第百八話:強欲
――不協和音。
この宿営地を評するには、この一言で十分に足るな。
そう呟いて、闇商人はその耳を無言で塞いだ。
だが、そうしたところで、この騒音は、完全には排除出来ない。指の間を通り抜けて、嫌でも甲高い女の声が入ってくる。
本来なら、女の声と言うのは、小鳥が囀るような、だとか、鈴を転がすような、であるとか、そういった雅な形容が付けられるべきものであろうに。
だが、ここにある女の声と来たら、どうだ。まあ、喧しいこと極まりない。
「やっぱり、有翼の民のことなんか信用出来ないわ。いくら、姫様が選んだ夫であってもね」
「ええ、そうよ。それに、自分の妾達まで、ちゃっかり連れてきて。一体何のつもりなのかしらねぇ。ああ、嫌だ嫌だ。大体、聖地であの男がしたこと、私は忘れていないわよ。絶対にね」
「聖地って……! 一体、何の事?」
「あら、そう言えば、ティータは、北の大陸に付いてきていなかったから、知らないのね。いい? あの男ったらね。あろう事か、私達を脅すために聖遺物を……」
「……きゃーっ! ぶ、ぶん投げたって……! う、嘘でしょう? し、信じられないわ! や、やっぱり、あの男! 将軍を助けるなんて、嘯いて、私達を騙そうっていうのよ。私、絶対に、あの男の言うことなんか聞かないわ! ホント、最低よ!!」
それなりに歳を取った女騎士数人に、まだ十代と思しき少女騎士一名。
本当に、女が集まれば、お喋りを始めなければならないという不文律でもあるのだろうか。事もあろうに騎士という職にある女が、そこらの噂好きの主婦のようにぺちゃくちゃと喋りたてているなどとは。第一、そんな暇があるくらいなら、金の勘定でもしていた方が、余程有益であるのに、と、闇商人は思う。
……金はいい。
じゃらじゃらという心地よい和音は出せども、こんな、小うるさい不協和音は出しはしないし、勝手に派閥を作ることもない。
自分さえ裏切らなければ、きちんと懐にいて、安心感を与えてくれるのだから。
それに引き替え、女達ときたらどうだ。
竜に乗る者も、背に翼をもつ者も、その他の民族も、女という生き物は、どいつもこいつも、須く面倒くさくて敵わない。
その証拠に、宿営地の中を、さらに奥に進めば、同じ様な声が聞こえてくる。
「ねえ、本当に貴女達、信用しているの? あの『旦那様』の事。どうなの、マダム・シェリー?」
「ええ……? そうね、カーラ。やはり同じ民族の男性だから、信じたいという気持ちはあるけれどねぇ……。でも心底信用しているか、と言われれば……、それは……」
「信用しちゃ駄目よ! 男なんて一皮剥けば、皆けだものなんですからね! そうよ……、あの男だって、前の男達みたいに、豹変して、私達を手込めにしないとも限らないんだから! ちょっと子供達に優しかった位で、心を許しちゃいけないわ!」
「カーラ! 落ち着きなさいな。彼には彼の……」
「マダムは黙っていて! いくら、今、私達が妾の身分にあるからって、私は、絶対に、あの男の言うことなんか聞きませんからね!」
この通り。
優美な姿で高値が付くと言われる有翼人の女達ですら、小鳥の様には鳴いてくれないらしい。こうしてああでもない、こうでもない、と文句ばかりを、その口から喚き散らかして、本当に、面倒くさいの一言だ。
――まったく、本当に。
どの種族であっても、女という生き物に、幻想を抱くべきではないな。
元々、女性関係にそれほど興味のない闇商人に、さらに、そう確信さしめたのは、訪ねようとしていた天幕の中から、漏れ出てきた女の声だった。
「……貴殿は、非道である。有翼人の若人よ……。ここまでの貴殿の成し様、まったくに信用出来ぬ……。貴殿は、この管理人トトを騙して連れてきたのか……」
その責めるような内容とは裏腹に、消え入りそうで、なおかつ、まったく抑揚のない調子の声。
それは、天幕の中に居た、異様な形の長耳と白髪を持った種族――、稀少なる賢者の民として名高い長命族の女のものだった。
――なんと。
こんなに間近で、幻の民族を見られるとは。
そう内心で、感嘆の台詞を漏らし、闇商人は彼女に気付かれぬように、そっとその天幕内へと足を踏み入れる。
