第百七話:馬鹿
「ごきげんよう、『あなた』。本日は、素敵なお日柄ですこと」
まるで、舞踏会のような挨拶。
だが、その場の空気はと言うと、絢爛豪華からかけ離れた、陰鬱かつ剣呑なもので。
「いいえ、あなたが素敵な日柄にしてくれた、というところかしら? 『裏切り者さん』」
――今にも、刺される。
サーシャが涙目で、そう感じるほどに、刺々しい雰囲気が、この暗い牢獄には渦巻いていた。
放牧地から一番近くに位置する、とある町の獄舎。普段なら、街のならず者を放り込んでおくはずのその場所に、紅玉の瞳を持った姫は、監禁されていた。
床は藁敷きになっており、鉄格子の中には用を足すために置かれたバケツ一つしかない、という最底辺の牢獄である。普通、女なら、こんな環境なんて屈辱だわ、と悲嘆にくれてもおかしくないだろう。
だが、この女ときたら、泣くどころか、鉄格子越しに、まるで管を巻いた蛇のように、こちらを威嚇までしてくるのだから、堪らない。
「……あんたでしょ? 私とお母様を売ったの。あー、まったく、油断したわ」
だが、この威嚇に対する男の方も負けてはいない。鉄格子の向こうから、子猫のような笑みで、あっけらかんと答える。
「あれ? 何だ、分かってたのか。……まあ、いいや。はい、正解。良くできました。でも、もう遅いなぁ。ハネムーンだとか何だとか訳の分からない事言って、自分の旦那、舐めてかかってたお前が馬鹿なんだよ、『奥さん』」
「…………」
……お願い。
止めて。これ以上、火に油を注がないで。
涙ながらに、後ろに待機しているサーシャの、そんな願いも空しく、牢獄は鉄格子を挟んで、まさに一触即発状態。
今にも夫婦間に火花が散ってもおかしくない、そんな修羅場に、どうしてのこのこと付いてきてしまったのか。サーシャが後悔しても、もう遅かった。何しろ、周りを見渡せども、助けてくれる者など、誰も居ないのだから。
本来なら、見張りの看守が牢にはいなくてはおかしいだろうに、椅子も入り口も、何と、完全なる無人状態。一体何故、そんな奇異な事が、起こっているのか。答えは――。
「にしても、私のネックレス、看守達に賄賂として送るとか……。あんた、本当に殺してやりたいわ、糞亭主」
「いいじゃないか。誰にも邪魔されず、お前と話したかったんだよ。いじらしい夫の願いを叶えるためだったら、首飾りの一つや二つ、我慢しろよ。『奥さん』」
この会話の通り、人払いをするために、夫が看守達の給金何ヶ月分に値する装飾品を、ぽんと与えてやったからだ。
まさに、地獄の沙汰も金次第、とはよく言ったもの。加えて、人の良さそうな看守の前で、この男が、……『処刑される前に、奥さんと、誰にも邪魔されずに、愛の言葉を交わしたいんだよ、ううううう』、とでも泣き崩れれば、後は簡単。
こうして、あれよあれよという間に、牢獄には、夫婦二人とサーシャの三人きりの状況の出来上がり、と言うわけだ。
「それにしても、よく分かったな。僕が犯人って。てっきり、他の国の王様疑っているかと思ったけど」
しん、と静かな牢獄の中、鉄格子を挟んで、夫が挑発じみた言葉を口にする。これに対して、妻の方は、その顔を、先までの威嚇の表情から、幾分か余裕を持った笑みに変えて、夫の言葉へと対抗してみせた。
「馬鹿にしないで頂戴。私が調印を持ちかけた王達が、一体いかなる人物か。私が一番わかっているつもりよ。それに、大体、あんたのパオでの態度見たら、一目瞭然だったわ。あの白々しい目ったら! もう少し、うまく演技しなさいな」
「よく言うよ。この草原の国に来てからこうなるまで、可愛い旦那様の演技に、ころっとだまされてたクチしてさぁ。あー、傑作、傑作」
これには、流石の姫も反論できないらしい。
あれほど近くに居たはずなのに、完全に夫の手の内を掌握していなかったなんて、なんたる屈辱、と、きつくその唇を噛みしめる。
だが、そこはもう済んでしまった事だ。いつまでも後悔していても仕方がないわね、と呟くと、再び、夫の前へと向き直ってみせた。
「……それで。私の首飾りを賄賂にしてまで、会いに来た理由は何? 私を思う存分笑いたいだけではないでしょうに」
「まあね。僕の奥さんは、察しがよろしくていいね。では、本題」
鉄格子越しに触れ合えそうな位置。
そこまで距離を詰めて、夫が、突然訳の分からぬ一言を発する。
「……助けてやろうか? エリー」
「な……。何ですって?」
勿論、これには牢内の姫のみならず、後ろに控えているサーシャまでも、あんぐりと口を開けるしかできない。
