第十三話:初陣
すべて灰色の世界に、ひらり、と一粒の白が舞い降りた。
「あ〜、とうとう降ってきちまったな」
灰色に染まった空を見上げ、ほう、とレギアスは一つ白い息を吐いた。舞い降りた白い粒が、それにじわり、と溶ける。
それは、今年初めての雪だった。
「まったく、山は天気が変わりやすくて嫌だね〜」
灰色の城壁の石組みの上に右足だけを乗せて、彼は辺りを睥睨する。
そこには、葉を落とし、薄くその枝に雪を被った木々、そして、その向こうには、これまた灰色に化粧した山々が粛々とそびえ立っていた。
要地、ルークリヴィル城の北の守りであるここ、カルツェ城は、半島中部最高峰カルツェ山山頂に建設された堅城である。南に向け、扇形に開いた形になっている城壁の上には、静かに整列した灰色の鎧姿の兵士達が、じっと南の空を見つめていた。さすが、その反骨精神で名高い東部者達らしく、彼らの眼光は他の国王軍、南大公軍らと比べて遙かに鋭い。
「準備はいいか、レギアス」
「アイアイ〜」
レギアスの左手にはめられた革手袋が、きゅっと音を立てる。使い慣れたその艶やかな手袋に、自ら調整した矢羽が握られた。
「こっちはいつでもいいぜ、大将」
そう答えるレギアスの顔には、いつもの伊達男の香りは微塵もない。自慢の巻き毛も今日は整えられることなく、無造作に冷たい風になびかせたままだ。
「そっちはどうだ、ナムワ」
ぶん、と槍先が風を切った。むん、むん、という掛け声と共にさらに槍が器用に回される。自らの筋肉の調子を確かめるように、槍をひとしきりぶん回すと、ナムワは最後にその槍尻をドンッ、と城壁の敷石に叩きつけた。
「はあっはっはぁ〜っ! このとおり絶好調でございますともぉ!! 野郎共も準備はいいかぁ!」
「アイサー」
「いつでもいいぜ、おやっさん」
ナムワの後ろに、彼が育てた駐留軍の精鋭達がずらり、と並ぶ。いずれもその上司に劣らぬ猛者達だ。
「投石部隊、どうだ」
「準備万端でございます!」
城壁にしつらえられた投石機、すべてに数十、いや、ものによっては数百キロにもなる石がすでに備え付けられていた。
その横で、きらりと眼鏡が光る。
「御武運を」
それだけ言うと、その眼鏡はそそくさと城内に姿を消した。
その全てを確認した黒羽の若き指揮官は、城壁の中心に戻り、力強く頷く。
――これで、よい。
ばたり、とその背後に四つ羽の紋章旗がはためいた。
「リュート」
若き指揮官は、その後ろに控えていた臣下の名を短く呼ぶ。
カツリ、とその軍靴を敷石に鳴らし、美しい白羽の若者が現れた。武骨な皮鎧を纏い、腰に長剣をはきながら、冷たい風に光り輝く金の髪をなびかせたその姿は、誰もが見惚れるほど凛々しい。
彼は何も言わずとも、その主君の意図を汲み取り、静かに頷いた。後ろにはためいていた大公の紋章旗をおもむろに抜き取ると、それを抱えて灰色の空へと翔け上がる。
ちらちらと降る雪に、それにも似た白羽が混じって舞い落ちた。ひゅん、と風を切り、白い翼が灰色の空に映えて飛ぶ。
その影は、そのままカルツェ城で一番高い見張り台の上に降り立つと、手に持っていた旗をその頂点に力強く打ち立てる。
ばたばたと激しく旗が鳴った。その背後からの北風が、大公旗と金髪を南へとなびかせる。
山々が連なる地平の向こうを、その碧の瞳で鋭く見つめ、彼は一つ呟いた。
「……来た」
灰色の空に、黒い点が浮かび上がる。最初は一つ、二つしか見えなかった黒点が、見る間にその数を増やしてゆく。そして、瞬きをする間もなく、一気に灰色の空を黒く埋め尽くすほどになった。
――ギャア、ギャア。
この大陸で聞くはずのない不気味な鳴き声が響いた。
「来やがったぜぇ! くぅ〜っ! 腕が鳴るぜぇ!」
ギリ、と弓が引かれた。矢の筈が、弦にしっかりとかかる。
「はっはっはぁ! 血がたぎるわい! 野郎共! 抜けぃ!!」
すらり、と、無数の剣が天に向けられた。その中で巨大な槍が、一層高く掲げられる。
