第百九話:獣心
「おいおいおいおい………」
目の前に広がるあまりの惨状に、流石の暗黒騎士も、そう言葉を漏らすしかなかった。
……ひい、ふう、みい、よお……。
その数を数えて見れば、さらに呆れの溜息が口をついて出る。
「……ったくよう。一体、お前は、何人うちのモン使い物にならなくしたら、気が済むんでぃ」
何故ならば、漆黒の瞳に映った衝撃のその光景。
それは、地下牢に累々と横たわる男達の体躯――。……そう。紛うことなき、自分の部下、暗黒騎士団団員達が、見事にぶちのめされた姿だったからだ。
――あーあ。帝国最強の男達の名に、泥を塗りたくりやがってよぅ。
そう内心で悪態付いて、暗黒騎士団の長は、横たわる一体の騎士の頭に、足を伸ばす。そして、ためらいもせず、拍車の付いたままの靴を、彼の脳天に宛うと。
……がつり。
嫌な音を響かせて、自らの部下を、あっけなく片づけてみせた。
彼がこうも苛立つのも、無理はない。
何しろ、この騎士の山。
見事に、築いてくれたのは。
……たった一人の、女なのだから。
「おい、雌蟷螂よぉ。もう婆なんだから、無理すんなぃ。そんなに毎度毎度、暴れてくれると、お前だけ先に、さくっと殺しちまおうかって、気になるじゃねえかい」
もう、うんざり、といった調子でそう悪態付きながら、暗黒将軍は、ほじった耳垢をその女に向けて、ふっ、と飛ばしてやる。
残った団員四人がかりで、押さえつけてやっと手錠を掛けられた、血まみれのその女。
歳を感じさせぬ引き締まった身体に、乱れた黒髪の下から覗く鋭い眼差し。そして、男を嘲笑う、たっぷりとした肉厚の唇。
他でもない。――帝国第三軍を与る、誉れ高き女将軍、ミーシカ・グラナである。
「何じゃ、ガイナス。ようやくのお出ましか。あんまり遅いので、また貴様の部下、喰っておったわ。に、しても糞不味い男達ばかりじゃのう。妾をここに引き留めておきたいのなら、もっと美味い男を用意しておかぬか」
交易都市ベイルーン市庁舎の地下牢。
この雑多な民族が行き交う都市において、犯罪者を収容するその場所は、まさに地獄の入り口、と言ってよい、劣悪な環境だった。
壁には黴が生え放題。加えて、囚人達の糞尿の臭いだろうか。常に悪臭が充満しており、男でも一日と、まともに精神が保てないような場所である。だが、この女将軍と来たら、どうだ。
捕らえてから、毎日毎日、よい運動だ、とばかりに、看守相手に大立ち回りばかり。一体何人の暗黒騎士が犠牲になったか、分かりやしない。
「っとによぉ。年増の癖して無理すんなや。……まあ、いい。おい、残ってる奴ら。俺ぁ、ちょっと、この女に話があるからよ。さっさとそこでねんねしてる若ぇの片づけな」
「しかし、閣下……! この女、またも逃亡を図るやもしれませんし……」
「黙んな。この俺様が、お前らみたいなヘマするとでも思ってんのかい。さっさとしねぇと、お前の頭も二つに割るぞ、カスが」
「し、失礼致しましたっ……!」
まさに、竜の一睨みとでもいうべき、暗黒将軍の一瞥。
それに即座に、無事な騎士達が動き、戦闘不能の騎士達を抱えて、牢から去っていった。そして、この陰鬱な地下牢には、ただ二人の男女だけが残される。
かつては、同士として、この帝国を支えた二人。
だが、今は。
大逆人と、それを捕らうる者となった、男女二人が。
「何じゃ、ガイナス。人払いをして。まさか、貴様、妾と二人きりで、ヤリたいのか?」
「おい、気持ち悪ぃ冗談言うなぃ。お前みてぇな年増、願い下げだと、何度言ったら分かるんでぃ」
椅子に縛り付けられ、見下されるという、屈辱的な状況。だが、この場にあっても、女将軍の口は一向に減らないらしい。喧嘩上等、とばかりに、挑発的にこちらを見上げてくる。
「ふん……。二人きりで話したいなどとは、貴様らしくもない。大体、貴様にとって、他人の言葉なんぞ、獣の鳴き声にしか聞こえぬくせに。一体、今更、妾と何を語り合おうと言うのか。生憎、妾は獣語は話せんぞ、ガイナスよ」
