第十話:半島
ひどく鉄臭い臭いが充満していた。
並の男でさえ顔をしかめるこの臭いに、うら若い乙女は、慣れたものだ、と眉一つ動かさない。手に持った医療用の縫い針を、ぱっくりと開いた傷口に、まるで刺繍でもするがごとく、ちくちくと刺していった。
「どうして来た」
そう尋ねる男の声を無視して、女は尚も縫い続けた。
「ううっ・・!」
傷口が動く。縫い針が乱れぬ様、女は一旦手を休めて、声をかけた。
「痛いでしょうけど、我慢して。なるべく早く終わらせるから」
女のその励ましに、その傷の持ち主は小さく頷く。
「何ぼーっとしてるの! つっ立ってないで早く押さえるの手伝いなさい!」
先に声をかけてきた男を、女はきつく叱り付ける。男はその迫力に気圧されながらも、女の指示に従い、患者の足を押さえ付けた。
「どうして来たって聞いてるだろ」
小声で、尚も男は聞く。その問いに女は表情一つ変えず答えた。
「誰かさんは女を、口を開けてそこらにずっと立っているだけのポストか何かと勘違いしてらっしゃるんじゃないかしら」
その台詞に、男は動揺したように反論する。
「そんなことはない! 俺は君のことを考えて……」
ぴくり、と女の眉だけが反応した。
「考えて、ですって? 男はこれだから嫌。女には考える頭がないとでも思ってるの? ましてやその意志というものなんて、存在しないとでも?」
「違う! そうじゃない! 俺はただ君を心配して……」
「心配? どちらの心配かしら? 私の身の安全? それとも貞操?」
両方だ! と叫びたい気持ちをぐっと堪えて、男は改めて周囲を見渡した。
血、血、血。
広く間取りが取られた城の広間は、その身にひどく傷を負った負傷兵で溢れかえっていた。
現在、戦闘が繰り広げられているルークリヴィル城より、北に一日半の距離にあるこのマルク城には、次々と前線から負傷兵が運び込まれており、さながら城は野戦病院の様相を呈していた。
二日前にこの城に入城したロクールシエン軍は、当面、前線への後方支援、および負傷兵の救済、という任務に追われていた。無論、従軍医師、従軍看護婦は文字どおり休む暇もないありさまで、目の前の女の前にも、治療を待つ患者が列をなしていた。
「なあ、トゥナ。考え直して、今からでもクレスタへ帰ってくれ。俺から母さんに手紙を書くから。頼むから家で待っててくれないか」
相変わらず、女は無表情な横顔しか見せない。その様子に堪り兼ねている男に、後ろから違う女の声がかけられた。
「無駄よ、レミル。こうなったら姉さんは梃子でも動きゃしないわ」
振り向くと、これまた麗しい栗毛の乙女が、崩れた傷口の消毒を眉一つ動かさず行っていた。
「マリアン、君もだ。どうして君ら姉妹は……」
男の苦悩をよそに、女達はたんたんとその仕事をこなしていく。その女二人の両眼には、けして譲れぬ意地、という炎がめらめらと宿っていた。
――ようやく来たか、タヌキ親父め。
碧の瞳に怒りの炎を灯しながら、リュートは静かに口髭の男を、そう睨め付けていた。
その視線を気にも留めず、口髭の男は黒羽の主君に深々と頭を下げる。さすがに元中央貴族の家柄の男らしく、その動作の一つ一つが洗練されて、美しい。
「久しいな、クレスタ伯。七年ぶりか」
「はい。あの戦い以来でございますな。まこと、ご無沙汰いたしまして。此度も到着が遅れまして申し訳ありません」
そこで、クレスタ伯ロベルトは、ようやく黒羽の主君のそばに控えていた義理の息子に目をやった。
「我が不祥の息子に目をかけていただきまして、恐悦至極に存じます。どうぞ、これからもご存分にお引き立ての程を」
もったいぶったその物言いに、リュートは内心ふん、と鼻を鳴らした。タヌキ親父め。息子、なんて思ってもいないくせに。
内心を堪えながら、リュートは精一杯の愛想笑いで、義父に挨拶をする。
「お久しぶりです。旦那様」
それを受けて、ロベルトも張り付いたような笑顔で、対応する。
「そんなよそよそしい呼び方はやめてくれたまえ。若様付きになるなんて、養父である私も実に鼻が高いよ」