自分で妻を売っておいて、さらにそれを助けてやろうか、などどは。もう、この男、正気の沙汰とは思えない。
「あ、あんた、ついに頭が狂ったの? 自分が何言っているか、分かってる?」
「正気も正気さ。分かっていないのは、お前の方だ。大体、お母様も捕らえられ、有角の国の王に囚われているこの状況で、お前一体どうするつもりなんだ? ん? このままだと、お前もお母様も死ぬぞ? それで、いいのか?」
「あ、あんた、まさか、ここで私を逃がすつもり? そんな事、外で待機している看守が許すはずはないし――、何より、草原の国の王が許さないわ。それに、第一、今私をここから出してご覧なさい。あんた、どうなるか分からないわよ? 言っておくけど、この場で鉄格子が開けられたら、私、あなたに飛びかかる覚悟くらいは出来ていてよ」
……いくら夫とは言え、こんな屈辱を私に与えておいて、ただで済むと思わないで頂戴。
鉄格子の向こうの赤い瞳は、まさに、そう主張していた。
だが、対する碧の瞳の男は、と言うと。
「は? 誰が、お前をこの牢から出してやるって言った。そんなムシのいい話があるわけないだろ。馬鹿じゃないのか」
「……え?」
これまた、意外な言葉を発していて。
この返答には、牢の中と外の女二人して、再び、ぽかんと口を開け放つことしかできない。
「お前の油断が招いた事だろ。ここから出たけりゃ、自分の手で出てみな。……女帝になろうという女なら、それくらい出来るだろ? 僕と、いつだったかした――『契約』。覚えてるんだったらな」
その言葉に、思い当たるところがあったのだろうか。赤毛の姫の眉が、ぴくり、と反応する。
「『契約』ってもしかして、あの夜の……。あんた……、まさか、こうなることを見越して、私にあんな事言ったの……?」
「まあね。お前から、あの言質を取りたかったんでね。悪いが、僕の『愛』とやらを利用させてもらった。まあ、まさかお前をこんな風に牢獄にぶち込めるなんて、予想外にうまくいったとは思うけど」
「……最低」
まさに、今にも雷鳴でも轟きそうな程に緊迫する、夫婦間の空気。
その恐ろしさを目の当たりにしつつ、頭を抱えるサーシャには、男の言う『契約』とやらに聞き覚えがあった。確か、いつだったか、この男が言っていた。
――『姫が女帝に相応しい女になるのだったら、心から愛してやってもいい』、と。
「あの『契約』。今更違える気はないよな。女帝になるに相応しい女になる、と言ってのけたお前なら、多少時間は掛かっても、『自力で』ここから出られるよな? エリー。いいや、お前なら、もっと……」
「……何が言いたいの」
未だ、真意の読めない夫の態度に、流石の姫も痺れを切らしたらしい。さっさとあんたの本当の望みを言いなさい、とばかりに、鉄格子越しに睨め上げてきた。
「そうだな。じゃ、さくっと言おうか。さっき言った通り、僕は今、ここでお前を牢から出す気なんざ、さらさらない。けれど、このままお前と姑殿に死なれるのも、困るんだ」
「困る……? 私達の計画をおじゃんにさせておいて、よく言うわ」
「まあな。別に、お前らの計画が破綻するのは、僕にとっては、一向に困らないからな。ただ、困るのは、さっさとガイナスが自由になることだ。あの男がお前らを処刑して、何の憂いもなく僕らの国に行かれては困る」
そこまで言って、ようやく、姫は夫の企みを理解したらしい。口の端だけを歪めて、笑ってみせた。
「ははん……。あんた、どうやら完全に私達の計画を潰す気は、ないようね」
「そういうこと。賢明な奥さんで助かるよ」
不敵に笑い会う夫婦二人。
これには、完全に置いてけぼりを喰らわされたサーシャは、堪ったものではない。すぐに二人の間に割って入って、説明を求める。
「ど、どういう事ですか! お二人で分かり合っていないで、きちんと説明をして下さい、説明を! だ、大体、『助けてやろうか』って、一体何のおつもりで――」
「助けてやろうかってのは、……あっちのほうだよ。僕の姑殿の事」
「……はい?」
この男の姑と言えば、一体誰のことなのか。知らぬサーシャではない。
「ぐ、グラナ将軍を、ですか? な、何を馬鹿な事言ってらっしゃるんです。貴方が自ら将軍を売ったんでしょう? それを今更助けるとか、どういう……」
ここまで言われてもサーシャには、この男の真意が掴めない。それを見かねて、牢の中から妻が代わって補足してきた。
「わからない妾ちゃんね。この男はね、私に貸しを作りたいのよ」
「か、貸し、ですか? ど、どうして将軍を助けることが、貸しになるんです? リュート様のせいで、将軍は囚われたのに……」