「……けっ。何言ってやがる。同じ穴の狢の癖しやがってよぉ。あんまり俺様の機嫌、損ねんじゃねえよ。姫さん捕らえる前だってのに、ついうっかり、殺しそうになるじゃねえかい」
本当に、どこまでも気に喰わない女。
出来るなら、今すぐ、この減らない口を裂いてやりたい。
だが、これは、大事な獲物で、餌だ。今すぐ殺してしまっては、面白くない。
そう暗黒将軍は、内心で呟くと、何とか、その自制心を働かせんとした。だが、それを嘲笑うかのように、さらに女の嫌味は続く。
「何が、同じ穴の狢か。笑わせる。喰って、犯して、焼いて、寝るしか出来ぬ獣のお前と一緒にするな」
「……その獣に捕まってんのは、一体、誰でぇ」
「そうだな。今回の件については、妾の失態であったな。よもや、あの調印が終わってから、こんなに早う貴様が大森林に来るなど、思いもせなんだからの。油断しておったわ。しかし、貴様、一体、何故、ああも早うに妾の元に来る事が出来たのじゃ、ガイナスよ」
流石、帝国第三軍を統括する女傑というだけのことはあるか。
暗黒騎士団の移動日数について、通常ではおかしい点があることは、とっくにお見通しのようだ。
これは、もう隠しても隠しきれぬし、元より、隠すことでもない。そう判断した暗黒将軍は、あまりに早い大森林への来訪について、そのからくりを告げてやる。
「――陛下だよ」
「何……?」
「陛下が、俺様に命じたのさ。結婚式の後、姫さんが帝都を発ってすぐに、俺様にお前ら親子を監視しろ、とな。『きっと、あの親子は、謀反を起こして来るに違いないから』ってな」
誰よりも早く、自分たちの企みに気付いていたのが、あの皇帝カイザルだったという事実。
それが、どうやら、この女将軍にとっては、かなりの衝撃だったらしい。珍しく、その顔に動揺の色が浮かんでいる。
「陛下が……。あの、カイザルが……」
「陛下は、お前らのこと、ずっと疑ってたんだとよ。証拠はないから、追求は出来ないが、先帝陛下が亡くなってから、お前がどこを見ていたか、陛下はずっと分かってたみてぇだぜ」
「……先帝……。あの方が、……身罷られたあの時から……。あの、ギゼルが……」
かつて愛人関係にあった先帝の名を、そう呼ぶと、女将軍には、思うところがあったのだろうか。その顔から、動揺の色が一瞬で払拭される。
そして、代わりに浮かんだのは、何とも意味ありげな、妖艶な大人の女の笑みだった。
「そうか。そういうことだけは、察しがよいのだな。あのカイザルは……」
その女の余裕の笑いが、一体何を意味するのか、暗黒将軍には分からない。
いや、分かろうとも思わない。
所詮、暗黒将軍にとって、女なんて、男にとって都合のいい、脂肪のついた袋に過ぎないのだから。そんなものを、一体、どうして、わざわざ理解したいなどと思うのか。
だが、そんな暗黒将軍の侮蔑の念とは裏腹に、女はさらに高らかに笑ってみせる。
「だが、いくらカイザルが、長年疑うておったとて、流石に確たる証拠がなくば、この妾は捕らえられなかったであろう? ガイナスよ、貴様、一体、どこからその証拠を得た?」
……本当に、心底、気にくわない。
たかが女が、この状況で、一体何をそんなに偉そうに、ふんぞり返っていられるのか。
女なんて、泣いて、喚いて、男の縋るしか出来ない弱い生き物の癖に。……一体、何を。
――いっちょ、からかってやるかい。
女に対する侮蔑の念から、そんな加虐心が、ぶくり、と暗黒将軍の内心に湧き上がる。
「証拠? ……ああ、証拠ねえ。けけけ、……決まってんだろ? お前のとこで、今行方不明になってる巨乳ちゃん。あれが教えてくれたんだよ。『全部、お話しいたしますから。頼むから抱いて下さい、ガイナス様』ってな」
もみもみもみ。
見せつけたその卑猥な仕草と言葉が、一体誰のことを指すのか。察しの良い女将軍は、すぐに理解したらしい。
ようやく得心がいったと言わんばかりに頷いて、確認をしてきた。
「そうか。ずっと連絡がないので、よもや、とは思うておったが、やはり、キリカは貴様の元におるのか。……それで? 貴様のことだ。あれに飽きて、既に、焼き殺しでもしたか?」