噂に寄れば、長命族とは、理知的で寡黙な民だと聞いている。その数少ない生き残りが目の前に居るだけでも、闇商人にとっては、かなりの衝撃であった。
だが、その驚きにもまして、この目の前にいる白髪女と来たら、どうだ。
人形の様な硬質な顔と、抑揚のない口調はそのままに、天幕の奥にいるもう一人の人物に向けて、他の女と変わらぬ不満を、愚痴愚痴とぶちまけている。
「……貴殿は、言った……。我ら兄妹が、貴殿に力を貸せば、極秘図書館の管理人の要請に応じて、貴殿らの大陸の情報を、話しても良いと……。それ故に、この管理人トトは、兄であるロロに許しを乞うて、こうして貴殿の参謀役として同行した……。それであるのに、貴殿はどうか……。この管理人トトから、次々と、帝国の情報を引き出せど、一向に貴殿の口からは、北の大陸の事は語られぬ……。これは……詐欺というのではないのか……。本当に男という生き物は……」
……ああ、聡明なる賢人であるはずの民、長命族の女ですら、この小うるささとは。
彼女がこうなら、一体、これ以上他の種族の女に対して、どう幻想が抱けようか。いや、抱けようはずもない。
そう闇商人が反語を紡ぐ内に、天幕の奥からは、女の恨み言とは正反対の、毅然とした男の声が返ってきていた。
「は? 長命族のお前が、祖国を滅ぼした憎き帝国の情報を話すことと、僕が大切な祖国の情報を話すことが同価値だとでも思ってるのか? 僕から北の大陸の情報が欲しいんなら、お前の情報がそれなりの成果を上げなきゃな。いいから、さっさと頼んでおいた書類まとめて来いよ、引きこもりの本の虫ババア」
この清々しいまでの暴言には、流石の長命族の女もいたく動揺したらしい。今まで乱すことの無かった顔を、一瞬引きつらせて、後ずさりをして見せた。
「……ひ、引きこもり……。……ほ、本の虫ババア……。この管理人トトの長き生に置いて……、このような侮辱……、未だかつてない……。……まこと、有翼の民の男というは……、傲慢極まりなし……。よし……、我らがこれより紡ぐ本には、しかと記載しよう……。『有翼の民の男なるもの、悪逆非道かつ、傍若無人を体現せり……』、と……。……良いのか? 貴殿という命は消えても、我らの本は、崇高なる財産として、未来永劫残るのであるからして……、貴殿の成し様、それ即ち、永遠に残る有翼人の恥であって……」
「好きにしろ。そうやっていつまでも、自分らに都合のいい素敵な『お話』書いて、鬱憤晴らしてりゃいいさ。大体、自分の目で世間も見もせずに、本を書いただけで、歴史を作った気になるとか。何が賢者だ、笑わせる」
長々と恨み節を紡ぐ長命族の女に対して、奥にいる男の方からは、切って捨てるかのような台詞。
これには、あまりの小気味よさに、思わず闇商人も、天幕の入り口で一人、ぷっと笑いを漏らしてしまう。
だが、この闇商人の笑いも、動揺する長命族の女には届いていないようだった。その長い耳をぷるぷると振るわせて、さらに男を詰ってみせる。
「ひ、非道なり、有翼の民の若人……。さらなるこの暴言……、草原の国に残りし、兄様ロロにも、しかと伝えよう……」
「だから好きにしろって。けど、そうやってお兄様に告げ口する前に、書類の提出な。頼んでおいた分、今晩までに、書き上げられなかったら、僕はお前に一切何も話さん。いいな?」
「……貴殿は、悪魔か……。……そう……、我らの崇高な使命に、全く敬意を払わぬ、異民族の悪魔……。……最低である……。しかし、……よかろう。この管理人トトの名にかけて、……必ずや、貴殿の口から情報を引き出せる、それだけの価値のある書類を、作り上げて見せる……。今夜を楽しみにしていると良い……」
賢者らしからぬ狼狽ぶりと、捨て台詞。そして、無機質な顔に、ほんのりと女らしさを漂わせた悔し涙。
よもや、あの長命族の、こんな珍しい姿が見られるとは。
思わず、そう感心して、天幕の入り口に立ちつくしていた闇商人の前を、さらりと、長命族特有の白髪が通り抜けた。
と、同時に、賢者が発した最後の捨て台詞が、天幕の外で喋っていた有翼人の女達の耳にも届いたらしい。中でも、反主人の急先鋒であるカーラとか言う女が、その言葉尻を捕まえて、またも好き勝手に、その口を開きだしていた。