サーシャのその問いに、姫は幾分か悔しいのだろうか、唇を噛んで、答えを返す。
「確かに、ガイナスに調印書を流したのはこの男だけど――。そうなる状況を許してしまったのは、私の責任だわ。この男の言うとおり、調印が終わって、気を緩ませてハネムーンなんて浮かれて、この男の行動を把握していなかった、……この私のね。だから、お母様が捕らえられたのだって、この私の責任に他ならないのよ、妾ちゃん」
なんとも、意外なほどにあっさりと自分の非を認めた返答。流石に、裏切りに腑が煮えくりかえっている姫からは、夫に対する罵倒の言葉しか出てこないと思っていたのに。
そう幾らか、肩すかしを食らった感を覚えるサーシャの一方、夫の方はと言うと、この状況を楽しむかのように、さらなる煽りの言葉を口にしていた。
「そうそ。ああ、素晴らしいね。やっぱり、女帝になるに相応しいお方は、夫の裏切りを詰るよりも、そうやって御自分の責任を認めなきゃな。何しろ、自分でそう契約したんだから」
「……うるさいわね。確かに、すっかりあんたに騙されて言質取られちゃったけど、あんたの裏切り、私許したわけではなくってよ? いつか見てなさい。このツケは絶対払って貰うから」
その言葉を皮切りに、またも緊迫する夫婦間。
これには、流石にもうつき合ってられないわ、とばかりに、サーシャは今までの会話の内容から、この男がやったことを整理する。
……つまり。
この男は、自分で妻とその母を、まんまと罠に嵌め、どうしようもない状況まで追い込んでおいて、『どうする? このままなら、お前達死んじゃうけど、今、こっちの要求飲むなら助けてやってもいいよ? 困るよね?』と、脅迫しているわけだ。しかも、前もって自分の『愛』と引き替えに、このプライドの高い姫を煽るような、言質までとって。
まさに、何というか、悪質な強請りそのもの。
到底、貴族の血が入っている男がやる事とは思えない。
だが、当の男は、それを悪いと思うどころか、……安心しろ、強請り、集りは昔から得意だ、などと、寝ぼけた事を言っており、あまつさえ、平気な顔をして、……ま、僕の裏切りは、この嫁とサーシャとヒルディンしか知らないから、大丈夫、大丈夫、という、世迷い言まで口にしている。
「え、……ええ。だ、大体、私、整理出来ました……。でも、将軍を救うって一体どういう……」
「決まっているでしょ? お母様を救う、イコール、私の皇帝及び現元老院に対する反逆の狼煙を上げる事を意味する。つまり――、いいこと? 妾ちゃん。この男はね」
そう言葉を句切ると、姫は、まったく忌々しい、とばかりに大きく嘆息して、驚きの計画を口にする。
「ええ、この不貞不貞しい私の夫はね。――自分の国に、ガイナスが遠征に行く前に、さっさと私達のクーデターを成功させてしまうつもりなのよ」
「え? ……ええ? ……えええええええ?!!」
あっけらかんと知らされた驚愕の事実に、サーシャの顎は、もう外れる寸前だった。
まったくに。
……まったくに、この夫婦二人が理解出来ない。
だが、当の本人達は、どこ吹く風、といった様子で、サーシャの驚愕など意にも介していない。淡々とした口調で、分からぬサーシャに説明をしてきた。
「僕はな、サーシャ。本当に、皇帝にこの嫁を処刑させたくて、あんな事をした訳じゃないさ。まあ、信用がおけない嫁ではあるが――、前にも言った通り、僕の目的は『祖国から帝国軍を撤退させること』、だ。それ以外は、はっきり言って、どうでもいいっちゃあ、どうでもいい」
「そうよ、妾ちゃん。だからこの男はね、まだ計画段階にあった私のクーデター計画を、皇帝側に知らせたのよ。『私が女帝になるのを邪魔する為』、でなく――、『私のクーデター計画を、一刻も早く発動させる為』に、ね」
……つまり。
調印書という証拠を皇帝側に突きつけ、あちらが動けば、姫側も悠長にクーデターを起こすのは春まで待ちましょう、などと悠長な事は言っていられない。このままでは反逆者として捕らえられ、殺されるだけだ。
それを、回避するには、一刻も早く、クーデター計画を発動させるしか、姫達が助かる道はない。
「お前の事だ、エリー。こうでもしなけりゃ、計画を早めなかったろ? 大体、ガイナスの留守を狙おうなんざ、狡い真似するなよ。僕が相応しいと認める女になると、あの時お前は明言したじゃないか? じゃあ、どうせなら正面切って、奪取してみろよ。――お前の望む、皇帝位をな」
まさに、姫にとっては屈辱的な提案。
自分の夫に裏切られ、またしても取られた言質まで持ち出され、こうして鉄格子の向こうから、都合のいいように煽られる。
