるだけだ。今の状況と変わらない。
……それにしても、あの竜という生き物をよくもここまで纏めて操れるものだ。見たところ家畜並の知能くらいしかなさそうな生き物なのに……。
――家畜?! ……そうか!!!
「レギアス! ナムワ! 来い!!」
その呼び掛けにすぐに二人は応じる。目の前にいた竜騎士をそれぞれの剣と槍で貫くと、その翼を翻し、主君の目の前に現れた。それと同時に、皇帝と対峙している白羽の若者の存在に気付く。
「リュートが……相手してんのかよ」
「若! なんという無茶を! あ、相手は皇帝ですぞ?! あの若造には荷が重すぎます!」
心配げに主君に食って掛かる二人に、厳しい一喝が飛ぶ。
「黙れ! 私の臣下を侮るでないわ! あれはもう一人前の男だ。我らは我らのやるべきことをするのみ! ……来い! 竜騎士共の陣形を崩す! リュートが皇帝を相手にし、将軍まで不在の今、あそこの竜騎士など頭のない烏合の衆にすぎぬ。今なら崩せる! 二人とも付いてこい!!」
先に動いたのは、白羽の方だった。
冷たい風にその翼を乗せると、一気に相手の懐に切り込む。突き立てるように飛び込んでくる剣に、皇帝はその身を反らせ、かわすのがやっとだった。
――速いな。こちらが竜を操る時間すら与えぬ気か。
この一撃で、皇帝は目の前の相手の力量をまざまざと感じ取った。この外見とは裏腹に、けして油断はできぬ相手。それが皇帝が、リュートに下した判断だった。
その内心を知ってか知らずか、リュートは素早く空中で体勢を変えると、なおその手を休める事無く、皇帝に襲い掛かった。
カン、と金属がぶつかる音が寒空に響く。帝国特有のサーベルが、リュートの剣を弾いた。と、同時にリュートの脇腹を鋭く狙う。リュートはそれを素早く左へ翔んでかわすが、一瞬反応が遅れ、その背の羽の先に切っ先を食らう。
はらはらと、二、三枚白羽が飛び散った。
「……うまくかわしたな」
幸い羽先だけで済んだようで、リュートの飛行のスピードは、衰えることはない。そのまま、北の風上に乗るようにして、皇帝へと襲い掛かる。
「風を利用しての攻撃か。なかなかやるな。……だがしかし!」
甲高い金属音と共に、再び剣が弾かれる。
「有翼兵の剣などまだまだ軽いわ!」
がっしりと筋肉のついた右手のサーベルで、皇帝はリュートの攻撃をなぎ払った。
「片腕で飛竜を操る我の力、そちらとは比べものにならぬわ!」
グワォ、と鱗の下の筋肉を主張するように、竜が吼えた。
有翼兵と竜騎士の一対一では分が悪い、という要因はこの辺りにあるのだろう、とリュートは理解する。
この巨大な筋肉の固まりのような生きものを、手綱一つで操る竜騎士には相当の力が必要とされるに違いない。
それに引き替え、有翼の民は、風の力を借りているとは言え、その身を自力で浮かさねばならぬため、体重を必要以上に増やすのを嫌う。中にはナムワのようなパワー重視タイプの武人もいるが、一般にはできるだけ無駄な重い筋肉を付けないように気を使っている。特に、リュートはその傾向が強く、戦士としても細身の方で、その分をスピードと身の軽さで補っていた。
今まで、有翼の民相手の練習では、その戦法で、レギアス以外には負けなしの彼だったが、ここに来てあまりの力の違いを見せ付けられ、驚愕する。簡単に弾かれる剣、竜のスピードを利用して繰り出される一撃。その差は、誰の目にもわかる程、明確だった。
それでも、リュートはその攻撃の手を休める事はない。北からの風を背に、何度も皇帝に切り掛かる。
「無駄、無駄! そんなもの、すべて弾いてくれるわ!」
リュートのスピードに驚愕しながらも、皇帝は繰り出される攻撃をすべてはねのける。それでも、目の前の碧の瞳は少しも揺るいでいない。それどころか、攻撃の合間にも、ちら、と目を後ろに向け、何かを気にしてみせる。
「余所を気にする暇などないわ! これで仕舞だ!」
