第百十話:潜入
「よくものこのこと、わしの前に帰ってこられたものだな、サーシャ」
……ぴしり。
持ち主の苛立ちを体現するかのように、鞭が床に叩き付けられた。
かつて、仕置きの道具として何度も目にしたそれである。勿論、これに、元奴隷女の身体が竦まぬはずはなかった。美しい黄色の羽をびくり、と揺らし、逃げ出すような素振りを見せる。
だが、もう逃げ出すことなど、出来はしない。何しろ、後ろには、二度と逃亡を許すまいとばかりに、揃えられた警備兵がいるのだから。
「ええ? この恥知らずの鳥女め! あの酒場でのどさくさ紛れに、どこへ逃げておった? こっちはあの女将軍に酒場でぶん殴られた後、一旦は、市長職を解任されかけたのだぞ? まったく、非道い目にあったわ!!」
いつぞやの酒場での悶着で、女将軍から負った頬の傷。それは、許し難い屈辱の記憶とともに、未だ、ズキズキと市長を蝕んでいた。
確かに、あの場で、将軍職にある女を、売春婦と間違えた事は拙かったと思う。だが、有翼人の男女二人を捕らえようとした事については、まったくあの女に介入される謂われはない事だったではないか。
だのに、自分と部下は、問答無用で失神させられ、その間に、鳥二人は、どこかへ逃亡。加えて、女将軍とその娘であるエリーヤ姫も、このベイルーンから勝手に出立していってしまうという有り様。しかも、あの女将軍ときたら、あろう事か、……『豚野郎に告ぐ。将軍への不敬罪によりて、今日をもって貴様を、クビにする』と書かれた文書を、市庁舎の入り口に、でかでかと貼り付けて行って、だ。
これに、はい、そうですかと、市長が、納得出来るはずはなかった。
「その後、儂が、ここの市長に復権するのに、一体、元老院にいくら払ったと思ってるんだ。しかも、あの文書のせいで、市民達からは完全に笑い物にされるし……。まったく、あの女将軍なんぞ、逮捕されて、ざまあ見ろだ。元老院に売ろうと思っていたあの雄鳥にも逃げられて、こっちはただでさえ、金づるが減ったというのに……」
元老院、そして、帝妹エリーヤが探していた希少種、――白羽に金髪の男。
せめてあれが居れば、大枚はたかなくとも、元老院に取り入れたであろうに。なのに、酒場で気が付けば、あの雄鳥も、女奴隷サーシャと共に、行方不明。まったくに、あの日は大損害を被った、散々な一日だった、と忌々しげに、市長は舌打ちをする。
「よいか、サーシャよ。貴様のせいで、儂は、今まで積み上げてきたこの市長職を無くすところだったのだぞ。ええ? なのに、まあ、貴様、よく儂の元に戻って来られたものだな。一体、何のつもりで、今更……」
……びしり。
苛立ちを示す音が、再度部屋に響く。
これに対し、鞭を向けられた女奴隷の方は、その美しい顔を伏せたまま、身体を竦ませ、また、怯える様子を見せた。
「そ、それは……」
そうもごもごと呟きながらも、有翼の美女は、萎縮しきった様子で、その顔を上げようともしない。だが、ここにきて、彼女は、何かを決意したのだろうか。
「……は、……ょう、ですわ」
大きく深呼吸をして、一言、何か呟くと。
先の縮こまった態度から、一変。
その花のような顔を上げて、涙混じりに、叫ぶ。
「――ひどい方! 私の気持ち、分かっていらっしゃる癖に!!」
「……は?」
ぶつけられた言葉の意味が分からず、一瞬硬直する市長。その隙を狙ったかのように、女が動く。
その柔らかな髪を大きく揺らし、床を一蹴りしてみせると。
……がしり。
まるで、愛しい恋人にでもするように、きつくその首に抱きついて見せた。
「……さ、サーシャ? お、お前……」
「ああ、もう! お会いしたかった!! 私のご主人様!! このサーシャが馬鹿でしたわ!」