だが、どうやら、その夫の扇情的な言葉が、姫にはお気に召したらしい。しばらく俯いて沈黙したかと思ったら、突然に、その口から、高らかな笑い声を迸らせていた。
「……あはははははっ! あんたって男は! 本当に、変わらないわね、その不貞不貞しさ。……ええ、本当に、あの髑髏の上で初めてキスした時もそうだった」
「……ああ、あれか。今となっては、懐かしい思い出だな、奥さん。まさか、あの時は――、お前と夫婦になろうとは思わなかったけど」
――髑髏の上でのキス。
何とも不気味なシチュエーションだが、この二人には、その出来事に共通して思う所があるらしい。サーシャを、また一人置いて、互いに挑発的な視線を送りあう。
その視線が、何とも言えず、妖艶で。
……ぞくり。
思わず、サーシャの背筋に、寒気が、走る。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って下さい、リュート様! だ、大体、何ですか? く、クーデターを早々と成功させるつもりなら、今すぐ姫様を、ここから出して、一緒に将軍を助けに行ったらいいじゃありませんか!? 確かに、草原の国の王の手前、逃がすのは難しいかもしれませんが――」
そう言葉を繋げながら、サーシャは、必死に、この夫婦の会話に追いすがらんとする。
だが、そんな彼女に返されたのは、またしても、惚れた男から意味不明の言葉だった。
「……けっ。嫌だね。散々、人のことを虚仮にしてくれたこの女、ようやく牢に閉じこめたんだ。誰が簡単に出すか」
「は、はい?」
「大体、早々とこの女に出てこられても困るんだよ。しばらく、この女にはここにいて貰った方がいいのさ。ま、この破廉恥女にとって、この牢は丁度いいお灸だろ」
「な……! 貴方、この場に及んで、またおかしな事を……。しかも、何、子供みたいな事言ってるんですか!? あ、貴方って人は、もう、訳が分からなさすぎて、私、私……」
「本当に、分からない妾ちゃんね。この男はこういう男よ。やることは大胆不敵で、傲慢そのものに見える男だけれど――。その実は、激しく子供なのよ。だからこそ、厄介なの。それが、分からない?」
分かれと言ったって、サーシャに分かるはずもない。
この男の言動も、それを余裕で受け止めて笑ってみせる彼の妻の言動も、まったくに理解不能。
もう、ここまで来たら、諦めの溜息すら尽きるというものだ。
「……貴方達に訊いた私が馬鹿でしたわ、もう……。そ、それは、と、ともかく置いておくとしましてですね! リュート様! この牢獄から出さずにおいて、一体、姫様にどうしろっていうんです?」
「どうもこうもない。さっきも言ったように、女帝になりたいんだったら、エリー。お前、ここから自力で出てこい。お前をここに閉じこめた有角の国の王様と王子様を、お前の力でねじ伏せて、自力でクーデターを成功させるべく、僕の前に現れな」
「……はい?」
これまた、サーシャの理解の範疇を越えた要請。驚きのあまり、夫婦それぞれの顔を二度見までしてしまう。だが、この夫婦ときたら、驚愕するどころか、この場に及んで何と、不敵に笑いあっているのだから、もう堪らない。
「ちょ、ちょっと待って下さい! 『僕の前に現れな』、とか……。そ、それじゃあ、リュート様、貴方は一体どうなさるんです?」
「決まってるだろう? 女将軍を助けに行くさ」
「な……。ぐ、グラナ将軍はガイナスの元にいるんでしょう? そ、そんな、貴方一人で助けるだなんて、絶対に無理で――」
「誰が一人って言った」
心配し、追いすがるサーシャに、またも男から意味不明の言葉が返される。
……いけない、いけない。
何とか理解するのよ、サーシャ。ここで降参しちゃあ、負けよ。
そう思い直して、サーシャは動揺を抑えるように、極力冷静に問いを返さんとした。だが、当の男は残酷なほどに、無神経で。
またしても、驚愕の言葉を、返してきた。
そう……。サーシャの理解の範疇を大幅に逸脱した、まるで異界人のような言葉を。
「今、ここにある手勢って言ったら、決まってるだろ。……おい、エリー。このサーシャを含めたうちの妾達全員と、それから、お前の紅玉騎士団の戦力、貸しな。姑殿、ちょっと行って助けてきてやるから」
…………意味、不明。
思考、停止。
自分の妾を使うのみならず、敵として戦った憎き女騎士団を顎で使おうとか……。
しかも、観賞用奴隷に過ぎない、この自分まで、さらに酷使しようとか……。
この男、…………もしかして。
もしかして、本当は、……究極の馬鹿なんじゃないの?!!