「聞いた? あの女賢者様、あろう事かあの男の天幕から出てきて、『今夜を楽しみに』、ですって? あの男、きっと、姫様が不在の内に、あの長命族の女と浮気するつもりなのよ! ほらね、やっぱり、私の言ったとおり。男なんて、皆けだものよ! そうでしょ、マダム!!」
「う、ううん……。そうかねぇ。私には、そんなに悪い人には見えなかったんだけど、やっぱり、カーラの言う通りなのかも、ねえ……」
「やっと分かってくれて嬉しいわ、マダム。皆もそうでしょ? あ、そうだ。ええと、新入りのサーシャだったかしら? 貴女も、もうあんな男に近づいちゃ駄目だからね? あんな最低男! さ、あっち行きましょ!」
「……え、ええ、そうね、カーラ……。最低……。そうね、最低よ……ね」
……おいおい、勝手に浮気していると決めつけた上に、同じ民族の男に対しても、この態度とは。
ああ、本当に、女達というのは、面倒くさい。
去りゆく女達の背に、そう呟いて、闇商人は、もう喧しい話し声は結構、とばかりに、きつく天幕の入り口を閉めた。
「やあ、ヒルディン。良く来てくれたな」
外の話し声を一切遮断すると、それを待っていたかのように、天幕の中から、明るい男の声が届く。
先までの甲高い小うるささに比べて、この声と来たら。歓迎の台詞とは裏腹に、まるで、来て当然、とでも言いたげな声音なのだから、堪らない。呆れて、嫌味の一つも言いたくなってしまう。
「本当に貴殿は人使いが荒いな、有翼人の男よ。ここまで来るには、本当に我が輩、苦労したぞ。しかし、まあ、何とも凄い面子だな」
この宿営地で見た人間、全て女、女、これまた女。その中で唯一の男が、今、この目の前に居るこの男だ。
金髪に碧の目。抜けるような純白の翼に、そして、女も羨むその美貌。本当に黙っていれば、彫像の様な王子様である。
だが、この男の容姿端麗ぶりに、女達が熱狂しているかと言えば、そうではないらしい。ここに来るまで、耳に付いた女達の会話が、嫌でもこの男への評価を語っていた。
「……何というか、随分凄い言われようなのだな、貴殿は」
「まあな。……『最低』。女騎士、それから妾に女賢者に至るまで、すべて一貫した僕への評価だ。素晴らしいだろ? ああ、そういえば、本妻からも言われたな、『最低』って」
「……まったく、その顔を持ってして、あり得ないほどの評価だな。一体、何をしでかしたら、あの評価になるのか……、呆れて、物が言えんが……」
「うるさい女のお喋りなんか、放っておけ。そもそも、女という生き物は、喋らなくては死んでしまうらしいからな。ま、今のところ、僕の陣営で静かな女は、この女くらいだ」
と、言って、男が指し示した方向にあった光景に、闇商人は絶句する。
……気付かなかった……。
この天幕に、この男以外の人間がいたとは。
しかも、異民族との混血と見られる、その大きな体躯で。
この闇商人から、まったくに気配を消していたとは。
「これは、姫様の護衛の、ジェックという女騎士だ。僕が、何か変な事をすれば、即刻、首を刎ねてくれるそうだ。ま、これの事は、置物だと思って、気にするな。これは言葉が話せないし、書けないからな。ここで話す事は、外には漏れないから、好きに話したらいい」
そう男に評されると、ようやく、奥にいた混血児と思われる女が、その視線を動かした。
闇商人を脚の先から、頭の天辺まで、舐めるように観察した後、どうやら危険な男ではないと判断したらしい。自分の事は気にせず、先に話を進めて良いとでも言いたげに、くい、とその顎を動かして見せた。
と、同時に。
気付かれない程の一瞬だけだが。
その頑健な女騎士が、金髪の男に、ちら、とその目を滑らせて。
そっと、その頬を赤く染めさせたのを、見逃す闇商人ではなかった。
……まあ、この男ときたら。
サーシャのみならず、この滅んだ部族の混血女までもか。
本当に、どうしようもないな、と、内心で嘆息した後、闇商人は、話題を変えようと、先に見た幻の部族について、その感想を語り出す。