「いんや。まあ、いずれはお前の横で、火刑台に括り付ける予定だけどよ。生憎、まだ、飽きちゃあいねぇんでね。おまけの狐と一緒に、多分、この都市のどっかのベッドで、今もいい子にして待ってんじゃねえの。『ガイナス様ー、早くぅ』ってな調子で……」
「――黙れ」
女の反応を楽しむ様な男の台詞を、一刀両断。鋭い女の声が、牢内に通る。
「もう痴呆でも始まったか、ガイナスよ。あれは、妾が死ね、と言うたら、笑って死ねる女だぞ。そんな女が、妾を売るわけがないし――、大体、貴様如きが、あれを落とせる訳がなかろうが。寝言は寝てから言え」
この、一分の揺るぎすら見せない、言い切りぶり。
所詮、女同士なんて、一皮剥けば、疑心暗鬼の塊。互いに互いの足を引っ張り合って、沈んでいく生き物。
そう踏んでいた暗黒将軍の目論見は、まんまと外れたらしい。
……何でぇ。ちょっとは乗ってくれるかと思ったのに。
つまんねえの。
そう呟くと、観念して、真実を告げてやる。
「へえへえ。信頼御厚くて結構なこってぇ。……ま、いいや、教えてやるよ。俺様ぁ、姫さん追って、帝都を出たはいいがよ、結局、証拠がなきゃやることねえんで、ずっと国境付近で遊んでたんだわ。そしたら、びっくり。突然、差出人不明であの調印書が届いてよ。これ幸いと、お前を逮捕しに行ったってわけでぇ」
「……差出人不明だと? 貴様が国境に居ると言うことは、極秘だったのだろう? そんな貴様に文を届けるなど、余程の情報網がないとできまい。……ちっ、一体、誰が……」
「まあ、俺様にとっちゃ、誰でもいいけどよ。に、しても、お前ら信用されてねぇなぁ。こんだけあっさり裏切られちまってよ。どんだけ長年かけて根回ししたのか、知んねえけどよ。その努力も、徒労に終わったってこったな」
……ったく、馬鹿馬鹿しい。
女の企みを、暗黒将軍は、そう短く唾棄してみせる。
所詮、異民族は異民族。
かつて、自分たちリンダール人を奴隷としていた奴等だ。
そして、今は、武力によって、その奴隷民の属国にさせられた奴等。
そんな奴等を、どうして、信用しようなどと思えるのか。
そして、どうして、彼らから、自分たちが信用されうるなどと思えるのか。
暗黒将軍には、まったくに理解出来ない。
「なあ、雌蟷螂よぉ。お前、一体、どうしてこんな馬鹿な事考えた。昔のお前なら、こんな事、絶対に考えもしなかっただろうが。かつて、この俺様と、異民族の首の数を競い合ったお前なら、な」
それは、何よりも聞きたかった事柄――。
この暗黒将軍が、劣悪な牢にわざわざ足を運んでやって、人払いをしてまでも、この女に直接聞いてみたい疑問だった。
「昔のお前は、そりゃあいい女だったぜぇ。俺様の残忍さと、サイニーの冷静さを併せ持つとまで言われた戦の申し子だったじゃねぇかい」
漆黒の髪を、真っ青な空に靡かせ、血で染められたとまで言われるような深紅の鎧を纏って、戦場を翔る女騎士。
……どうせ死ぬなら、あの女の手に掛かって死にたい。
敵にそうまで言わせるほどに、この血染めの女は美しかった。
それなのに。
この腑抜け具合は、どうだ。
「お前も姫さんも散々好き勝手やって、異民族から恨み買ってんだろうが。それを今更、お手々繋いで仲良くしましょ、なんて、笑わせるな。血塗られた雌蟷螂の癖して、今更、綺麗に着飾ろうとか、反吐が出るんだよ」
帝国の未来を憂えて、とでも言う気か。
それとも、他民族を犠牲にしての繁栄など、やはり人道に悖る行為だとでも言う気か。
「馬鹿馬鹿しい! そうやって、他人に情をかけた所で、何になるってんだ! 現に、くそ真面目に自分の行為を悔いたサイニーは、死んじまったじゃねぇか。しかも、青臭ぇ鳥の小僧になんぞ敗れてなぁ。結局、逃げ腰になって、融和政策なんぞ取った日にゃあ、国も人間も遅かれ早かれ死ぬんだよ! 生きていたけりゃ、てめえの人生の最期の最期まで、他人の肉を喰らうしかねえのさ。……獣も、人間もな」
……どうして、そんな当たり前の事を、この女は忘れてしまったのか。
一体、何が、この女をこんな風にしたのか。
