第十二話:忠誠
そこに待っていたのは、空色の羽に輝く太陽だった。
先に訓練を行っていた城壁とは反対側、城の中庭が見渡せる北の城壁に、彼はいた。彼は弟の姿を見つけるなり、いつもの人なつこい笑顔で手を振って見せた。
「レミル!!」
そう嬉しそうに叫びながらも、リュートは少し近づくのをためらった。あの収穫祭以来、彼とはまともに話していなかったからだ。どんな顔をして、何を話せばいいのかわからない。
戸惑うリュートに、彼の方からすっ、と近づいてきた。
「ひさしぶりだな、リュート」
そう、向日葵の様な満開の笑顔で、兄は微笑んで見せた。
「聞いてるかもしれないけど、俺、今日バッハ城に移動することになったよ」
その兄の言葉に、リュートはこくり、と静かに頷いてみせる。それを確認すると、兄は眼下に広がる木々をゆったりと眺めた。
「行く前に、お前にどうしても会っておきたくて、さ」
口角をあげ、慈愛に満ちた眼差しで、兄は弟の方を振り返った。
「ごめんな、リュート」
兄の突然の謝罪に、リュートは言葉が出てこない。何も、謝られることなんかない、とそう思う。弟のその様子を知ってか知らずか、兄はまた、静かに、そしてしっかりと弟を見つめて言った。
「俺、お前のこと、避けてた。本当に、ごめんな」
な、何を、とリュートは思う。どちらかと言えば、避けていたのはリュートの方だった。あの収穫祭の夜以来、絶対に翡翠館から出ようとしなかったし、この間の出征の時だって、黒羽の主人の後ろに隠れてみせたのだから。
「レミル……あの、僕は……」
「俺、お前に嫉妬してた」
言いかけるリュートより先に、きっぱりと、彼は自分の感情を吐露して見せた。だが、その目は以前、トゥナに見せた悔しげな目ではなかった。
……澄んでいる。嫉妬、という濁りが少しも感じられないくらい、兄の目は澄んでいた。
「俺、お前がうらやましかったんだ。俺より、どんどん出世していくお前が」
出世? とリュートは思った。あれはどう見てもただこき使われていただけだろう。
「それで、何にもせずにただ与えられたことだけこなしてる自分が、なんだか情けなく思えてさ。でも、自分に実力がないの、認めるのが怖かったから、お前から逃げることで自分を誤魔化してた。正直、お前が翡翠館に住み始めた時も、ほっとした。これでお前を見なくてすむ。これで重荷から解放されるって」
――重荷……。
リュートはその言葉を噛みしめる。兄が、あの夜トゥナに言っていた言葉だ。『正直、俺には重すぎる』と。
自分の存在を、否定された言葉だった。
「お前、ずっと言ってただろ。『俺の力になりたい』って。正直、あれは俺にとって重荷だったんだ。まるで、自分が頼りない、任せられないって言われてるみたいでさ」
レミルのその言葉に、リュートはすぐに食らいついた。
「違う!! 僕はそんな意味で……」
『力になりたい』は方便だ!! 本当は、ただ、ずっと一緒にいたかっただけだ! 血の繋がっていない自分が、身よりのない自分が、あの家族でいるために!! そのために何をすればいいのか考えた結果が、『兄の役に立つ』と言うことだっただけだ。
リュートのそんな思いを見透かした様に、兄は微笑んだ。
「わかってるよ。そんなこと。わかってたから、かえって辛かったんだな。自分の不甲斐なさが」
「レミル……」
「お前は本当に頑張ってた。今もだ。いつも俺のことを考えてくれてる。そうだろ?」
……誤解、されていなかった。兄はちゃんと、自分の事をわかってくれていた。
それだけで、リュートは今にも泣きそうになる。
「俺が悪いんだ。ただ、楽な方に流されて、楽しいことしか見ようとしなかった。お前の舐めた辛酸のその一粒ですら、俺は舐めようともしなかったのに」
それでいい、とリュートは思った。だから、この人はいつも太陽の様に笑えるのだ。その笑顔を守るためなら、何でもしようと思っていた。