ふわり、と鼻を掠める女の甘い香り。それに一瞬感覚が麻痺したのだろうか、市長には、女が何を言っているのか、一瞬理解しかねる。
「な、何を勝手に逃げておいて、貴様……」
「だって! 貴方に構って欲しかったんですもの! 分かってらっしゃる癖に、まだ私をいじめるの?もう、本当に非道い方!!」
「か、構って……?」
矢継ぎ早に語られた、意外な言葉。そして、今まで見せたことが無かった、可愛らしい態度に、市長の手から、鞭がぽろりと滑り落ちる。
「ご主人様ったら、いつもそう! 私というものがありながら、場末の娼宿に行っては、売春婦を取っ替え引っ替え! その間、私はいつもあの酒場で、待ちぼうけで、ちっとも可愛がって下さらない!」
「か、可愛がってって……。散々、着飾ってやっただろうが。大体、いくら美しいからといって、異民族奴隷のお前にこの儂が……」
「……ええ! 分かっています! 私のこの気持ちが、身分不相応なことだって。貴方は、私に絶対に本気になってくださらないだろうって! でも、私、どうしても貴方の気を惹きたくって、つい、あの男に付いていって、貴方を困らせてやろうなんて考えてしまって……」
そこまで言いつのると、女は、周囲にいた兵士達までも、困惑してしまいそうな勢いで、わっと床に泣き伏してみせた。
「でも、非道いんですのよ? あの男と逃亡したは良いけれど、外の世界は暗くて汚くて、不便ばかり! 満足にご飯も食べられやしない!! それに引き替え、ご主人様の素晴らしい事と言ったら! 毎日、私を美しく着飾って下さって、美味しい物も食べさせてくれて。こんな幸せに、どうして今まで気が付かなかったのかしら。馬鹿な私!!」
「おい、サーシャ。ちょ、ちょっと落ち着……」
女の様子に驚き、思わず市長は口を挟もうとする。だが、女の方は余程腹に据えかねる事があったのだろうか。その口を塞ぐ気配はない。
「ああ、貴方に比べて、あの男の最低な事ったら! いいですか? あの男ったら、私と逃げたはいいけど、結局お金に困って、私が持っていた首飾り、すぐに売ってしまったのですよ。貴方から頂いた、思い出の品だったというのに……」
「な、何? そう言えば、お前、やったはずの首飾りをしていないと思ったら……! あれは、なかなかの珍品なのにか?!」
「ええ! しかもですよ? あの男と来たら、女の気持ちなんかちっとも分からない冷血漢で。色々と協力して差し上げた私に、面と向かって、すっごく失礼な事まで言って、女のプライドずったずたに粉砕してくれた挙げ句、他の女を……」
ぎりぎりと歯を食いしばる、その悔しげな態度。
奴隷として買い上げて以来、泣き顔しか見せなかった女が、ここまで怒るからには、逃亡した男に、余程手ひどく裏切られたに違いない。
そう判断した市長は、奴隷女がさらに話を続けるのを許してやる。
「ええ、それでね。私、もうあきれ果てて、さっくり、あの男、捨ててやりましたの。それと同時に、やはり、サーシャの運命の人は、誰だったのか、痛感したのですわ。ですから……、恥を忍んで戻って参りましたの。ええ、勿論、処罰は受ける覚悟です。でも、私、どうしても貴方の事が忘れられなくて……」
いくら翼を持った異民族の女とは言え、この大陸で、観賞用として高値が付く美女である。そのサーシャから、このように言われて、悪い気がする男などいるわけがない。
そして何よりも、だ。一度、顔に泥を塗られたことは許せない事ではあったが、今はそんなことにいつまでも拘っている場合ではないのだ。何しろ、……今、風呂には、あの猛獣がいるのだから。
……そう。今すぐに、あの黒い猛獣が求める、生け贄が必要なのだ。