一体、誰が、あの美しい獣の牙を抜いたのか。
誰よりも女将軍を認め、そして誰よりも気にくわないと思ってきた暗黒将軍だからこそ、ずっとずっと知りたかった、その疑問。
それに対して、女からは、一言。短い笑い混じりの言葉だけが、返ってきた。
「――お前には、分からんよ、ガイナス」
「何ぃ……」
そして、さらに、自信満々な返答。
「お前のような男には、一生、妾の思いなぞ、分からんと言うておるのだ。お前のような――、女の腹に一発ぶちこんだくらいで、満足しているような下らぬ獣には、な」
おそらく。
自分は、今、最大級の侮辱をされたのだろう。
女という性から、完全に見下された。
この、弱くて、男の道具になるしかない、女とかいう下劣な生き物から。
その事実が、暗黒将軍のたがを、外していた。
女が構える間もないほどの、一瞬の間で、風切り音を響かせると。
「――――っっ!!」
……めしり。
骨が軋む音と共に、拍車付きの鉄靴を、激しく、女の下腹にめり込ませていた。
「ああ?! 何だと、この雌豚が! 腐った袋の分際で、偉そうに気取ってんじゃねえぞ、コラ」
帝国最強を誇る暗黒将軍からの、一撃。
これには、流石の女将軍も堪らなかったらしい。縛り付けられた椅子ごと、床に転がると、げほげほと吐瀉物を撒き散らかす。
「……がっ、……がふっ……。……く、腐った袋とは、……随分、言うてくれるではないか、ガイナス。……こ、これでも、まだまだ、ぴちぴちの四十代であるというに……」
「けっ! 酒まみれの内臓抱えて、よく言えらぁ。ああ、酒っていやあ、確か……」
何気なく自分が口にしたその単語に、暗黒将軍は思うところがあったらしい。その口の端に下卑た笑みを浮かべて、横たわる女の顔を覗き込んでやる。
「そういやぁ、元々大酒呑みだったお前の飲酒量が、ますます手が付けられなくなったのは、確かあの時からだったな。そう――、あの先帝陛下の葬儀……」
「黙れ」
その明確な拒絶の一言が、暗黒将軍に一つの事実を語っていた。
つまり。この女の真意がどこにあったとしても、だ。
あの先帝の死、こそが、この女の変容の重要な原因の一つであるに違いない、という事実を。
……にやり。
饐えた臭いを漂わせて、暗黒将軍の口の端に、下卑た笑みが浮かぶ。
「なるほどねぇ。そういやぁ、先帝陛下は、お前さんが、唯一子を成した男だったな。若ぇ頃は、『腹に子供なんぞ宿したら、竜にも乗れぬ。ああ、煩わしい』、と言ってたお前が、だ。それって、つまりよぉ……」
「……黙れ」
二度目の同じ台詞。
もう、これは、いくら否定したところで、否定しようもないだろう。
そう確信を強めた暗黒将軍の口からは、もう、下品な引き嗤いしか出てこなかった。
「ひ……、ひひひひひっ! やっぱり、おめえも、一人の女だったてことかい。……男をも震え上がらせる女将軍様が、何とも、情けないことで。……こりゃ、傑作だぜ」
どれだけ強かろうと、所詮、女は女。
結局、根っこの部分は全て同じなのだ。
そんな女に、昔の誼とは言え、まともに真意を尋ねた自分が、馬鹿だった。親切に、生き残る掟を思い出させてやろうとしたのが、愚かだった。
所詮、女とは、脂肪のついた袋にしか過ぎない。理解する価値すらもないと、そう、分かっていたはずだったのに。
……ああ、っとに。
つまんねぇ。
――完全に、萎えたわ。
そう、内心で考えを締めくくると同時に、暗黒将軍は、躊躇いもせず、鉄靴による第二撃を、女の腹にぶち込んでいた。
「ぐっ……!!」
先の一撃と寸分違わぬ場所への第二撃。これが辛くないはずがない。
だが、女は、その一言を漏らす以外、悲鳴を上げることも、みっともなく命乞いをすることもない。本当に、どこまで行っても、張り合いのない女だ。
「なあ、グラナよぉ。お前のその顔、どこまで保つかなぁ。もうじき回収される姫さんやキリカが、お前の目の前で火あぶりにされても、そういう顔をしていられんのか、……興味あんなぁ」
おそらく、帝都に連れ帰れば、否応なしに、あの悪趣味な元老院議員達による裁判と拷問が、待っているだろう。そして、やがて行き着く先は、衆目に晒される場所での公開火刑。