「撃ち方用意!!」
天秤型の投石機の止め具に、一斉に工兵の手がかけられる。照準を合わせ、その合図を待つ。
「我が君」
見張り台から、白い影が舞い降り、黒い若き指揮官の元に着地した。その金の髪を垂れ、深く跪くと、彼は短く主君に言った。
「お言葉を」
黒羽、黒髪が風になびく。
地平の黒点の群れを、揺るがぬ黒曜石の瞳で見据えると、若き指揮官はその臣下の要望に答える。
「聞け! 皆の者! 今我らが目にしている者共は、その心根卑しい略奪者共である! 情け、手加減一切無用! 我ら東部軍の誇りと反骨精神、奴らに存分に見せてやれ!!」
その声に呼応して、城が揺れる。びりびりと震える空気に、若き指揮官はさらに吼えた。
「奮い立て!! 我らの手に勝利を!!」
「勝利を!!!!」
「勝利を!!!!!」
地を揺るがさんばかりの雄叫びが、山々に響いた。
その声を打ち消すかのように、けだものの鳴き声と、それが立てる風切り音が近づいてくる。
――ドン、ドン、ドドン。
彼らの戦意を鼓舞するような太鼓も打ち鳴らされた。
――ドン、ドド。ギャア、ギャア。
牙が無数に並んだ赤い口が大きく開かれる。その牙の間からよだれを垂らしながら、その背の飛膜をいっぱいに広げ、けだものは躊躇せず城へと迫ってくる。
――ギャア、ギャア、ドドン。ギャア、ドドン。
空の喧騒の中に、一つ高らかな声が響いた。本来、この大陸では聞くはずのない言語だ。
「恐れるな! リンダール竜騎士団よ!! 我に続けぇ!!」
灰色の空に炎が燃え立った。
その焔の赤毛を堂々となびかせ、若き皇帝は、彼の愛竜の尻にきつく鞭を入れる。さらにその速度を上げた、飛竜の背で、帝国特有の形をしたサーベルがきらりと光った。
「行けぃ! あの城を落とせぃ!!」
ゴオォォォ、という風切り音と共に、竜騎士達がずらり、と並ぶ。彼らは空中で、矢印の先端部の様な陣形になると、一斉に彼らを乗せて飛んでいる飛竜の腹を、鐙に乗せた軍靴で打ち付けた。
「突撃ーっっっ!!!」
槍が、戦斧が、サーベルがうなる。
「第一撃! てぇっっ!!!」
がこん、という音と共に投石機の止め具が外された。天秤型の投石機の先にぶら下がっていた重りが一気に落ちる。それと同時に天秤の反対側に乗せられていた巨石が空に舞った。矢印の先端部へと、石が雨の様に降り注ぐ。
ぐしゃり、と音をたてて、騎士の頭蓋骨が砕けた。騎手を失った飛竜が数匹よろめく。
「怯むな! 行け、行けぇ!」
石の雨にも、赤き焔は少しも揺るぐことなく、檄を飛ばした。無論、その軍隊も揺るぐことなく、その距離を詰めてくる。
「第二撃、てぇっっ!!」
再びの石の雨に、竜騎士達はさらに、その鐙を竜の腹に打ち付けた。皆で盾をその頭上に構えながら、飛竜の速度を増し、一気に石の弾幕を翔け抜ける。
「弓兵、前へ!!」
黒羽の指揮官の命令と共に、城壁にずらり、と弓が並んだ。ぎり、ぎり、と弓が鳴る。
「食らえ! 化け物共!!」
レギアスが吼える。
灰色の世界に、紅が飛び散った。最前線にいた竜騎士達が、ハリネズミのように矢をその体に突き立てられながら、次々と倒れていく。それでも、竜騎士の隊列は乱れることがない。倒れた騎士のその後ろから、戦斧を構えた新たな竜騎士が、東部軍に襲い掛かかっていく。
目の前に迫った竜騎士に対し、レギアスはその弓を捨て、すらり、と腰の長剣を抜いた。
「おやっさん!! 行くぜぇ!!」
「おうとも!!」
ぶん、と槍をぶん回し、筋骨隆々の禿頭が空へと翔んだ。それに、後ろに控えていた彼の自慢の精鋭達が続く。
「このトカゲ使い共がぁ! このナムワ様が相手だ! かかってこぉい!!」
それから半刻ほど、両軍入り乱れての攻城戦がしばらく続いた。
剣、槍、矢、斧、石、旗、鎧、羽、腕、足、首、そして血。あらゆるものが空中を舞っている。
その様子を両軍の若き大将は、ただ静かに見守っていた。