まったくなんと白々しい会話か、と聞いているランドルフが苦笑するほどだ。
だが、いつまでもこんな茶番を続けている場合ではない。ランドルフは側に控えていたリュートに耳打ちする。
「クレスタ伯に話がある。リュート、お前は下がっていろ」
「しかし……」
「主人の命令は一度で聞け。お前は下がって、また牛のようにもそもそ飯でも食っていろ」
主人の嫌味に、リュートは顔を赤くして、必死に反論する。
「なっ! もう普通に食べれるようになりました! 馬鹿にしないでください!」
「あー、わかった、わかった。いいから下がれ」
リュートは不服そうに口を尖らせながらも、しぶしぶ部屋を辞する。去りぎわに彼は義父の顔を、ぎり、と一つ睨み付けた。
「あれがお気に召したようで何よりです」
リュートが去ったあと、クレスタ伯ロベルトは、おもむろにランドルフにそう話し掛けた。
「そうだな。まあ、なんだかんだと役には立っている」
「あれも、随分あなたに懐いておるようで」
ロベルトのその言葉に、ランドルフは再び苦笑する。
「あれで、か?」
「ええ、あれで。あなたにはよう口をきいておるようで。私なんぞ、滅多にしゃべってもらえません」
「はは、いつも私に小言ばかりだがな」
そう、一つ笑うと、ランドルフは窓際の椅子にゆったりと腰掛けた。ちらり、と横目でロベルトを見遣る。
「随分と、差をつけたものだな」
含みをもたせて、ランドルフは言った。
「差、と申しますと?」
「あれとあれの兄のことだ」
それだけで、ロベルトはランドルフの言わんとしていることを理解する。
「おそれながら、私は人には相応の分、というものがあると思っています。我が息子もそれ相応に育てただけのこと」
「分、だと?」
「左様に。例えば我が息子レミルですが、あなたにとっては物足りない人物でしょうが、あれはあれでよいと思っています。あれはいずれ、クレスタを治める者。あれは少々気楽すぎるきらいがありますが、地方領主としての分は存分に備えておると思っております。あれは領民を愛し、また領民に愛される、そんな領主となるでしょう」
「最初から地方領主、という器にあわせるのか。男ならさらに大きく育て、とは思わぬか?」
ランドルフのその問いに、ロベルトは静かに目を伏せ、首を横に振った。
「分不相応な望みはかえって身を滅ぼしますゆえ。才覚もないのに、高望みだけするのは辛いものでございます。少しでも我が子には苦労はさせたくない、というのも親心ではございませんか?」
「親心……?」
ランドルフはその言葉に眉をしかめた。
「はい。いつだって親は子を思っているのですよ。ただ、悲しいことに、それが子の思いと一致せずに嫌われてしまうこともございますが」
にこり、とロベルトは口髭を揺らし、上品にほほ笑みかけた。
「では、あれは? 今私のもとにいるもう一人のお前の息子は? あれも、相応の分、とやらがあるとでも?」
探るようなランドルフの問いに、ロベルトは短く答える。
「そうですな、あれにはあれの分がありましょう」
「ふん。地方領主の手に余る分、か。非常に興味があることだ」
ランドルフのその問いに、ロベルトは答えない。ただ、再びゆっくり目を閉じ、沈黙して見せた。
「あ〜、くせえ、くせえ」
大きく窓を開けて、レギアスは外の空気を思い切り吸い込む。ふう〜、と大きく深呼吸すると、部屋のほうへ向き直り、同室者へ文句を垂れた。
「あ〜、なんだってこの城はこんなに男臭いのかね。看護婦さん達は仕事で忙しいし、娼婦のお姐さん方もいねえし」
そのぼやきに、馬鹿にしたような答えが返ってきた。
「どこまでお前は色惚けなんだ。いっぺんその頭、竜騎士にでもかち割ってもらってこい」
いつものごとく、眼鏡を光らせ、小男が言う。
「まあ、臭い、という意見には同意だがな。私にはこの血生臭さはもう耐え切れん」
そう言ってぱたぱたと、いつも手にしている書類で顔をあおぐ。
「まったく、こっちは山脈越えで、未だ頭痛が治らないってのに、この血と死体を焼く臭いときたら。ああ、野蛮でたまらない」