この女将軍がどれだけ庇ったとしても、相手は、あの狂信的な元老院だ。おそらく、エリーヤ姫も、キリカも、この将軍同様、訴追を免れることなど、出来まい。
あの姫の燃えるような赤毛に、火を点されて。
腹心の美しい顔を、どろどろに、爛れさせられて。
果たして、この女は、どういう顔を見せるのか。
「安心しな、グラナ……、いいや、雌蟷螂。お前は、俺様直々に焼いてやるから、な。……なぁに。強火力で、すぐに窒息させるなんて、野暮なことはしねぇよ。死なない程度の弱火で、じっくり火を通してやるから。楽しみにしてな」
きっと、その時のこの女の顔は。
久々に血が沸き立つ、いい見せ物になるだろうな。
そう嗤う暗黒騎士の耳には、もうこれ以上、女が何を言ったところで、何も届きはしなかった。
訳の分からない肉の塊が、さらに訳の分からない言語を喋っている。
もう、そんな風にしか、認識出来ない。
――ああ、何でぇ。獣語を喋っているのは、そっちじゃねぇかい。
ぐだぐだぐだぐだと、うるせぇなぁ。
「あばよ、雌蟷螂。次に遭う時ゃ、――火刑台だ」
「ああ、つまらねぇ時間だった。こんな無駄な時間過ごすくれえなら、酒でも飲んでれば良かったぜ、ったく」
地下牢より、ベイルーン市庁舎の一室に戻るや、否や、暗黒将軍の不満は爆発していた。
腹は減ったし、喉は渇いた。加えて、地下牢の年増女の臭いが、自身に染みついた様な気がして、もう、不快で不快でならない。何とか、この臭いを払拭しなければ――。
そう思った暗黒将軍は、市庁舎中に響き渡る、獣を思わせる大声で、一人の人物を呼びつけて見せた。
「おい! 市長! 市長はいるか?!」
「……お、お、お呼びでございますかっ! が、ガイナス閣下!!」
将軍の咆哮に、すぐに呼び寄せられたかのように、顔を出した人物。それは、この部屋の真の主にして、交易都市ベイルーンの市長だった。
流石、この交易都市を牛耳って富を蓄えているだけのことはあってか、二段だか、三段だか分からないほどに突き出した腹が、実に見事だ。さぞかし、市民達からの搾取が、横暴なものであっただろうと察せられるのだが――、搾取というのは、勝者が持つ当然の権利だ、と考える暗黒将軍は、それを毛ほども咎める様子はない。咎めるとしたら、その体型から来る行動の鈍さ、その一点に尽きる。
「遅ぇぞ。俺様が来いって言う前に、来てろ、このデブが」
「す、すすすす、すみません、閣下。あ、あの、ご、ご命令に従って、暗黒騎士団の皆様を歓待する準備を致しておりましたもので……あわわわわ。そ、それで、な、何のご用でしょう、閣下」
数日前、暗黒騎士団がこの都市に駐留を決めてから、この市長及び、市長の居城を兼ねているこの市庁舎は、実質、暗黒将軍の管理下に置かれることとなっていた。
充実した設備、そして厳重な警備と、文句のない駐留場所なのだが、唯一、ここの真の主である市長だけは、おつむが足りないらしい。男が、憂さ晴らしに求めるものと言ったら、決まっているではないか。
「……風呂! 飯! 酒! 女! 寝床! それ以外、何があるってんでぃ」
「は……! こ、これは、失礼致しました。す、すぐにご用意させますが――。ええと……、閣下は、どのような女がお好みでしょう」
だから、女なんて、どれでも一緒だというのに。
新しいか、古いか。違いは、それくらいしかない。そんな事が、どうして分からないのか、と暗黒将軍は、苛立ち紛れに、舌を鳴らす。
「とりあえず、若ぇのだな。年増女と話したせいで、ババ臭くなっちまったからなぁ。まあ、……あとは、そうだな。きゃあきゃあ、黄色い声で鳴く女がいいな。鳴きもしねぇ女は、キリカと雌蟷螂で飽きた」
「は、はあ……。左様でございますか。それなら、私のコレクションの中に、よい女がおったのですが――。いや、しかし、あの女は……」
その暗黒将軍の注文に、肥満市長の方は思い当たる女があったらしい。だが、何か問題があるようだ。それをすぐに連れてくるとは、言わない。