皇帝のサーベルが、リュートを襲う。
その瞬間、ヒョウ、という風の音と共に、目の前から白羽が消えた。と、同時に、目の前が真っ白に覆われる。
「――何っ!!!!」
見開かれたその目に、突然の吹雪が突き刺さった。冷たい突風に、皇帝の焔の瞳が揺るぐ。
次の瞬間、皇帝の目に飛び込んできたのは、雪よりも白い羽と鋭く光る剣の切っ先だった。
「しまっ……!」
後悔の言葉を紡ぐより先に、皇帝はそのサーベルを構えていた右肩から、血を迸らせていた。
吹き抜けた強い北風に、再び凛とした声が響く。
「我らは風と共に生きてきた民。風を読むことに関してはあなた達より遥かに上。あまり侮らないで頂きたい」
幼い頃から港町の風見を勤めていた経験、そして数日前に頭にたたき込んだ天候記録。それがリュートの揺るぎない自信となって、皇帝を前にそう言わしめていた。
「やるじゃありませんか、若! いや、あの見た目とは裏腹にまあ!!」
ナムワが感歎の声をあげる。
「そりゃ、俺の弟子だからさ。当たり前だろ」
その声と共に、上空から巻き毛の男が降ってきた。見ると、その手には先に見張り台に打ち立てられたはずの大公旗が握られている。
「大将。これでいいんだな」
巻き毛の男が差し出す旗を、若き指揮官が頷きながら受け取る。大切な大公旗が外された事に狼狽するナムワを尻目に、指揮官は巻き毛の幼なじみに、彼が先程城壁に打ち棄てた弓を渡した。
「信じていいな。レギアス」
「ああ、リュートを信じたみたいに俺も信じな。これでも弓じゃまだまだあいつにゃ負けねぇぜ」
信頼を確認しあうかのように、男達は拳同士を軽くぶつけあう。
「わ、若。一角を崩すとおっしゃられましたが、一体どのようにして……」
そう問うナムワの前に、大公旗と黒羽が広がった。
「私が囮になる」
あまりに無謀な指揮官の申し出に、歴戦の武人も驚きを隠せない。必死でその主君を諫める。
「む、無茶だ、若。そんなこと……」
「無茶は承知だ! だが、無茶でもせねばこの場は切り抜けられん! ナムワ、お前のことも信頼しているぞ。私の背中を任せる」
若き主人のその言葉に、この武骨な武人の目が一気に輝く。
「は、はい! お任せを!」
――ドン、ドド、ドン!
変わらず空に太鼓の音が響いた。その音に乗るかのように、竜騎士達は三角形の陣形のまま城壁へと襲い掛かる。
「おやっさん! もうもたねぇぜ!!」
城壁を守り続けていたナムワの部下が叫ぶ。
それに呼応するかのように、大公旗を掲げた黒い影が空中へと飛び出した。後ろに筋骨隆々の禿頭を従え、影は敵の竜騎士に向け、堂々と吼えてみせる。
「我こそは東部軍総指揮官ランドルフ・ロクールシエン! 竜騎士共よ、我が首、獲れるものなら獲ってみよ!!」
「……は、はは……ははははははは!!!!」
突然、灰色の空に、高らかな笑い声が響いた。
皇帝が、……笑っていた。
右肩からだらだらと血を流しながらも、皇帝は尚、その愛竜の背に跨ったまま、高らかに笑ってみせた。
「は、はは。今度の遠征で初めて傷つけられたわ。あの突風を読んでみせたか。やるではないか、白いの」
ぎらり、とその瞳の焔を更に滾らせ、皇帝は不敵に笑った。
「だが、まだ甘いな」
大きな八重歯をその口元にのぞかせると、どかり、と皇帝は騎竜の腹をきつくその軍靴で蹴る。それに応えるかのように、飛竜が大きく口を広げて吼えた。ずらりと並んだ牙と、てらてらと光る赤い舌があらわになる。
「風を読んだとて我を殺すことはできない」
リュートはその背に、ぞくりと寒気を感じ、とっさに風上へと移動する。
……大丈夫だ。また風が強く吹く。この距離なら間合いを詰められることはない……。
リュートのその考えを嘲笑うかのように、皇帝は再び竜の腹を蹴り、叫んだ。
「風は乗るものではない。切り裂くものだ!」
その声と共に、皇帝は間合いを一気に詰める。
――な……っ!!!