一瞬、そんな考えが脳裏に過ぎり、サーシャの脚が、がっくりと床に折れる。いや、折れたのは脚だけではない。何とかこの男に付いていこうという意欲も、容赦無しにべっきりと折られていて。
つい、昔の生活が懐かしく思われ、弱気な言葉が口をついて出る。
「……あ、あのう……。私……、これ以上、お役に立つの無理そうなんで……、もう、あの貿易都市に帰っても……」
「は? 何言っているんだ。君はとっくに両足突っ込んでるんだよ、サーシャ。これから苦労掛けるねって、さっき謝っただろ? だから、僕の事許して、そろそろ腹くくれよ」
これで、はい、という女がいるとでも思っているのだろうか。この男の思考回路は、どこか欠落しているに違いない。そうでなければ――。
「それから、エリー。牢に繋がれる、とかヘマやったお前のお母様、助けてやろうってんだ。感謝してお前の手勢に言うこと聞かせる方法教えろよ、糞嫁」
こんな風に。
自分で将軍を敵に売っておいて、それを助ける為の戦力寄こせ、なんて発想、出てくるはずもない。
まさに、究極の……。
「……あははははっ!! 馬鹿っ! あんたって、やっぱり馬鹿! 大馬鹿よっ! あはははははっっ! 『あの時』から、やっぱり変わってないわねっ!!」
サーシャがその先を呟くまでもなく、姫の口からは、男を評する明確な言葉と共に、大爆笑が漏れていた。
だが、一方で、夫はと言うと、妻の言葉と笑いが不快だったらしく、また子供のように唇を尖らせて反発を見せる。
「何だ、エリー。『あの時』ってのは。さっきも言ってたルークリヴィル城のアレか。いい加減、忘れたい思い出なんだよ、あれは……。と言うか、さっさと笑うの止めろ」
「違うわよ、初めてキスした時じゃ無くって……、って! あはははははっ! もうっ、これが笑わずにいられますかっての……! どうするつもりかと思ったら、あの妾ちゃん達と、私の紅玉騎士団貸せ、とか……! あー、傑作、傑作……! 久しぶりにこんなに笑ったわ。あはははは……、あんたって、やっぱり……」
と、そこまで行って、ようやく姫の笑いは止んだらしい。笑いすぎて、肺から無くなってしまった空気を戻すべく、大きく深呼吸をした後、一人呟く。
「ああ……、もう。こうでなくちゃ。あんたは、こうでなくっちゃ面白くない。あんたをすんなり飼えると思っていた、私が間違っていたわね。……うふふふ」
そう姫が自嘲するや否や、彼女の目が、一瞬にしてぎらり、と光り。今までの表情から一転して、堂々と腹の据わった為政者の顔へと変化する。
そして、鉄格子越しに夫の顎をぐい、と掴むや否や、小気味よい答えを返した。
「――いいわ。持って行きなさいな。あんたの同族の妾ちゃん全員と、紅玉騎士団のジェック、ティータ、そして他の団員、好きなだけ貸してあげる」
「ひ、姫様?!」
流石のサーシャも諫めるその驚愕の答え。だが、夫の方は少しもその返答に驚きなど見せてはいない。
まるで、そう答えるのが当然、とでも言いたげに満足に口を歪めて、つい、と優雅に、顎にかけられた妻の手を解く。そして、さらに妻の機嫌を取るつもりのか、その手の甲に。
……ちゅ。
音を立てて、惜しみなくキスをしてやり――。
さらに、要求を口にする。
「これはこれは。さすが、僕の奥さんは気前がいいね。ついでに、軍資金もくれると助かるな、『ハニー』」
「勿論、差し上げるわよ、『ヒモ亭主』。ただし、しくじったらただじゃおかないからね。覚悟しなさい」
その言葉と共に、妻の手が夫の手から解かれ、代わりに、牢内からぺしり、とあるものが投げつけられた。
見遣ると、それは姫がいつも付けている、細かい竜紋の意匠が施された耳飾り。それが意味するところが何なのか。姫が語り出す。
「それは私のサイン代わり――、つまり、私が全権をあんたに委任した事を示すわ。それを持っていれば、紅玉騎士団の騎士達も出納係も、ひとまずあんたの言うこと聞くわよ」