「我が君。もう間もなく、バッハ城に待機させていた別働隊が到着するはずです。いかがいたしましょう」
金髪の臣下が尋ねる。
「……このまま、このままでよい。このまま竜騎士共の意識をこちらに向けておけば……」
「はい、ただ、もうそろそろあちらの部隊から連絡の狼煙が上がっても良さそうなものなのですが……。もう一度見て参ります」
そう言うと、白羽が再び見張り台へと飛び上がる。その眼下には、血なまぐさい戦場が一面に広がっていた。
その評判に違わず、竜騎士はその一人一人が強い。片手で飛竜を操りながら、臆することなく有翼の軍隊の中につっこんでくる。有翼の民の三倍のスピードで飛ぶと言われる飛竜に乗って繰り出される一撃は、並の兵士ならすぐに吹き飛ばされて、地に落とされる。それのみならず、飛竜はその力強い顎で、目の前の兵士をかみ砕き、その両足のかぎ爪で、盾もろとも有翼の民を蹴散らしてゆく。一騎で有翼兵十人に匹敵するという噂が立つのも無理はない。
――分が悪いな……。
今日が初陣の金髪の青年の目にすら、この戦場はそう映る。
いや、もとより分の悪い戦いは承知だったはず。これも、後ろからの奇襲を成功させるための布石。……だからこそ、青年には山の向こうからの狼煙がひどく待ち遠しい。
「まだか……」
白く霞む山の向こうを、ぎり、と碧の目は見据え続けた。
「むん!! むううん!!」
大きな槍が黒い鱗を貫く。つるり、とした禿頭に、紅い血がぴしゃり、と飛んだ。
「うぬう! キリがないではないかぁ! 奇襲部隊はまだかぁ!!」
駐留部隊隊長ナムワは、すでに四体の竜騎士をその槍で仕留めながらも、そう吼えた。酷使した筋肉が軋む。果たしてこの儂の槍がいつまでもつものか、と歴戦の武人が懸念するほど騎士らの攻撃はやむことがない。
「おやっさん!! おやっさん!!!」
戦場を共にしてきた腹心の男がナムワに近づいてきた。そして、静かながらも、緊張した声で、ナムワに囁く。
「おやっさん、おかしいぜ。あいつがいねえ」
――まだか……!!!
なかなか上がらぬ狼煙に、若き黒髪の指揮官はその唇をきつく噛んだ。
もう、これ以上は時間が稼げないぞ、あちらの部隊は何をしている……。あの腑抜けどもめ。まさか裏切ることはあるまい。そのためにクレスタ伯をあちらにやったのだから……。
「くそっ……!!」
目の前の城壁の上に、苛立ちの拳が叩き落とされる。
「若! 若!!!」
上空から熊の様な声が響いた。血を被った禿頭が現れ、神妙な面持ちで指揮官に話しかける。
「若! 大変でございます! 部下からの報告ですが、やつが、いません!!」
「やつ……?」
「将軍でございます!! いつも皇帝の側で指揮を取っている帝国の将軍、サイニーがどこにもおらんのです!! 今まで、みんなやつにやられてきたんです!! 本当に恐ろしいのは皇帝じゃねえ!! その側にいつもいるサイニー将軍だ!! それが、いねえんでさ!!」
「何!? どういうことだ!!」
将軍の不在、未だ上がらぬ狼煙、そして来る気配のない奇襲。
まさか、まさか……!!!
言いしれぬ不安が、若き指揮官を襲った。
――……来ぬ、のか。
小さく指揮官は呟く。
あちらが期待出来ぬのなら、この場は今あるこの東部軍だけで戦わなければならない。もとより、時間稼ぎのための布陣だ。とてもこの戦力で勝てる見込みはない。
どうする……。このままここで戦いを続けていても、じわじわと消耗するだけだ。なにか打開策を考えなければ、我らは皆殺しにされる。
……いっそ、この北のマルク城まで撤退するか。だが、どのように撤退する? ナムワの部隊を表に立たせたとしても、全軍がマルク城につくまでには到底もつまい。撤退も無理か。……どうする、どうする……? 考えろ、考えろ!!
冷や汗が、たらりとその額を流れた。
城壁の上に握った拳の震えが止まらない。
目の前では自分の部下達が、死闘を繰り広げている。
――どうする……、どうする……!?