「分かった、お前を再度受け入れてやろう、サーシャ。だが……、お前が帰ってきた経緯は良いとして、だな。その、お前が連れてきた同胞の女達は一体……」
そう言うと、市長の目が、つ、と、サーシャの後ろへと滑る。
そこには、色取り取りの羽を持った美女達の姿。
皆、この部屋に連れて来られてから、恐ろしいのか、互いに寄り添って、怯えた素振りを見せている。
だが、いくら不安げな顔をしていても、その容姿の美しさを隠しようもない。帝国人にはない色の艶やかな髪色に、透き通った瞳。そして、何よりも印象的なその背の翼。
間違いなく、この大陸で高値がつく、有翼人の女達である。これが驚かずにおられようか。
「これだけの女奴隷、揃えようと思ったら、儂でも一財産無くすぞ。加えて、有翼人同士の共同体を作る事は禁じられているから、法律的にも、これだけの人数を一気に揃えるのは難しい。サーシャ、貴様、一体これだけの女をどこから……」
市長のその問いに、女からは、意外にもあっけらかんとした答えが返ってきた。
「あら、いやだ、ご主人様。ご存じないのね、元老院議長ヴァルバス様の事」
まるで、知らないなんて、お可哀想に、とでも言いたげなその台詞。これに、嫌でも市長の感情が逆撫でされる。
「な、何? 議長様が、何だというのだ。話せ」
「も、申し訳ございません、ご主人様。生意気な口を利いて。ええ、議長様の秘密ですものね。いくらご主人様と言えど、知らなくても仕方がありませんもの」
「いいから、もったいぶるな! 一体、あの方が何だと……」
「――彼女たち、議長様の隠し奴隷だったのですわ」
俄には信じがたい、驚愕の話が、女の口から、さらりと語られる。
「彼女たち、皇宮で密かに議長様が飼われていた奴隷達なのです。勿論、これだけの人数を飼うことは、御法度なので、他の議員方もご存じないことですけれど」
「な、何だと……?」
「はい。彼女たち、ずっと帝都の隠し部屋で、ひどい生活を強いられていたそうなんですけれど、ある日、帝都に皇帝陛下の奴隷として、あの金髪の男がやって来たらしいのです。そして、私と同様に、あの男に、『一緒に故郷に帰ろう』と唆されたとか。そして、皇帝陛下の結婚式のどさくさに紛れて、彼女らも帝都から、密かに集団逃亡したそうです」
集団逃亡とは。
これまた信じられない話だが、皇帝の結婚式がかなり混乱を極める物だったと言うことは、市長の耳にも入っていることだった。確か、花嫁を異民族の王子が攫ったとか、何とか。
確かに、その隙を突けば、翼を持った女達のことだ。空を飛んで逃げられなくもないだろう。
「私も驚きましたとも。私がこの都市からあの男と逃げた時、その逃亡先で、彼女らといきなり引き合わされたんですもの。どうやら、元々落ち合う約束をしていたようですが、それにしてもあの男ったら、いきなり『彼女ら、全員僕の妾だから。君も仲良くやってね』ですよ? それで、やることなすこと、頭のネジ、どっか飛んでるんじゃないかってことばっかりで! もう! 最上級の希少種だかなんだか知りませんが、なんて傲慢な男なんだと呆れましたわ!!」
また、憤懣やるかたないと言った調子で、そう叫ぶと、サーシャはさらに鼻息荒く、先に話を進める。
「それで彼女達もあの男に、ほんっとうに頭に来て、あの男見捨てて来てやったんですわ! 今頃、どこで何をしているのか、知りませんけれど! あー、清々したっ!」
それで、サーシャに誘われて、この市長の元に庇護を求めてきたと、女達は言う。
だが、女達に哀れに懇願されても、言われた事は、やはり俄には信じがたい。