「へー、そんな素敵な耳飾りだったのか。なら、さっさと盗んでおけば良かったな」
「冗談もほどほどにしなさいよ、あんた。いい事? 私の騎士達はあくまでお母様救出の為にしか動かないわよ? もし、あんたが裏切って、お母様を見殺しにしようとしたら、私の騎士は容赦なくあんたの妾ちゃん達、殺すからね?」
……自分が命令しなくても、不審な行動をすれば、例え夫であっても、騎士達はためらいなくあなたに逆らうわ。
その事、努々忘れずに行動なさい。
妻の視線が、無言でそう語る。
だが、当の夫はそんな脅しも、左から右へ、華麗に流し。
「やだなぁ。ちゃんと助けてやるさ。その代わり、僕が姑殿助けたら……」
「ええ、いいわ。内心、癪だけど、私のミスだから仕方ないわね。あんたが私を裏切ったこと、ここだけの秘密にしてあげるわ。のみならず、あんたが私のクーデターに協力して、私を女帝にするなら、その働き如何では――」
「――『有翼の国への侵攻停止を、考えてもいい』、だったな。確か、大森林での『約束』だ」
「そうね。確かに、したわね。そんな約束。……ああ、腹の立つ」
ぼそり、と呟かれた姫の最後の台詞。それをどうやら敗北宣言と受け取ったらしい。
夫の顔に満面の笑みが、浮かぶ。
「よし。じゃあ、お前がいない間に、さっさと行って、たっぷり恩を売らなきゃな。お前が、僕に逆らえないくらいに、大量の恩をな」
「……ったく。あんたって、ホント、最悪。また、その綺麗な顔で笑われるのが、余計にむかつくわ」
「『最悪』。実に結構。そのまま、どんどん僕のこと嫌いになって、さっさと離婚してくれ、エリー。僕は、お前みたいな掃除が下手な女、願い下げだから」
「絶対に、い・や。て言うか、離婚、できないし。それに掃除ならあんただって……」
……一体、何なのか。
この夫婦、一体、何なのだろうか。
どうして、この空気の中で、掃除だの離婚だの、夫婦喧嘩をしていられるのか。
この中で唯一まともな感性を持っていると思われる女、サーシャの我慢はもはや限界だった。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと!! 何をもう、将軍を助け出せること前提に話を進めてるんですか! そ、そんな事、常識的に出来るわけないでしょう?! わ、私達有翼の民の女と、一部の女騎士だけで、将軍の救出作戦とか……、無茶にも程があります!! 馬鹿なんですか? 貴方達夫婦、馬鹿なんですか?!」
皇帝の妹を前に、ついに言ってしまった本音。……『馬鹿』。
その事実に、……もしかしたら、私、殺されるかもしれない、と、戦きながらも、サーシャは勇気を振り絞って、姫の前に対峙する。
初めて、真正面から見る、帝国の姫にして、惚れた男の妻。
暗い牢内にあっても艶々と煌めく赤毛に、意志の強そうな紅玉の瞳。その容貌は、同性のサーシャであっても、思わずどきりとしてしまうほどに美しい。
だが、ここで負けてはいられない。
自分だって、これでも最高級の値が付いた観賞用奴隷である。美貌には少しばかりか、自信がある。何よりも、自分にはこの男とは同族という有利な条件もあるのだし、ここで、負けられない。
――と、サーシャが思うより早く。
鉄格子の向こうの厚い唇からは、ぶはっ、という嘲笑が返ってきていた。
「はあ? 『出来るわけない』とか、随分ね、妾ちゃん。……いいこと?」
「……え?」
そして、さらに、思わず、聞き返してしまったサーシャに、追い打ちを掛けるような、堂々とした宣言までも――。
「――あんまり、うちの旦那、舐めんじゃないわよ、妾の分際で。この男がこういう目をしている時は、大体いつもなんかやらかすのよ。こいつはね、そういう男なんだから」
まさに、自信たっぷり、といったその態度。
これには、サーシャも。
「――…………」
返す言葉が見つからず、呆然と姫の前に立ちすくむより、他にない。