想像を超えた速さだった。
リュートの目の前に、牙が、爪が、サーベルが襲い掛かる。咄嗟に空中で身をよじらせるものの、一瞬、竜のスピードがそれに勝った。
「ぐはっ……!!!!」
胸の皮鎧が裂けて飛んだ。と同時に、紅い血が灰色の空に舞う。
飛竜の爪が、リュートの胸を切り裂いていた。
「ようやったぞ、エルマ!! とどめだ、行けぇ!!!」
血を迸らせるリュートに、尚も飛竜の爪が襲いかかる。リュートの体をその前足で掴む様に捕らえると、そのまま城壁にその身を叩き付けた。
「くっ……!!!」
苦しみ、城壁の敷石の上に仰向けに転がったリュートを、さらに竜はその前足で踏むように押さえつける。あまりの体重に、リュートの骨がみしり、と軋む。
「う、うわあっっっっ!!!!」
血まみれになりながら苦しむ足下のリュートを見て、皇帝は冷たく微笑んだ。
「終わりだ、『希少種』よ」
ばたばたと、その存在を誇示するかの様に、大公旗が戦場にはためいた。その旗を抱えた黒羽の男の登場に、混戦を極めていた戦場が、一瞬、時間を止める。すぐに動いたのは、竜騎士達の方だった。
「おい、大将のお出ましだぜ」
「あいつの首を獲れば、一番手柄だ。金貨一袋、いや、三袋もらえらぁ」
「金貨は俺のものだ!!」
「いや。俺が貰う!!」
口々にそう叫びながら、竜騎士達はその進路を変え、まっすぐに黒羽の男の元へ向かう。
「出来るものならやってみよ!!」
黒羽の若き指揮官は、そう叫ぶと、剣を抜き、まっすぐ上空へと飛び上がった。それに、護衛のナムワとその部下数名が続く。
「上に逃げようってか! 竜のスピードに勝てると思ってるのかよ!!」
ばさり、と竜の飛膜が風を乱して、その巨体を高く上空へと押し上げる。追われる黒羽の部隊は、追跡から逃れんと猛スピードで空を翔るが、竜のそれにかなうべくもなくすぐに追い付かれてしまう。鈍い音と共に、しんがりの兵士の頭に竜騎士の戦斧がたたき落とされた。ぱっくりと割れた頭から脳漿が飛び散る。
それでも黒羽の部隊は、尚、猛スピードで空を飛び続ける。その小回りのよさを生かして、上下に、左右に、揺さぶりをかけていく。なかなか捕まらぬ敵の大将に、竜騎士達の間に苛立ちが生まれてきていた。
「なぁにやってんだよ! 俺が行ってやらあ」
次々と城壁付近にいた竜騎士達が上空へと駆け上がる。
「あーあ、あいつらはいいよなぁ」
「まったく。俺だって槍か斧が持ちたかったさ」
城壁付近に残された部隊の後方で、そんなぼやきが交わされていた。数ある竜騎士の後ろに隠れるようにいるその二人の騎士は、悔しそうにそう呟きながらも、けしてその手を休める事はない。足だけで飛竜を操りながら、その両手をせわしなく動かし続けていた。
「まあ、あいつらみたいに首級はあげられねえけど、俺たちだって重要な任務なんだ。満足しようぜ、な?」
その問い掛けに、隣にいたもう一人の竜騎士は答えない。
「おい、どうした?!」
つい先程までせわしなく動いていた隣の男の手が、止まっていた。それどころか、その両手は力なくだらり、と下に落ちている。ぽたぽた、と紅い雫がその腕を伝っていた。
「おい!」
紅い雫は、先程までせわしなく手を動かし続けて鳴らしていたものを、見る間に染める。張られた白い皮、そして握った茶色い撥が真っ赤にその色を変えた。
それは、今までこの戦場で鳴らされ続けていた太鼓だった。
ぐらり、と隣の男の体が揺らいだ。そして、ようやくもう一人の竜騎士は事態を理解する。
先まで太鼓を叩いていた隣の男の首に、深々と、矢が突き刺さっていた。
「な、な、な……一体どうして……」
隣に起こった惨状に、もう一人の太鼓打ちは恐れおののく。ここは、陣の後方だ。いくら竜騎士達の大半が上空へ向かったとはいえ、城壁から狙うなんて無理だ。では一体どこから……。
ヒョン、と、突然、死角である竜の下から風が吹いた。それと同時に、太鼓打ちの目の前に、大きな翼が現れる。
「あばよ」
その翼の持ち主は、それだけ言うと、きつくそのつがえていた弓を引き絞る。
灰色の空に、巻き毛が軽やかに揺れた。
戦場に響き渡っていた太鼓の音が、突然、止んだ。
それに真っ先に気付いたのは、竜騎士が操る飛竜達だった。何か拠り所をなくしたかの様に、不安げにぎゃあぎゃあと鳴いてみせる。竜騎士達は必死にその手綱を引き、竜達を宥めるが、一向にその騎竜達はおさまらない。
その様子を上空から見ながら、ナムワが叫ぶ。
「レギアスがやりましたな、若! やっぱり若の読みどおり、あの太鼓で合図してたんでさ!!」
「ああ、家畜は笛で合図するからもしや、と思ったが、やはりか。ナムワ、今なら崩せる! いくぞ!!」
「はいっ!! 野郎共! 続けぇっ!!」
バキッ、と音を立てて、リュートの肩当てが砕け散った。
皇帝の騎竜エルマが、主人の命に従い、よりその前足に力を入れていた。
「このまま押しつぶされるがいいか、それとも、エルマに食い千切られるがいいか……」
まるで見せ物でも見るかのように、皇帝はその八重歯をちらつかせ、にやにやと笑ってみせた。命乞いでもしてみろ、とでも言いたげな顔だ。
竜の前足で押さえ付けられながらも、リュートは尚気丈に、碧の目で皇帝を睨め付けてみせる。
「誰がお前なんかに屈するものか」
ぷっ、と一つ、リュートは唾を飛ばした。
「……気にいらんな、白め。エルマよ、こいつを食い殺せ!」
リュートの目の前に、涎にまみれた牙が剥き出しになる。
――我が君!!……レミル!!!