「へっへ〜。普段から体を鍛えておかないから、そうなるんだぜ〜、オルフェ」
「お前はいいな、レギアス。筋肉バカは痛む脳みそがなくて」
「なぁにおぉ〜。おめーこそ、そのご繊細な脳みそ、竜騎士にぶちまけられないよう気をつけるんだなぁ〜」
「いい加減にしてください。大人気ない」
呆れたようにため息をついて、リュートが部屋に入ってきた。その手には丸められて筒状になった大きな紙と、数冊の本が抱えられている。
「お、親父さんには会えたか〜」
レギアスのその問いに、リュートは仏頂面で答える。
「ええ、ええ。会えましたとも。実に不愉快極まりない顔でしたよ」
そう言いながら、リュートは机の上に、丸められた紙を広げはじめた。
「それ、何だ?」
「地図とここ数年の天候記録ですよ。すべて頭に入れておこうと思って。僕、南部は初めてなので」
「おお〜、さすが、俺の教え子。実に優秀、優秀」
うん、うんと頷きながら、レギアスも机の上の地図を覗きこむ。
そこには、大きくいびつな逆三角形のような形が描かれていた。センブリア大陸の全図、である。
有翼の民、ミラ・クラースが住むセンブリア大陸は、概ね正三角形を逆さにしたような形をしており、その周囲はすべて海に覆われている。ただ、一部逆三角形と違う点は、下の頂点、つまり最南部に位置する部分が、著しく下に突き出している点である。ちょうど正面からみた象の鼻、といったような形で、長く南にのびたこの部分が、今彼らがいる南部、イヴァリー半島である。
「ここが僕らが越えてきたアイ山脈ですね。」
リュートはその地図の象の鼻の付け根にあたる部分を指し示した。そこには、標高の高い山を意味する記号が数列描かれている。
「そうだ。それでここが今、戦線が開かれているルークリヴィル城」
そう言って、オルフェが象の鼻の中央部を指し示す。
「南部を治めるリューデュシエン大公の居城にして、半島最大の要地だ」
「リューデュシエン大公?」
「我がロクールシエン大公と同じ、四大大公の一人だ。今は大公本人は宮廷にいて不在だそうが」
「不在? この非常時に?」
「まあ、『日和見大公』と揶揄される人物なだけある、ということだ。今は代理を務めているジェルド、という将と各駐留軍がここで応戦している。そして……」
オルフェは、その指をルークリヴィル城から北の位置にずらす。
「ここが今我々がいるマルク城だ。さらに、ルークリヴィルを囲むようにして、大小の城や砦が存在している」
ここでリュートは、また山を意味する記号が書き込まれているのに気付く。
「このあたりは山が多いですね。と、なると風の動きも複雑だ」
「それだけじゃない。標高も高いからな。空気も薄いし、雪も降る」
そういえば、もう随分寒くなってきた。もう、秋もだいぶ深まってきたな、とリュートは外を見遣る。
「今にも降ってきそうな曇天ですね。ああ、南部って言うからには暖かい所だと思っていたのに」
「まあ、ここは半島でも内陸の方だからな。海の方に行けば暖かくて、平時は貴族達がバカンスを楽しんでるくらいだ」
そこで、レギアスはうへえ、と舌を出した。
「海!あ〜、俺、海風大嫌い。ホント、竜騎士共はよく何日もかけて海を渡ってくるよ。俺たちの羽じゃ、到底海越えなんて無理だってのに」
「そうですか? 僕、港町出身なんで、海でも飛べますけど」
クレスタにいた頃はしょっちゅう風見の仕事で飛び回っていたリュートにとっては、レギアスのその発言が理解出来ない。
「馬っ鹿!お前外洋に出たことないからそう言えるんだ。漁師が海で魚が捕れるような内海と、その先の外洋とじゃ風が全く違うのさ。半島は南につきだしてるからな。外洋の風が入ってくるから大変なんだぞ。俺はもっと若い時分に、親父に外洋の風にぶち込まれた事があるけど、マジ、死ぬかと思ったっての。それ以来俺、海はトラウマ!!」
「なんで、そんな所にぶちこまれたんですか……」
リュートはなんとなくその理由を察する。どうせ、女がらみに違いない……。