だが、姫はそんなサーシャの様子を毛ほども気に止めてはいないらしい。まるで存在しないかのように、彼女を無視すると、鉄格子越しに夫の手を取って、さらに自信満々に笑む。
「あんたがこうまで言うからには、何か策があってのこと。そうでしょ? ――『白の英雄』」
「……何だ、懐かしい呼び方だな、それ。ま、もう死んだ称号だけれど」
「あら? 私の中では、まだ死んでいないわよ? あんたは私を驚かせ、私の心を奪い、一方で私を失望させ、そして再度私を惚れさせた男。私の初めての――そして、ただ一人の夫、リュート・シュトレーゼンヴォルフ」
そう夫の名をフルネームで呼ぶと。
さっきのお返しよ、とでも言わんばかりに、姫の唇が、甘く、夫の手の甲へと落ちる。
「また、私を惚れされてくれるわね? また、『あの時』のように」
本当に愛しいと思っているのか。それとも、挑発なのか。
分からないその手への接吻だが、姫はキス出来た事が満足らしい。さらに、その頬を上気させて、魅惑の笑みを夫へと送って見せた。
だが、その一方で、夫の方は妻の言葉に不満があるようだ。また唇を尖らせて、妻へ尋ねる。
「……なんだ、さっきから。『あの時』、『あの時』って。最初の……アレじゃなかったら、何なんだ」
「もう……わかんないの? 二度目の時よ。……あんたの方からしてくれた『あの時』。あのエルダー城の時と、今のあんたは同じ目をしているわ。あの時と同じ、きらきらとした……そして、野心に満ちた目」
その二度目、とやらに、勿論夫の方も心当たりがあるらしい。今まで勝ち誇っていた頬に、ほんのりと羞恥の色が差す。
「あれは、……まあ、何だ。当てつけでしただけで……」
その少しの夫の動揺が、妻には楽しくて仕方がないようだ。先までの厳しい表情から一変して、にやにやとからかいの笑みを浮かべて、牢越しに夫の腕を掴みにかかる。
「それでも、キスはキスだわ。私、ああいうキス嫌いじゃないわよ? むしろ、ああいう強引なの、好きだから。……ほら。今だって、キスしたっていいのよ? 素敵じゃない? 鉄格子越しのキス」
「……女帝になるまで、キスはしないって言っただろ。さっき手にしてやったんだから、我慢しろよ」
「あら? 当てつけのキスでいいのよ? ほら、エルダーでしたみたいに、ぎゅっと抱きしめて、ぶちゅっと……」
「ふうん、当てつけね……」
妻のその言葉尻を捕まえると同時に。
夫の目が、悪戯げに、きらりと光り、掴まれた右手とは反対の左手が、素早く動いた。
「……え?」
その動いた左手の行き先。
それは、思わず声を漏らした女、サーシャの細腰で。
「りゅ、リュート様?!」
まるで恋人がするかのようにがっちりと、そして、ぴったりと、その身体ごと男の胸に抱き留められていた。
サーシャにとっては、まさに、夢にまで見た王子様との抱擁……なのだが、この環境でそんな甘い夢に浸れるはずもない。
何しろ、正面には……。
今にも飛びかかりそうな蛇に似た様相の、……恐ろしい本妻が、いるのだから。
「――はあ? 一体、どういう事かしら? その妾ちゃん、抱くとか」
「どうもこうもないさ。もし、僕が将軍を救い出しても、お前がまだこの国でぐずぐずしているようなら、クーデターは失敗して、お前は処刑されるな。そうなったら、僕は、晴れて寡夫だ。さっさと、再婚することにする。勿論、……同族の女とな。別にいいだろ? そもそもお前が、僕に妾を宛ったんだし」
勿論、この姫を煽るために言っているのだろうが、思わぬ言葉と男の腕に、サーシャの身体が、一気に熱を帯びる。
……まさか、この人が、再婚とか言ってくれるなんて。
もし、姫様が失敗して殺されちゃったりなんかしたら、私が、私が……。
だが、それも、一瞬。
正面からくる威圧感に、乙女の夢は、跡形もなく。
「はぁああ? 覚えてないの? あんた、浮気したらどうなるか? いつだったかの夜に、もし浮気したら、相手の女の腑で、あんたをどうしてやるって言ったかしらねぇ?」
……粉砕。