皆、自分を信頼してくれたのに……。自分はもうここまでなのかもしれない……!!
リュートは覚悟を決め、きつく目を閉じ、唇を噛みしめた。
――ドゴッッッッ!!!!!
鈍い音が響いた。
頭蓋骨がかみ砕かれるそれではない。もっと、大きな音だ。リュートは咄嗟にその目を見開く。
巨石が、竜の頭に落ちていた。
一体どうして……!! こんな巨石が空から降って来るなんて……まさか!!
巨石の一撃で、緩んだ竜の足の合間から、リュートはその身をよじらせ、後方、第二城壁の方を見遣る。
きらり、と眼鏡が光った。
「初速をvとし、……打ち出し角度をθとするならば……この城壁の高さが……であるからして、……理想的な放物線が描く飛距離は……」
「オルフェ!!」
なにやらぶつぶつと呪文の様なものを唱えながら、眼鏡の小男が第二城壁の上の投石機の横に立っていた。さらに、きらん、きらんとその眼鏡が光る。
「第二撃、ここだ! 撃てっ!!」
オルフェの合図で、工兵が投石機を動かす。数十キロはあろうかという巨石が、再び皇帝の騎竜を襲う。
ギャア! という悲鳴を響かせ、エルマが仰け反った。皇帝はその背に必死にしがみつこうと、手綱を強く引く。
「やった! 当たりましたよ、オルフェ様!!」
「当たり前だ。私の計算は外れる事はない! 信頼するがいい」
工兵の歓喜の言葉に、さらに得意げに小男はその眼鏡を光らせてみせる。
「……オルフェ、あんた……」
下の城壁で、未だ竜の前足に捕らえられたままだったリュートが、驚いたように彼を見上げる。
「ふはははは!! この投石機とかいう兵器は素晴らしいな! リュート!! この力学に基づいたフォルム、竜すらなぎ払う破壊力!! 剣などという野蛮なものとは比べ物にならんな! いや、実に素晴らしい!!」
いつもの五割り増しで眼鏡を光らせて、小男は高らかに笑った。その様子に近くにいた工兵が言う。
「素晴らしいのはオルフェ様ですよ。たった一日で投石機の構造からその飛距離までマスターなされたんですから」
……もしかして、昨日レギアスと馬鹿にしたからか? それで、この男ムキになって一日で勉強したのか? あれだけ戦場を嫌っていたこの眼鏡の男が!
リュートは改めて、眼鏡の男を見直さざるを得ない。この男とて、この場にふさわしい、信頼するに足る戦士なのだと。
「そうら!! 第三撃! くらえ、皇帝!!!」
オルフェの声と共に、三つ目の巨石が空を舞う。その放物線は、彼の計算を少しも外れることなく、飛竜の頭へと巨石が落下する。
――ギャアアアアアア!!!!