「しかし、驚いたぞ。紅玉騎士団の面子のみならず、あの長命族まで引っ張り出してきたのか。よく、草原の国から、双子の賢者の片割れが、出てきたな」
普通にこの大陸で生活していれば、まず、お目に掛かる事は出来ないであろう賢者を、帯同させる事だけでも驚きなのに。
のみならず、この男、あの女賢者を、どうやら参謀として扱き使うつもりらしい。その証拠に、男の周りには、賢者が綴ったと思しき多数の書類が散乱して居る。
まったくに、この男の言動は、大陸の常識からすると、破天荒というか何というか。もう既に扱き使われて慣れてきたとは言え、改めて、闇商人の口からは、深い溜息が漏れる。
だが、そんな商人の内心など、毛ほどもこの男、感じていないらしい。何が悪いのか、という態度で、にっこりとその美麗な顔を微笑ませて、答えてみせた。
「……聞きたいか? 僕が、あの女達を、どうやって草原の国から連れ出したか?」
この、女をとろけさせるような極上の笑みには、全くに似つかわしくない、台詞。
そのあまりの不吉さに、……これは聞かない方が身のためであると判断した闇商人は、きつくその首を横に振って、話を別に逸らせんとする。
「ま、それはさておき。こんな烏合の衆の女共ばかりで、本当に大丈夫なのか? 口を揃えて貴殿を『最低』と罵るあの女共が、おとなしく貴殿の言うことを聞くとも思えぬが」
「聞かないなら聞かないなりに、方法はあるさ。それよりも、頼んでおいた情報はどうなった?」
人の心配を余所に、偉そうに脚を組むこの男の態度と来たら。
思わず、ぶん殴ってやりたい衝動に駆られるが、そこは、貴重な大金を落としてくれるお得意様だ。何より、殴ったりしたら、倍返し必死なので、闇商人は、その胸に、ぐっと衝動を堪えて、言われた情報を男へと差し出す。
「とりあえず、現在の状況だ。まず、女将軍を捕らえた暗黒騎士ガイナスは、大森林を離れて、交易都市ベイルーンに駐留中。流石に、相手があのグラナ将軍だけあって、ガイナスも、彼女を逮捕するのに大分手こずったらしい。女将軍の身柄を帝都に移送するのに、万全を取って、ガイナスが直々に警護に当たっている」
「ベイルーン……。僕がお前と初めて会った都市か。まあ、想定の範囲内――、というか、どちらかというと、僕の知っている都市に駐留してくれるとは、嬉しい誤算だな。地形的な面から考えると、大体、その辺りに駐留するのではないか、とは思っていたけれど。……それで、女将軍麾下にあった帝国第三軍と、ガイナス配下の暗黒騎士団と帝国第一軍の動向は?」
「第三軍の方は、まだ、その処分をどうするか、元老院から沙汰がないらしく、暗黒騎士団の副団長統治下に置かれ、未だ大森林に止め置かれている。元々、大森林は、きな臭い土地だからな。帝国の手勢を、いきなり空にすることは、出来ぬようだ。その内、帝都にいる第一軍の一部が、第三軍の代わりに、大森林の見張りとして派遣されるだろうが……」
闇商人からのその報告に、それを受けた男の方はと言うと、いたく満足したらしい。形のよい顎に手をやって、一人頷くと、さらに状況を確認したいと、先の言葉を続けてきた。
「と、言う事は、ベイルーンの方はガイナスと、選ばれた暗黒騎士のみ、ということだな。よしよし……、流石は僕の姑殿だ。虜囚の身になっても、予想通り、ガイナスの手を患わせてくれているとは、実に優秀、優秀」
「猛獣を以て猛獣を制す、か……。あの将軍二人を相合わせようとか、貴殿は本当に無茶苦茶だな」
「いいじゃないか。密書を、こっそりとガイナスに届けてくれた小人族の情報網にも、感謝しているよ? ま、それはさておき、皇帝側なんだが、……あちらは、僕の嫁の所在について、もう掴んでいる様子か?」
「……ああ。さっきここへ来る時、暗黒騎士団の一部隊が、草原の国パルパトーネに向けて飛び立って行くのが見えた。あれが、おそらく姫君の迎えだろう。いいのか? 自分の愛妻が捕らえられるというのに」
あの交易都市で会った時に、よもやこの男の妻が、あの帝妹エリーヤだとは、さしもの闇商人も思い至らぬ事だった。だが、夫婦であると知って、改めて、この男と姫君の美貌の釣り合いぶりを考えると、確かに、見た目だけは、実に、お似合いの二人だと思えてくる。