「リュート、俺はこれから、少しでもお前が苦労してきた分を分かち合おうと思う。そのために、この戦場に来たんだ」
そう言うと、レミルは再び、すっと、前の木々の向こうを見つめた。
「俺、強くなりたいんだ」
「一人の男として、俺もお前の様に強くなりたい」
兄のその言葉に、リュートは再び、言葉を失う。
どこが、強いというのか。ただ兄の情けにすがって生きてきた自分の、どこが強いというのか。
「お前は強いよ、リュート。剣が、とか弓が、とかそういうんじゃない。俺は、その精神が強いと思う」
リュートはただ、首をふるふると横に振った。精神など、一番自分に自信がなかったからだ。この前だって、あれだけのことですぐに食べられなくなったくらいだ。
弟のその震える肩を、しっかりと掴んで、兄は言う。
「だって、お前はずっと自分の信念の元に、自分を磨いてきたじゃないか。いや、それだけじゃない」
真っ正面から、兄の瞳に見つめられる。
「あんな辛いことがあったのに、お前はちゃんと立派に生きてきたじゃないか。こうやって、俺にも届かない男に、なってみせたじゃないか」
ぼろぼろ、と碧の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
それは、肯定だった。
自分の存在、そのすべての肯定だった。
その顔をくしゃくしゃにして、弟は兄に抱きついた。
――ありがとう、ありがとう。レミル。
その言葉だけで、自分は救われる。ただ、寂しくて、辛くて、行き場のなかった子供が、それだけで、救われる。
子供のように泣く弟を、兄は静かに受け止めた。ゆったりと、その金の髪を撫でてやる。
小さくて、食べることも出来ずに、毎日母を想い、泣いていた幼なじみ。それを近くで守ってあげたくて、弟にしてくれと、母に頼んだのだった。
幼い日の、そんな記憶が蘇った。
ひとしきり、弟が泣いたあと、兄は静かに弟に言った。
「こんな風に思えるようになったのは、一人の女のおかげなんだ。……お前も知ってる、トゥナだ。彼女が俺を変えた」
こくり、と静かに弟は頷く。
「……トゥナは、レミルに何を言ったの?」
「……別に、何も。ただ……」
そう言って兄は言葉を濁す。その先を聞きたくて、弟は赤く腫れた目をぬぐい、首をかしげて尋ねた。
「ただ、何?」
「……笑うなよ」
「え?」
「今から言うことで、絶対笑うなよ!!」
そう顔を赤らめる兄に、弟はこくこくと真剣に首を縦に振ってみせる。それを受けて兄は恥ずかしそうにしながら、ようやく口を開いた。
「……抱いて、わかったんだ」
きょとん、と弟はその碧の目を見開いて見せた。……なんだか、どこかの色惚けが言いそうな台詞だ。
「おま、笑っただろ!!」
「わ、笑ってないって!!」
「うそつけ!! 笑っただろ、笑っただろ! このやろ〜!!」
そう言って兄は弟の脇をこちょこちょとくすぐってくる。それに負けじと弟も応戦する。
「やったな! こっちだって負けないからな!」
若い男、二人の笑い声が中庭に響いた。
気の済むまで笑い合うと、ぜいぜい、と肩をいからせながら、兄弟は一息つく。そのまま二人して、城壁の上にごろんと寝転がった。
「笑わないから、教えてよ、レミル。抱いて、何がわかったの」
「うん……なんつうか、あいつも無理してんだなってことがさ」
「無理? トゥナが?」
リュートは少し驚く。何にでも気の強い女だと思っていた幼なじみである。とてもそんな風には思えない。
「いつもはああやって気を張ってるけど、あいつ本当は俺と同じで、弱いところがあるよ。だって……」
そこで、一旦兄は言葉を句切った。
「してる最中、ずっと俺の手、離さないんだぜ」
生々しい情事の表現に、リュートはその耳まで赤くする。自分で聞いておきながら、なんだか気恥ずかしくて、身の置き場がない。