「何でぇ。歯切れがわりぃな。そんなに出し惜しみしてぇ女かよ」
「い、いえ。そうではないのです。ええと……、私の愛玩奴隷で、有翼の民の女でサーシャというのがおりましてね。それはそれは、麗しい羽と声を持った、とびきりの美女だったのですが、生憎と今、不在でして……」
「不在? 奴隷の分際で、自由に外出歩いてんのかい。まさか、お前、奴隷風情に逃げられたってんじゃねえだろうな」
よもや、大リンダール帝国の一都市を与る市長が、そんなヘマ、するわきゃあ、ねえよな。
そう言いたげな暗黒将軍の視線に、肥満市長は、畏れをなしたらしい。その腹をでぷでぷと振るわせて、必死で否定を試みる。
「い、いやいやいや。ま、まさか、そんな事、あるわけございませんでしょう? ええーと、か、可愛い奴隷ですのでね。ちょ、ちょっと慈悲のつもりで、外で買い物をさせてやっておるんですよ。ええ、ええ、すぐに、連れ戻しますので。はい、すぐに……」
正直、他民族、それも有翼の民の女になど、興味のない暗黒将軍だったが、この市長がそうまで言う美女、サーシャというのが、どれほどのものか、見てやろうと言う気になる。
万一、気に入らない女であったとしても、別に構わない。
髪をひっ掴んで、羽を毟って、泣き叫ばせて。
飽きたら、後は、焼き鳥にでもすればいい。
所詮、それが、女の価値というものなのだから。
「まあ、いいや。俺様ぁ、風呂入るからよぉ。その間に用意してくれりゃあ……」
と、面倒くさげに、暗黒将軍が鼻をほじった時だった。
市長の部下と思われる男が、一人入室してきた。そして、将軍に一礼した後、市長にだけ、何やらこそこそと報告をしてみせる。
すると、何か、よい知らせだったのだろうか。今まで、萎縮しきりだった市長の顔が、一瞬で明るくなる。
「……そ、それはまことか? あ、あの女が……」
「はい……。しかも……」
「何だと? ……まで、……きただと……。一体、どこから……。……何、……からの……か。まあ、よくも……。いや、しかし、お仕置きは後だ……、今は……」
市長と部下の間で、一体どのような会話が交わされているのか。暗黒将軍が、今居る位置からでは、詳しく聞こえない。だが、先の女将軍との会話でうんざりしきりの暗黒将軍にとって、市長の都合など、この際、どうでもいい。
「どうしたぃ。なんか、面倒くせえことでもあんのかい。ぐだぐだ言ってねぇで、女を出すか出さねえか、どっちなんでぇ」
「い、いえいえいえ。あ、あの、先ほど言っておりました女奴隷の件なのですがね。い、今、買い物から戻ったそうで、すぐに閣下に献上出来ますとも。こ、これ……、早う支度を。ああ、そうだ、閣下。どうせなら他の騎士様も、一緒にいかがでしょう。サーシャ以外にも、女奴隷を用意出来そうでございまして……」
「何でぇ。何人も高額な有翼人奴隷抱えてるなんざ、てめえ、相当ピンハネして儲けてんだな」
「い、いえいえいえ! そ、そんなに無理な上納金は……って! いいえ、違います。わ、私は職務に忠実で……、私腹を肥やしているなんて、滅相も……」
どうやら、自分の不正を将軍から追求されると思ったらしい。市長は、その罪を何とか取り繕おうと、必死の様子だ。
だが、そんな市長の腐れっぷり。暗黒将軍にとっては、好ましく思わないどころか。実に、欲望に素直な様子が、むしろ……大好物だった。
「……いいぞ、もっとやれ。嬲れ、奪え、屈服させろ。異民族の金なんぞ、全部巻き上げて、帝国に逆らう資金を蓄えようなんて気、絶対に起こさせんじゃねえぞ」
「は、……はい?」
そう。
異民族も、女も、全員踏みつぶしてやりゃあいい。
ぶん殴って、蹴り倒して、言うこと聞かせるもんだ。
言葉? 交渉? 協定?
愛情? 友愛? 共存?
なんだ、そりゃあ。
世界はもっと、単純なモンだろうが。
喰うために戦って、強い奴だけが生き残れる。
それの何がおかしいってんでぇ。……馬鹿共が。
「まあ、いいや、市長。お前の自慢の小鳥、期待してるぜぇ。精々、綺麗な声で鳴いて、この俺様を楽しませてくれよな」