いや、見た目のみならず、あのエリーヤと言う姫、気性は荒いともっぱら噂だが、民からの評判は、実際、それほど悪くはない。いや、悪く無いどころか、孤児を養うなど、慈善活動を積極的に行っていた事もあり、ことさら市井に生きる女達からは評判がよい。
そのことから察するに、気性は荒いと言えども、あの赤毛の姫、性格はそれなりに良いのであろう。で、あるならば、多少、この男と、姫の間にも夫婦らしい情があるに違いない。何より、あの美姫を娶って、悪い気のする男など、いないのだから――。
そう思って、心配の言葉をかけた闇商人だったが、どうやら、それは甘かったらしい。
夫である男はというと、まるで、蛇でも見たかのように、その顔をひん曲げて、明らかに不快、という顔を見せていた。
「は? 愛妻だって? 大体、何故、僕が、破廉恥嫁を、あの牢に置いてきたと思ってるんだ? こうして暗黒騎士団を、少しでも分散させる囮にするためだろ? そもそも、あの嫁の詰めが甘かったんだよ。その尻ぬぐいを、どうして僕がしてやらなけりゃならない? あの、獣か、雌蟷螂か分からん、掃除も下手で、食事のマナーのなっていない女なんか。いちいち、鬱陶しく絡んでくるし、あろうことか、この僕の腕に噛みつきやがって……」
どうやら、心底、気に入らないらしい。
噛まれたという腕の痣をさすりながら、……ああこの痣消えなかったら、この腕ごと切り落としたいくらいだ。獣みたいに縄張り主張しやがって、あの女……、とまで呟いている。
「そんなにムキになって、否定しなくてもいいぞ? うん……。貴殿は、何というか……、やっぱり面白い男だな」
「は? お、面白い? い、いいから、放っておけよ。だ、大体な、ヒルディン。あの女なんか、殺されたら殺されただ。それだけの――、女帝なんぞ到底なれない器の女だった、と言うだけのこと」
それだけ言い切ると、男の方は、極力冷静さを装いたいらしい。口を真一文字に結んで、闇商人からその目を逸らせてみせた。
「……まあ、僕としては、今は、あの嫁も姑も、暗黒騎士団の囮になってくれりゃ、それでいいさ。現に、こうして、今、暗黒騎士団は、交易都市、大森林、草原の国の三勢に分かれさせられているわけだから、実に都合良く働いてくれると思っているよ」
「確かに、貴殿の読み通りにはなったな。さて……、これから、どうする気だ? 三つに分かれた獣の身体。一体、そのどれを、叩く?」
姫君を捕らえるために、すれ違ったばかりの部隊。
帝国第三軍を統治下に治めた、暗黒騎士団副団長率いる大森林の部隊。
そして、交易都市ベイルーンに駐留中の、暗黒騎士ガイナス率いる部隊。
今居るこの国境近くの駐留地からは、どこでも狙える距離にあるその三方の中で。
この彫刻の様な男は、一体、どこを選ぶのか。
答えは、実に簡単だった。
「決まってるだろ。……ここ」
そう言って、男が、とんとん、と指したその先。
それは、形のよい自分の鼻の天辺で。
「獣と相対するときは、大体、まず最初に、鼻っ柱に一撃喰らわすんだよ。無論、その一撃で倒せたら言うことはないが――。例え、仕留められなかったとしても、最初に与える衝撃の大きさは、今後のいい牽制になるからな」
「と、言うことは――」
つ、と闇商人の視線が、ある方角へと滑る。
……そう。自分とこの男が出会った都市がある、あの――。
「貴殿は、まこと、イカレておるな。それで失敗したら、今現在相対している二匹の獣をより怒らせるであろうに。それに女達を付き合わせるか。確かに、女達の言うとおりだ。貴殿は……『最低』だ」
「ふん……。イカレてるのは、まあ、そのとおりかもな。そして、彼女らをここまで連れてきたのも、確かに『最低』かもしれない。それでも……」
と、ふと。
闇商人の嫌味に少々気圧されたのか、一瞬だけ、男の顔に影が差す。
だが、その影をぬぐい去るかのように、きつく唇を噛みしめると、意を決したように目を光らせて、一言。
自分に言い聞かせるかのような台詞を、吐いて見せた。