「ええ、分かります、ご主人様。私だって、最初は信じられませんでしたもの。帝国の議長にあられる方が、禁を犯してまで奴隷を飼いますか、と……」
市長の内心を悟ったかのように、サーシャがそう言いながら、前へと進み出てきた。そして、反語を紡ぐと同時に、後ろの女へ何やら合図する。
「でも、これをご覧下さいな」
魅惑の笑みと共に、差し出された物。それに、市長の目が見開かれる。
最上級の絹の衣装に、見事な金細工の装飾品の数々。
そこらの金持ち程度でも手に入れることが出来ないであろう品々に、勿論驚愕したのだが、何よりも目を惹いたのが、その金細工に刻まれた紋章だった。
正方形のみで構成された幾何学紋。それは、議長、ヴァルバス家の紋章に相違なかった。
「な、何故、こんな物をお前が……」
「何故って。決まっておりますでしょう? そりゃあ、議長様が彼女らに与えたからですわ」
確かに、そう考えるより他にない。
こんな高価な代物、奴隷身分にある女が買える訳がないし、何より、議長家の紋章だ。それについて異民族の女が詳しいはずもない。
「むむむ……。議長様が……」
渡された金品を握りしめ、市長は脂肪に埋もれた首をひねって、一人考える。
もし、この女の言う事が本当だったら、だ。
こんな面白い話はない。
いくら議長と言えども、法を犯しての所有なら、この女達を公に探すことも出来なかったに違いない。その奴隷達をこっそりと議長に返してやれば、どうだろう。元老院において絶大な権力を持つ議長相手に恩を売ることも出来るではないか。いいや、上手く行けば、議長の弱みだって握れる事になるのだし、そうなれば……。
にや、という下卑た笑いが、市長の口元に浮かぶ。
「よし、わかった、わかった。よく儂を頼って来てくれたな、お前達。存分に可愛がってやるとも」
金を生む可愛い雌鳥が、まさか、都合良くこんなにも転がり込んで来てくれるとは。
まあ、これから開かれるであろう宴に出せば、何体かは暗黒将軍に喰われるかもしれんが、しかし、その程度の損害で、あの猛獣の機嫌も取れるなら、しめたもの。
最低、議長がいらぬと言ってきても、適当な者は好事家に売って、お気に入りだけ手元に置いて愛でればよいさ。
そう結論した市長は、品定めとばかりに、改めて女達の顔を良く見直してみた。
うん、確かに、いずれ劣らぬ美女揃い。これなら、元老院に渡した賄賂の分くらい、楽に回収出来るな、と思った先で。
一人の女が、市長の目に留まる。
平凡な茶髪に、白地に薄黄が交じった斑羽。
一見して、高値がつかない地味な色の女なのだが、その顔立ちは、どうだろう。まさに華がある、とでも言おうか、とにかく顔の造作が恐ろしく整っている。これが、貴重な髪色や、単色の翼を持っていたら、さぞかし高値が付いたであろうに、惜しいものだ。
「そこのお前。名は何という」
さらに良く顔を見てやろうと、手で顔を上げるように指示してやるが、女は恥ずかしいのか、なかなかその美麗な顔をきちんと見せようとはしない。代わりに、消え入りそうな声音で、自分の名を答える。
「……リーシャと申します」
「ほう、リーシャか。その器量だ。さぞ、議長様には可愛がって貰っていたのだろうな」
「はい……。議長様は、何も知らぬ私に、皇宮で色々な事を教えて下さいました。特に、敬虔なあの方ですから、この国の宗教などについて、よく……。ええ、確か、あの方が仰るには、『我らは、神に選ばれし、唯一の民、リンダール人。神の乗り物、飛竜を賜り、この大陸を制す者』とか……」
女が口にした言葉。それは、宗教狂いとも言える議長が、常々口にしている台詞だった。
……うん、やはり、この女が議長様の元にいたということは、間違いではないらしい。そして、わざわざ宗教について教示してやるというからには、余程、この女を気に入っていたのだろう。