皇帝の騎竜、エルマはたまらずその身をよじらせた。リュートを押さえつけていた前足が緩む。
「くそぉっ! エルマ!! しっかりせい!!」
皇帝の呼びかけにも、エルマは応じない。血を迸らせた頭を高く空に向け、ぶんぶんと左右に振ってみせる。立ち上がろうとするような騎竜の姿勢に、皇帝はその鞍にしがみつくのが精一杯だ。
「リュート!! 今だ、行けぇ!!!」
城壁の上で、普段眼鏡に隠されている水晶の様な瞳が、煌めいた。
竜の前足から、リュートが抜け出す。
その胸の傷から血を流し、意識朦朧としながらも、彼は素早く城壁に落としていた剣を拾った。
「はあああああっっっ!!!」
気合いのかけ声と共に、リュートの剣が飛竜を襲う。
竜の血が迸った。
リュートの剣が、鱗の装甲のない竜の喉笛を、ぱっくりと切り裂いていた。
「エルマ!!!」
皇帝が叫ぶ。しかし、エルマは鳴き声一つ立てない。その首を天に向けたまま、ぐらり、と後ろに倒れ込む。
「……しまった!!」
城壁の上でバランスを崩したエルマは、そのまま後ろへとその身を反らす。だが、そこにその巨体を受け止めるものはない。城壁から崩れおちたエルマは、その背に騎手を乗せたまま、まっすぐに城壁下の山肌へと落ちていった。
「エールマーっっっっ!!!」
皇帝の声が城壁の下へと遠く消える。
――やった! 皇帝を……、皇帝の竜を落とした……!!
それだけ確認すると、リュートははあはあと息を切らし、がっくりと城壁の上に倒れこむ。腕が、足が、羽が、言う事を聞かない。
「リュート!! リュートーーーーーっっっ!!!」
オルフェの声が響く。その声を遠く聞きながら、彼は胸から血を大量に流し、ふっつりと、城壁の上にその意識を手放した。
「陛下ーーーっ!!!」
その様子を見ていた一人の竜騎士が、勢いよく空から駆けつけた。その騎竜を駆り、一直線に皇帝が落下した城壁へと急降下していく。地肌がその眼前に広がる頃、彼はようやく落下している皇帝に追いついた。
「陛下! こちらへ!!!」
墜落する寸前のところで、騎士の腕が皇帝を捕らえた。主君を抱きかかえるように掴むと、騎士は手綱を強く引き、地上すれすれで衝突を回避してみせる。
それと同時に、グシャリ、と山肌に、何かがつぶれる音が響いた。
竜の頭蓋骨が、肋が、大腿骨が、無惨に潰れる音だった。
「エルマーーーーーっっっ!!!」
皇帝がその愛竜の名を叫ぶ。騎士の腕の中で、皇帝は身を乗り出し抵抗するが、騎士はそれを力強く引き戻す。
「離せ! エルマが、エルマが……!!」
「陛下! 落ち着いてください! あなたが助かっただけでも奇跡に近いのですよ?! エルマの事はお諦め下さい!!」
「あれは、我が卵の時から育ててきた飛竜だ!! 諦められるか! エルマ、エルマーーーーーっっっ!!!」
助けられた竜の背で、皇帝はその焔の目に涙を浮かべながら、竜の名を叫び続けた。それでも、彼の愛竜は応えることはない。
「お、おのれ、あの白め。絶対に許さぬぞ。ここのやつら、皆殺しにしてくれるわ!!」
ようやくその愛竜の死を認識すると、二人乗りになった竜の背で、皇帝は再びその瞳の焔を滾らせた。
「お待ち下さい! 陛下。この二人乗りの状況で戦うのは無理です!! それに……」
そう言って騎士は城壁の左を指さした。
「あちらも、もう立て直せません!」
そこには無惨に有翼兵に追い立てられる竜騎士達の姿があった。陣は崩れ、そのパワーとスピードが生かせず、小回りの利く有翼兵らにその身を蹂躙されていた。
「……なんだ、あのざまは!!!」
皇帝が猛る。
「あの男のせいです! あの黒羽の若い男にやられました!」
そう言って指し示した指の先には、大公旗をはためかせ、戦場の中心にて指揮をとる黒羽の指揮官の姿があった。
「……陛下! ここは一旦退きましょう! この状況では無理です!」
――あの黒か! くそぅ! やはりあいつから殺しておくべきだった!! まんまとあの黒と白にやられたわ!!
悔しげに皇帝はその拳を鞍にぶつける。ふと、その鞍に縛り付けられていた弓と矢が目につく。
「……仕方ない、退こう」
「陛下!」
ようやく納得してくれたかと、騎士は安堵の瞳を主君へと向ける。しかし、そこには尚衰えぬ焔がめらめらと宿っていた。
「だがこの皇帝、……ただでは退かん!!」
そう言うと、皇帝は鞍からほどいた弓を、竜の背に乗ったままつがえた。ギリ、と引き絞ると、その狙いをつける。それはまっすぐに、戦場にいる黒羽の男に向けられていた。
その様子に、レギアスがいち早く気づき、空中へと飛び出す。
「別れのキスだ!! 受け取れ、黒!!!」
「ランドルフーーーーーっっっ!!!」
灰色の空に、紅い血が舞った。