「そんときに俺思ったよ。俺がこの女支えてやらなくちゃ駄目だって。それまでは俺、あいつに正直甘えっぱなしだったんだけどさ。それに気づいたとき、このままじゃ駄目だって思った」
レミルはその右手を垂直に空に向けた。
「あいつは気を張り続けてなきゃ生きてけない女だろうけど、そんでもいつかよろめく時が来たとき、あいつをちゃんと支えてやれる男でなくちゃと思った。そのためには、まず俺が強くならなきゃいけない。今までみたいに、逃げて、文句言ってちゃ駄目だって。そんなことしてたら、いつかあの女に逃げられるって、そう思った」
確かに、あのトゥナだったら愛想が尽きたらさっさとどこへでも出て行けるだろう。手に職を持つ女は怖い。
「そんで、とりあえず、お前から逃げるのをやめようと思った。お前を改めて、真正面から見直してみたら、なんか、お前すごい男だなって、そう思ったんだよ」
レミルは空に向けた手を、何かを掴むように、ぎゅっと握りしめた。
「俺、強くなりたい。そして、あの女を手に入れたい」
兄のその宣言に、弟は一つ、うん、と頷いて見せた。その弟をちらり、と横目でいたずらっぽく見つめ、兄は言う。
「お前にもいつかわかる。強い女がその弱さをちらり、と見せた時。男はどうしてもその細い肩を抱きしめずにはいられないんだぜ。……あれはもう、ぐっとくる!!」
「ぐっ……と……」
うんうん、と真剣に頷いて見せる弟に、さらに兄は舌を出して、からかった。
「ま、お子様のリュートちゃんにはまだまだわからない話かもしれないけど〜」
その言い様に、むっとして弟は言い返す。
「そんなことないよ!なんだよ、自分だけ大人ぶりやがってさ!ちょっと……したくらいでいい気になってさあ〜」
「はっはっは! 何とでも言え! やーい、おこちゃま、おこちゃま〜」
「なんだとぉ! この剣抜いたら、レミルなんか一撃であの世逝きのヘタレのくせに〜!!」
「お前、剣なんか使うんじゃねえ! 男なら素手でタイマンだろうが!」
「素手がいいか! ならやってやろうじゃん! ぼっこぼこにしてやるよ!!」
「……これでも手加減したんだから、感謝してよね、レミル」
ぱんぱんと、リュートはその両手を払う。彼の後ろには文字どおり、ぼっこぼこにされたレミルが横たわっていた。
そう言えば、こんな風に兄弟喧嘩したのも久しぶりだったな、と思い出す。
「なあ、リュート」
その切れた口元をぬぐいながら、兄は弟に話しかけた。
「こんな兄ちゃんだけどさ、俺はもう大丈夫だ」
弟は静かに、後ろを振り返った。そこには、目を細め、ゆったりと微笑む兄の姿があった。
「俺、頑張って一人前の領主になるからさ、お前はお前の道を行け」
「……レミル」
「俺なんか、比べものにならないほどの重荷を背負っている方が、お前の側には居るだろ? ……守ってやれよ」
ぎゅっと、弟はその唇をきつく噛みしめた。
「あの方を守ることが、お前が望んでいた俺を守ることにも繋がるんだぜ。そうだろ、違うか?」
兄のその質問に弟は答えない。ただ、無言で、その手を握りしめた。
その様子を見て、兄はその懐を探って、小さな袋を二つ取りだした。紐が付いていて、細かな刺繍が施されたものだ。
「これ、母さんからだ。父さんが預かってきてくれた。お前にも一つ渡してくれって。母さんからの手紙が入ってるんだ」
そう言って、中から小さく折りたたまれた紙を出して、それを弟の目の前で広げた。
『早く帰ってらっしゃい。ずっと、待っているから』
懐かしい義母の手で、はっきりとそう書かれてあった。
「そんで、これにだな……」
そう言うと兄はおもむろに自分の背の羽に手を伸ばした。ぷちり、とその空色の一枚を抜き取る。そして、それをさっきの手紙に挟んで、再び袋に入れ直した。
「お守り! これでいつも一緒だろ?」
ずい、と弟の目の前にそれが差し出される。弟は、また泣きそうに、くしゃくしゃに顔を歪めて、それを手に取った。そしてそれをきつく胸に抱きしめる。