よしよし、この女だけは、猛獣に差し出さず、手元に残しておいて、後で議長に差し出すとするか。
そう算段した市長の前で、女は、感極まったのだろうか。肩を振るわせながら、哀れっぽく啜り泣きを始めていた。
「わ、私……。本当に後悔しているのです。金髪の同胞男に騙されて、議長様の元を離れてしまった事……。き、きっと議長様は、お怒りでしょうね。そして、もし戻ったら、私達を、きっと腹いせで火刑に処するつもりですわ……。ああ、もう、私達、貴方様しか頼る所がなくって……」
「お前達のような金になる……、いやいや、美しい者達を火刑にだなんて、そんなもったいない……、いやいや、許せないな。いいとも、いいとも。儂がお前達全員の面倒見てやるとも。勿論、議長様には秘密にしてな。儂は、美しい有翼の民の女を愛でるのが、何よりも好きなのだから」
無論、こんな約束、嘘である。
だが、女の方は、どうやら、頭が足りないのか、市長の言葉を信じたらしい。ありがとうございます、ありがとうございます、これで火あぶりにされずに済みます。ええ、何でもお申し付け下さいと言って、深々と頭まで垂れている。
……本当に、所詮奴隷は奴隷。こんなに容易く騙されるとは。 背中に翼が生えた鳥女など、やはり、この選民であるリンダール人には、遠く及ばぬ馬鹿ばかりなのだな。
そう思いながらも、市長は、ここでまた女達に逃げられては叶わぬと、寛大な主人の仮面を被ってやる。
「よしよし。きちんと生活は保障してやろう。ただし、サーシャの逃亡の罪を償うためにも、お前達にはきちんと働いてもらうがな」
にたり、とした嘘の笑み。これを受けて、リーシャという女は、またも、馬鹿なのだろうか、まともに厚意を受けることが出来ると信じたようだ。
その美麗な顔の中でも、尚更印象的な――、そう、まるでエメラルドのような碧の瞳を、にっこりと、細めて、市長に答えたのだった。
「ええ。勿論ですわ、ご主人様。存分に働く所存でございますとも」
「あー! キモい! キモ過ぎる!! 見た? あの市長の顔?」
「見た見た! 脂肪まみれのほっぺた、にーんまり歪ませて、あれで完璧な笑顔作ってるつもりかしら。下心バレバレだっての」
今宵の宴の準備をするように、と用意された部屋に入るなり、有翼の民の女達の口からは、堰を切ったように次々と市長への悪口が飛び出していた。中でも、黒髪の女、カーラの口ときたら、留まる気配がない。同胞の女、サーシャへ向けられんとした行動について、怒りを隠しきれぬと言った調子で、唾を飛ばしまくる。
「鞭でサーシャを脅しにかかるとか、本当に許せない男! 本当に、あんな男に飼われていたなんて、さぞかし辛かったでしょうね、サーシャ。絶対、あの男、痛い目に遭わせてやるからね!」
「カーラ……。私の為に怒ってくれてありがとう。でも、貴女達の方が、余程辛い目にあってきたでしょうに、私の事なんて……」
「今ここで不幸比べしたってしかたがないわ! 同胞の女の苦しみは、私達の苦しみよ! 絶対に、貴方の恨み、女の私達が、晴らしてやるわ! 所詮、男には、女の苦しみなんて分からないんだからね。……ええ、そう。絶対に、男なんかにはね」
男には、という単語をそう強調すると、カーラの視線が、部屋の隅へと滑る。
そこには、先に市長に気に入られた茶髪の、リーシャなる女の姿。一見して、儚げな同胞の美女なのだが、視線を向けるカーラの表情は、親愛のそれとはほど遠い、まるで汚物を見るようなもので。
「キモいって言えば……、そう。あんたもだったわね。『リーシャちゃん』」
まさに、剣呑、と言った口調で、そう吐き捨てる。