「それでも、出来れば、僕はもう――。……二度と、自分の欲求を満たすためだけに、あんな愚かしい事だけは起こすまいとは、思っている。……そう。彼女たちは、あんな目には絶対に――」
この男が言う、その『愚かしい事』が何なのか。
この男に、こんな目をさせる出来事が何であったのか。
闇商人は知らない。
知る必要もないし、知りたくも、そして、知るべきでもないと、思っている。
――良くあることだ。
目の前の男が見せた横顔について、そう短く評して、闇商人はその目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶ、流される多くの血。そして、涙。そして吹き出す憎悪。
この世界をまたにかけ、金儲けに精を出す小人族は、それを嫌と言うほど、見てきた。
だが、それが一体何だというのか。
哀しいかな、世界はそういうものだ。
彼の言う『愚かしい事』を山ほど積み重ねて、今まで人間は生きてきたのだ。それが、人間の歴史というもの。
ここで気配を殺している混血女だって、そうだろう。
同胞を殺され、差別に遭い、売られ、嬲られ……。それが日常だったはず。
一体、今更、それの何を嘆くことがあるのか。
嘆く暇があるなら、その目をさっさと見開いて、悟るべきだ。
人の血と涙は、手っ取り早く富を得るための必要条件。……有り体に言えば、戦争は、華々しく、生々しい最大の『金儲け』。
それが、当たり前なのだ、と。
そして、我らは、ただ、そこに在れば、いい。
何より、金を重視する、この小人族はそこに寄生して、富のおこぼれに与ればいい。
それが、この矮小な体躯しか持たない、小人族の生き方なのだから。
この大陸の安寧だとか、各国間の調和だとか、そんなものに期待はしない。
そして、それを求めて戦う者に共感したりもしない。
ただ、この小人族が、居る理由は一つ――。
……そこに、金の臭いがする。
それだけのこと。
「貴殿は、強欲だな、有翼人の男。あれもこれも、すべて欲しいか。その代償は、高いぞ?」
「払うさ。せっかく、生き延びた人生なんだから」
小気味よい、返答。
……本当に、強欲な男だ。
だが、その欲望、嫌いではない。
いいや、嫌いどころか。
人の欲望というは、まさに金脈そのものだ。
それを、どうして逃がせようか。
この、金髪の男の内に眠る金脈を、この生来の商人である自分が、一体、どうして――。
そう内心で思い当たり、闇商人は、一人笑う。
――さて。どうやら、一山、当てられそうだな。
「よかろう、有翼人。我が輩にとって、貴殿の哀しみも思いも、そして、理想も願いも、どうでもよい。我が輩は、貴殿の武人としての資質を、問わない。貴殿の矜持も正義も、問わない。我が輩が、貴殿に問うのは一つ」
そう闇商人の言葉が句切られると同時に、その懐から、じゃらり、と音がなる板が引き抜かれる。
それは、小人族を現す象徴にして、最大の商売道具。――算盤。
「そう……、貴殿の支払い能力の有無。――それのみだ。さあ、さっそく、それをこの算盤にて問おうではないか。つまり、貴殿が、いくらまで我が輩に払えるかを、な。くけけけけ」
ばちり、ばちり。
軽快な音で、算盤の珠が次々と弾かれ。
そして、闇に生きる小人は笑う。
「さあ。貴殿の矜持を守り、貴殿の思いを貫くために、必要な物を口にするがいい。このヒルディン、何でも用意してやるぞ。……そうさな。貴殿が、破産するまでならば」
これに対して、向かい合う男の方からは、と言うと、示された算盤の額に怯むことすらもしない。堂々と、算盤の桁を一つあげると、不敵な笑みまで浮かべて見せた。
「上等だ。金の切れ目が縁の切れ目ってか。……後腐れが無くて、良さそうだ。うん。まあ、……安心しろ。これでも僕は、いつだったか同僚に、『金食い虫』と揶揄されたことがある。金遣いは、はっきり言って、気持ちいい程にいいぞ」
そう、訳の分からないことを言い切って、今度は、耳にかかる金髪をかき上げると。
……きらり。きらり。
その下に隠されていた、品の良い赤い耳飾りを、これ見よがしに光らせて見せた。
「さて。とりあえずは……、衣装から用意して貰おうかな。出来れば、最高級品をお願いするよ、ヒルディン」