沈黙をするロベルトに、ランドルフは一つ揺さぶりをかけた。
「あれが、ガリレアの手の者に襲われた、という事件があったのを知っておるか?」
ランドルフのその問いに、ロベルトは虚を突かれたように、驚いた。
「……ガリレアの?! し、知りませんでした」
今まで、冷静に振る舞っていたロベルトの、その一瞬の動揺に、ランドルフはさらに続けて問いを重ねた。
「そなたも、ガリレアの出身らしいな」
「……ええ、そうでございます。近衛隊におりました。お調べになりますか?」
ロベルトはさっきの動揺を一瞬にしてぬぐい去り、再び上品に微笑んでいた。
タヌキ親父、というあの山猫の揶揄も、まんざらではないな、とランドルフは苦笑する。調べても、何も出てこないことに自信があるのだ、この男は。さすがは親父殿の臣下、といったところか。さて、どこから攻めるべきか、この髭親父め……。
ランドルフがそう思索していた時だった。
「若ぁ!! 若はお見えか!!!」
地の底から響く様な怒号が城内に響き渡った。
「この声は」
「ナムワでございますな」
ランドルフが言うより早く、ロベルトがその声の主を言い当てた。
「若! 若ぁ!!」
その熊が吼えているかの様な声と共に、部屋の扉が壊れんばかりに開けられる。
「おおお!!! こちらにいらっしゃったか!!!!」
のしのしと音を立てそうな太い足がランドルフに近づいてきた。
「お久しゅうございます、若!! 大きゅうなられて!! おお、それにロベルトではないか! 七年ぶりか。元気だったか!!!」
丸太の様な腕が、ロベルトの背中へと振り下ろされた。あまりの衝撃にロベルトがむせ込むほどだ。
「そなたも息災でなによりだ、ナムワ」
ランドルフのその呼びかけに、その大声の持ち主はようやく頭をさげた。髪をすべて剃った禿頭が、きらりと光る。
「はい! このとおりでございます!! むん!」
これでもか、と言わんばかりに筋肉を主張してみせるこの壮年の男こそ、ロクールシエン家が先の戦争終結後に、この地に駐留させていた東部軍を束ねる守備隊長のガルド・ナムワである。元平民出身ながら、実直かつ、剛胆なこの男は、駐留軍の兵士らから絶大な支持を得ており、『おやっさん』なる愛称でも親しまれている人物である。
「ナムワ、そなたが戻ってくるなどどうしたのだ。先にそなたの軍はルークリヴィル城へ救援に行っておったのではないか」
ランドルフは自らが東部軍を率いてこの城に来る前に、先に半島に駐留していたナムワの軍を南進させて、ルークリヴィル城へ入城させていた。そのため、この優れた武人が戦場から離れてこの場に来たことに、ランドルフは不穏な空気を感じ取っていた。
ランドルフの問いかけに、慌ててナムワは答える。
「それが、若!! 大変でございます。間もなく、……ルークリヴィル城は落ちます!!」
「何だと?!」
「もってあと三日。早ければ二日で落ちるでしょう!! それほどまでに皇帝軍の攻撃は激しいものになっております!!」
その報告に驚きを隠せないランドルフだったが、最初にレンダマルで報告を受け取った時から今まで、あの城は竜騎士の攻撃にさらされ続け、よくもっていた方なのだ。ついにこの時が来てしまったか、とランドルフは腹をくくる。
「もう、ここから援軍を出しても無駄なのだな?」
「はい。もう城自体がひどく破壊されておりまして。あそこでこのまま戦い続けるよりは、前線を下げて戦った方がよろしいかと!」
ナムワの進言にランドルフも頷く。
「ではここ、マルク城を拠点として、周囲の城に防衛線を築く! ナムワは一旦前線に戻り、未だルークリヴィル城で戦える兵士を撤退させて、新しい防衛線に配置させろ! クレスタ伯は直ちに自軍を率いて防衛の準備にかかれ! よいな!!」
「ははっ!!!」
若き大公代理の言葉に、男達が迅速に動く。
――ここが、正念場だ。
久しぶりの戦場に、ランドルフはそう自分を奮い立たせた。
「レギアス! オルフェ! リュート、来い!! 出陣するぞ!」