これに対し、リーシャなる女の方は、少しも感じるところがないらしい。カーラの方を一瞥すらせずに、壁の鏡に向かいながら、何やら、茶色の髪を直そうとしてる。
「何よ、一人前に、お色直しってワケ? いいからさっさと直して、この部屋から出て行ってくださらない? これから、私達が、着替えるんですからね」
無視された事に、些か腹が立ったのだろう。カーラが、またもきつい言葉で、退室するように、催促する。
だが、リーシャという女は、その言葉をまともに聞いている様子はない。どうにも結われた髪の扱いに慣れていないようで、ああでもない、こうでもないと、鏡に向かって苦戦している。そして、一通り、ごそごそと髪をいじくった後、どうやら諦めたらしい。……あー、もう! 面倒くさい!、と言いながら、髪を乱暴に引っ張って見せた。
すると、どうだろう。茶色の髪が、全て、ずるり、と頭から滑り落ちた。そして、その下から現れたのは――。
そう。おそらく最上級の値が付くであろう、見事なプラチナブロンドの髪だった。
「はいはい。言われなくても出ていきますよ。誰も覗きませんって。僕の可愛い『妾さん達』の着替えなんかね」
女である自分の物すら敵わぬ、圧倒的な金色の髪の美しさ。そして、変わらず茶髪のカツラをいじくって、こちらを見ようともしないリーシャなる人物のその言動に、またもカーラの神経が逆撫でされたらしい。もう耐えきれぬといった調子で、吐き捨てる。
「あー! もう、本当に、キモい! キモい! キモーい!! 何が妾よ! そんな格好してる男にそんな風に呼ばれたくないわよ! ほんっと、気持ち悪い!!」
「仕方ないだろ。僕の顔は市長と将軍に割れてるんだ。こうやって女に変装しなきゃ、ここに入れないじゃないか」
「にしたって、気持ち悪いのよ! 大体、カツラとか、付け羽で、髪と翼の色を誤魔化すのってのは、分からなくもないけどね! いっちばん気持ち悪いのが、その化粧よ! そもそもなんで、あんたそんな化粧の仕方とか知ってるわけ?!」
「何でって、そりゃあ、王都で一回女装したことあるし……」
カーラの指摘に、そう馬鹿正直に答えたところで、ようやく、リーシャなる人物は、拙いことを言ってしまったと気付いたらしい。慌てて口を噤むが、時は既に遅かった。
お喋り好きの女達が、その失言を聞き逃してくれるはずもない。既に、部屋はざわめき始めていた。
「……聞いた? 王都で女装ですって」
「信じられない。前々から変な人だと思っていたけど、そういう趣味まであったのね」
「王都では、一部に、倒錯趣味の貴族達がいるって噂、聞いたことがあるわ。きっと、旦那様もそういう貴族達と深い関係に……。きゃー、不潔っ!!」
「ま、待て……。勝手な妄想禁止。そもそも王都で女装したのも、後宮に忍び込むために止むに止まれずだな……」
好き勝手に妄想を吐き散らかす女達に向けて、弁明しようとさらに口にしたその言葉。
だが、それは逆効果にも、火に油を注いでしまったらしい。
「後宮に忍び込む? 後宮って、王妃様や女官だけの女の園よね? まさか、そこに忍び込んで、女達を取っ替え引っ替え……」
「ええ、きっとそうよ。リーシャって名前も、そこの女の名に違いないわ」
「いやーっ! やっぱり、不潔よっ!!」
「待て待て! リーシャは僕の義母の名前で……って……。おい、聞け、人の話を」
だが、どんな弁明も、もう女達には通じなかった。完全に、女装趣味の女たらしだと決めつけられている。
「いいから、出ていって下さい! 着替え覗いたら、ただじゃおきませんからね!! この変態!」
「ああ、ついに変態にされてしまった。本当に、女ってのは、……面倒くさい生き物だ」