「……僕、レミルの羽が大好きだ……。空の色で、とても綺麗だから」
「何言ってんだ。自分の方が、そんな真っ白な羽しといて」
泣きそうな弟の額をこん、と小突くと、兄はその白い羽に手を伸ばす。そして自分と同じ様に、その一枚を抜き取った。
「俺は、お前のこの真っ白な羽が大好きだぜ!」
そう言って、兄は弟が何よりも好きな、太陽のような笑顔で笑ってみせた。
「俺が空なら、お前は雲だ、リュート。どこへだって、好きなところへ飛んでいけ。俺はずっと、見てるから。いつでも、俺の所へ帰ってこい」
うん……、と大きく、一つ弟は頷いた。
待っていてくれるのか、あの家で。あなたが、僕の帰る場所を、持っていてくれるのか。あなたが、僕の家になってくれるのか。
ならば、飛んでいこう。自分の行けるところまで、この翼で僕は飛んでいこう。帰る場所がわかっていれば、それだけで、僕はどこまでだって飛んでゆける。
いつしか、透き通るような青空は、茜色に染まっていた。
ああ、これは暖かい、そうだ、暖炉の色だ、家族が集まる色だ、とリュートは思う。その茜の空に飛び立つ空色の羽を、リュートはいつまでも静かに見送っていた。
地図、城の配置図、名簿、天候記録、その他もろもろの書類を前に、黒羽の若き次期大公は頭を悩ませていた。
はたして、無事この作戦が遂行出来るだろうか。我が軍の損失はいかほどのものになるだろうか……。
悩んでも仕方がない、と思っていても、その緊張はけして緩められることはない。その不安を飲み込むように、彼は机の上のワインを一杯だけ煽った。
コンコン、と突然、部屋の戸が叩かれた。
こんな時間に誰だ、と不審に思い、警戒しながらも、彼はその扉を開ける。
程なくして飛び込んできたのは、澄んだエメラルドの瞳だった。
「……お話が」
それだけ言う瞳の持ち主を、彼は静かに部屋に迎え入れた。
「どうした、こんな夜更けに。一杯付き合うか」
そう言って、若き次期大公は先ほど自分が飲んでいたワインを瓶からグラスに注いでみせる。
「いえ、酒は結構です」
碧の瞳の持ち主はそう言うと、まっすぐにその瞳で、次期大公の黒曜石の瞳を見つめた。
「……いい目をするようになったな」
その言葉に、碧の瞳は少しも揺るがない。上質の宝石のごとく、透き通った輝きを見せる。
「ランドルフ様」
初めて呼ばれた自分の名に、次期大公は少し驚く。
「あなたに……お仕えします」
二人の間に沈黙が流れる。先に口を開いたのは、次期大公だった。
「……いいのか」
その問いに、迷いなく碧の瞳は頷いた。
「その代わり、お約束していただけますか? 僕の理想の大公になると。国を思い、臣下を思い、領民を思い、すべて私利私欲のためでなく、その公序良俗のままになし、誰からも好かれ、誰からも敬われる、そんな大公になられると約束してくれますか?」
その問いに、黒曜石の瞳も揺るがなかった。
「約束しよう」
「では、僕のすべての忠誠を、あなたに差し上げます」
深々と下げられた金髪に、次期大公はその手を差し伸べる。
「跪け」
素直にその足が床に折られると、次期大公はその指で碧の瞳を上げさせた。
「誓いを」
瞳の目の前に差し出された手が取られる。
「我が主君である、ランドルフ・ロクールシエン様に、永久の忠誠を」
静かに、指先に唇が触れた。
その口づけをした手が、黒髪が薄くかかる額、そしてその胸、最後に唇に優しく触れられる。
「我が臣下リュート・ニーズレッチェに、主君から祝福を」
唇から離した手が、今度は同じように金髪が薄くかかる額、そしてその胸、最後に唇に触れられた。
「その命、尽きるとも、魂は我と共にあれ。よいな?」
「やだな、勝手に殺さないでくださいよ、我が君」
そう言って、碧の瞳の持ち主は、もう一度主君の手に口づけしてみせた。