「しっかりなさいませ!!!」
凛とした声が響いた。
「まだあちらの部隊がやられたと決まったわけではありません!! 何を動揺されておるのですか、指揮官たるあなたが!」
見張り台へ行っていたはずの臣下が、そこには居た。彼は驚く主君に構わず、尚もその叱責を続ける。
「『いかなる場合でも子は親の顔を見れば安心するもの。だからこそ堂々とこの場にいなければならぬ』。かつて、あなたが僕に言った言葉です。もうお忘れですか!」
それは、かつて、自分が市長職であったとき、この白羽の若者に言った言葉だった。
「ここにいる者達は皆あなたの子も同然! あなたの顔を見るだけで安心するのですよ! どうぞ、ご冷静に!」
揺るいでいないのか、この男。
指揮官は目の前の若者の進言にひどく驚く。あちらの部隊には、かつて、あれほど執着した兄がいるはずだ。その安否もわからず、ましてこの打開策のない戦場で、揺るがぬか、この男。
相変わらず、凛とした碧の目で臣下は主君を見つめている。
「信じましょう! あちらの部隊を信じましょう、我が君! そして我々にはまだこの場で出来ることがあるはずです!!」
「しかし……」
「兄は昨日僕に言いました。一人前の男になる、と。僕はその言葉を信じます。兄を、そしてあちらの軍を信じます。例えこの場に来ることが出来なかったとしても、あちらはあちらで立派に戦っておるのだと! そしてそれは我が軍とて同じだということを!!」
ここまで、信頼するか。
兄を、そして我が軍の勝利を。……この男!!
黒羽の主君は初めてその臣下に戦慄した。それと同時に、腹の底からなにやら笑いがこみ上げてくる。
臣下とは……、ここまで頼もしいか。ここまで、自分を奮い立たせてくれるものか! ここまで、自分の精神を支えてくれるものか!!
レギアスにも、オルフェにも抱かなかった感情が、今、ランドルフを支配していた。
「我が君」
城壁の上に握られたままだったランドルフの右手に、リュートの左手が重なる。
「昨日、差し上げましたでしょう」
それは、昨日、口づけを受けた手だった。
「僕の忠誠、僕の命、あなたに差し上げましたでしょう」
金の髪の下に、光を湛えたエメラルドが煌めいた。
「ご命令を」
――ギャア!!!
突然、けたたましい鳴き声が鼓膜を打った。城壁の下から、嫌な風が舞い上がり、黒髪と金髪を揺らす。あまりの突風に顔を背けながらも、二人は城壁の外を見遣る。
「そこの黒が大将か」
聞き慣れぬ言語が投げかけられた。
黒い鱗の上に、赤い焔が燃えていた。その髪、その目、今にもこの戦場をすべて焼き付くさんばかりに、赤く、野心的に輝いている。ひときわ大きな武装飛竜に乗り、その男は独特の形のサーベルを二人に向けていた。
「……皇帝だ!!!」
ナムワが叫ぶ。
「そいつが皇帝、カイザル・ハーンだ、若!!!」
にや、と騎竜している男の口元が歪められた。
「その首、この皇帝がもらってやろう、黒羽よ」
言語は互いにわからずとも、場の空気がそのすべてを語っていた。危機を察して、ランドルフはその腰の剣に手を伸ばす。
すっと、彼の前に進み出た手が、それを止めた。
「ここはお任せを」
目の前に白羽がいっぱいに広がった。竜が巻き上げた風に乗って、豊かな金髪がきらきらと舞う。
「ここで、あの首を取れば我らの勝ち。そうでしょう?」
後ろ姿のため、その表情は読み取れないが、その白羽の臣下は、ひどく落ち着いた声で、そう主君に言った。そして、尚揺るがぬ声で告げる。
「どうぞ、ご命令を。……行け、と」
――これほど、頼もしい背中が、あるか。
あの、きゃんきゃんと喚き、自分に爪を立て続けていた山猫が。ことあるごとに『兄』、『兄』と言い続け、弱って食べることさえ出来なかった子供が。
今、堂々と私の前に立ち、敵国皇帝の前に立ちふさがっている。
……リュートよ、お前は……。
ランドルフはもう、言うべき言葉が一つしか見つからなかった。
「行け、リュート。皇帝の首、……獲ってこい!」
「御意!!」
その軍靴で、勢いよく城壁の石組みを蹴ると、白い羽を風にはためかせ、リュートは空中へと飛び出した。黒い飛竜と同じ目線にまで飛び上がると、彼は恐れることなく、その碧の目で騎手の焔を睨め付ける。
目の前に飛び出してきた、白羽の若者を、皇帝は頭から、足先まで舐めるように見つめると、一つこう言った。
「ほう、なんという『希少種』か。殺すのが惜しいな」
無論、その言葉はリュートにはわからない。少しも揺るぐことなく、その腰の剣に手をかける。
「クレスタ伯が第二子にして、次期ロクールシエン大公が臣下、リュート・ニーズレッチェ」
すらり、と音を立てて、よく磨かれた剣が抜かれた。
「リンダール帝国皇帝陛下よ、お相手願います」