カツラだけを押しつけられ、問答無用で部屋から追い出される。
これには、部屋のドアに向けて、流石にリーシャなる人物も、そう呆れの溜息をつくより他になかった。
「少しは人の話を聞けってのに。……まあ、いいや。今の内に、やる事をやっておかなきゃな。僕は長々と化粧直しなんかしてる暇は――」
「それでも、その髪はどうにかなさった方がいいでしょう?」
独り言を呟いて、その場を後にしようとしていたリーシャという人物に、後ろからそう声がかけられる。見ると、部屋の中から、一人の女性が顔を出していた。
「……サーシャ」
「お付き合いしますわ。そのカツラも、直して差し上げますから」
金髪のままだと、警備兵に怪しまれますわよ。それに、私の方がこの市庁舎にはずっと詳しいんですから。
そう言われてしまっては、断る理由もない。だが、このリーシャなる人物にとって、女奴隷サーシャがこのように後を追って声をかけてきてくれたことが、少々意外なことでもあった。
「すまないね、サーシャ。でも、いいのかい。君、草原の国を発ってからずっと、僕と二人きりで話すこと、避けている様子だったから」
「避けている……? ええ、そうですね。でも、もういいんですのよ。はい、カツラ、直りましたわ。どうぞ」
「もういいって……。君、もしかして、怒っていた?」
「今頃気付いたんですの……。でも、何故怒っているかは、分かってらっしゃらないんでしょうね。もう、本当に、嫌な方……」
そんな非難めいた言葉を口にしながらも、サーシャの瞳はどこか穏やかなものだった。心底嫌悪しているというよりは、もう、仕方がない人ね、とでも言いたげなそんな面持ち。
ついこの間までは、あたふたと動揺し、振り回されっぱなしの女だったというのに。この余裕は、一体どこから来たのか。
分かりかねるリーシャだったが、今は、それを追求している場合ではない。やらねばならぬ準備の為、市庁舎の中を案内して貰うことにした。
出入り口という出入り口には、逃亡を防ぐ為なのだろう。警備兵が目を光らせているが、内部の移動に関しては、そう厳しくないようだ。宴の準備ですと言えば、大抵の場は通してくれる。
だが、それでもここは、敵陣のまっただ中。用心してしすぎることもない。市庁舎内を移動しながら、有翼の民二人は、同胞だけにしか分からない故郷の言葉で話し始める。
「それにしても、リュー……、いえ、リーシャちゃん。あの市長相手に、よくもまあ、議長なんて大物の名を使って、信用させましたわね。議長の口癖や家紋なんて、よくご存じで……」
「まあ、ちょっとね。僕は、嫁を貰うまでは、皇帝の世話してたから、しばらく皇宮にいたんだ。議長とも、その時に会って話したことがあるから、それを言っただけさ」
「こ、皇帝の世話?! あ、貴方って方は、どれだけ無茶苦茶なんですか……。はあ……、もう……、驚き疲れました。まあ、いいですわ。それで、あの偽の装飾品をヒルディンに用意させたってわけですのね?」
「ああ。家紋については、知識豊富な長命族の管理人に手伝って貰ったけど」
と、言いながら、リーシャなる人物は、その女物の服の下から、びっしりと文字が書かれた一枚の紙を取りだした。
「流石、長命族ですわね……。この都市の歴史的成り立ちから、市街の人種分布まで、まあ細かいこと」
「うん。これに君とヒルディンから得た、現在の情報を加えれば、完璧さ。後は……」
ちら、と碧の目が、窓の外へと滑る。
交易都市の市街地から立ち上る無数の煙。おそらく、夕餉の準備のためのものなのであろうそれの中に、一筋だけ色が濃いものが交じっている。
「うん。ティータ達も、市街に入れたようだな。よしよし、そして肝心の、だ」
続けて、碧の目が向けられたのは、その足下。趣味の悪い色で描かれた幾何学紋様の床だった。
「こっちだな。……さて、生きてるかねぇ、あの蟒蛇女」
「生きてなきゃ、困りますわ。……と言うか、あの方なら、きっと殺しても首だけ動きそうですし」
サーシャが口にした、珍しく毒の入ったその言葉。これには、思わず、リーシャの方もぷっと吹き出してしまう。
……違いない、と言いながら、場が和んだことによって緊張の糸が緩んだのか、サーシャに対して感謝の言葉を口にしていた。
「いや、本当に君にはありがたいと思っているんだよ、サーシャ。さっきの市長との一件もそうだし、そもそも、君が進んでこの市庁舎に戻ると言わなかったら、多分カーラ達もここに来るのを渋っただろうから」
「いいんですのよ。別に、貴方の為にしたんじゃありませんから。私が、自分の意志でここに来ると決めたんです」
「自分の意志で……?」
そう聞き返すリーシャに対して、サーシャは、暮れゆく日を背に、一言、決然とした言葉を口にしていた。
「ええ。私、もう決めたんです。……もう、あんな事、言わせないって」
「あんな事……?」
「ええ。貴方は分かってらっしゃないでしょうけどね。でも、もう私は決めたんです。夢を見るだけなのは、もうよそうって」
これまたリーシャなる人物には、理解しかねる女の言葉。まったく、女ってのは、どうしていつもお喋りばっかりしている癖に、肝心なことだけ、こうなのか。
辟易する女装男に、さらにサーシャは笑む。
「私、貴方に振り回される女は、辞めます。素敵な王子様の夢を見るのも、辞めます。何故なら、本当に、腹が立ったから」
「……僕に対して?」
「はい。貴方以外に、誰か?」
女が見せた微笑み。それは、どんな強面よりも、圧倒的に男の心を追い込んで。
「姫様を牢に閉じこめた時、貴方に言われた『あの言葉』に、私、心底腹が立ちましたの。だから、決めたんですわ」
「ちょ、ちょっと、待ってくれ。僕、何か、君の気に障る事……」
「言いましたわ。女のプライド、粉砕するような事。だから、私は、あの時、自らに誓いました。……私だって、自分の足で貴方の横に立ってやろうってね」
覚悟の台詞と共に、たちまちに、男を黙りこくらせる。
「私、貴方に利用されるだけの、名も覚えて貰えていなかった女には、もうなりたくない。訳も知らされず、首飾りを売らされるだけの女には、なりたくない。目の前で、他の女を認める発言だってされたくない」
だから、と、再度、女は言う。
「……覚悟、しておいてくださいね。私、自分の足で、貴方の奥様と同じ土俵に上がりますから」
「………………」
こうなれば、もう男に返す言葉など、残されてはいなかった。ただ、呆然として、夕日に映える女の瞳を眺めるより、他にない。
だが、しばらく、思考停止した後、男の脳裏に、ふと、見過ごせない妻の言葉が蘇る。
「サーシャ……。そんなことしたら、多分、君、僕の嫁にぶっ殺され……」
「――ぶっ殺されたくはないですけど! でも!! それくらい腹が立ったんですのよ! 貴方達、馬鹿夫婦には!!」
冷や汗しきりの男の心配を吹き飛ばす程に、女の意志は固いようだった。その証拠に。
「リュート様。さっき、市長に抱きつく前、私、自分を奮い立たせるために、呟いた言葉がありますの。教えてさしあげましょうか」
と、そう突然話を変えるなり、女は男の手から、秘密の紙を引ったくっていた。そして、踵を返して、市庁舎の中をずんずんと進みながら、その言葉を男へと教えてやる。
「『女は度胸!!』ですわ! さあ、やりますわよっ! 有翼の女の本気、見せて差し上げますわっ!」