いや、粉砕どころか、それを踏みつぶして焼き尽くしてやろう。
……そんな執念まで、感じるほどに、牢獄内の女が纏う空気は、恐怖に充ち満ちていた。
「じゃあ、さっさと自力でそこから出てこい、エリー。ついでに裏切った奴等の後始末付けて、約束した相応しい女になって、僕の前に現れな。僕に浮気されたくなかったらできるだろ? 未来の女帝さんよ」
「いいわ。やってやろうじゃないの。その代わりねぇ……」
そう姫が言葉を句切ると同時に、掴まれていた夫の右手が、さらに牢獄に引き込まれて。
「――い、痛っ!!」
突然、腕に激痛が走る。
見遣ると、そこには、まさに唖然とする光景、と言ったらいいのだろうか。皇帝の妹ともあろう女が。
「馬鹿かっ! お前、何、人の腕に噛みついてるんだ、エリー!!」
その言葉通り、ありったけの力を込めて、……がぶり、と、夫の右腕に齧り付いていた。
当然、腕には真っ赤に歯形が残っており、堪らず、夫がその傷跡にふうふうと息を吹きかける。
「お前、どういうつもりだ! 夫の腕噛むとか、馬鹿か! お前、馬鹿か!!」
だが、その罵倒にも、牢の中の女は一向に意に介していないようだ。いい味見をした、とばかりに、ぺろり、と舌なめずりして笑う。
「……はん。次会うときは、あんた絶対喰い殺してやるからね。覚悟しておきなさい」
「…………おお、怖。やっぱり男を喰らう雌蟷螂の娘は、同じ雌蟷螂か。……胸くそ悪いっ! 行くぞ、サーシャ! じゃあな、糞嫁!!」
「あっ! リュート様! ちょ、ちょっと待って下さい! 私を置いていかないでくだ……」
耳飾りを懐にしまい、用は済んだとばかりに、さっさと牢を出て行く男の後ろを、サーシャが追いかける。
……これ以上この場にいては、身が持たないわ。早く、何とかしてこのド修羅場から逃げ出さなければ――。
と、サーシャが全速力で、牢から出ようとした時だった。
「ねえ、サーシャさんと仰ったかしら」
後ろから、恐怖の声と、そして彼女の背の羽に向けられた刺すような視線が送られる。
勿論、サーシャに、振り返る勇気など有りはしない。首一つ動かせず、脂汗まみれでやっと、……なんでしょうか、姫様、とだけ、言葉を絞り出す。
そして、案の定、と言うべきか。さらに返ってきた言葉は、予想以上の妖気を纏った……呪詛で。
「うちの主人が、しばらくお世話になりますね。どうぞ、くれぐれも無理はなさらないで、御自分のお体、労って下さいましね。特に、内臓は大事ですものね、内臓は。うふふふふふ」
涙目で、逃げ出す以外、……ない。
「リュート様の馬鹿ぁあああ! あ、あんな修羅場、私もう、無理! 無理! 殺されるから! 絶対原型留めて死ねないから、私!!」
牢から出て、しばらく飛んだ先の草原で、ありったけのサーシャの嘆きが木霊する。
しかし、この慟哭の元凶となった男は、それをまったく気にも留めていないようだ。変わらずあっけらかんとした調子で、慰めなのか何なのか、よく分からない言葉をかけてくる。
「大丈夫、大丈夫。要は僕と浮気しなきゃいいんだから。安心しろ。僕は君にキス一つする気、ないから」
まさに傷口に、塩を塗るとでも言ったらいいのだろうか。しかも、この男ときたら、笑顔で、ごっしごしと擦り込んで来るのだから、堪らない。
「ひ、非道いっ……。だ、大体、どうするんですかっ! 本当に、姫様の方もここから自力でクーデターに加わる事なんて、出来るとお思いなんですか? もし、彼女がこのまま処刑されたら、女将軍を助けたって……」
「――やるさ」
さわさわと風に揺れる草の音に乗せて、その一言がサーシャの疑念を吹き飛ばす。
「え?」
「あの女はやるさ。あの女はな、そういう女だ。何しろ――」
……さわり。
気持ちの良い風が、羽の間を通り抜けて。
「あれは、……僕を蹴り倒した唯一の女だからな」
気にくわないと言いたげな、だが、どこか自信の色を覗かせた声が、草原に溶ける。
「リュート様を、蹴倒した……? あ、あのっ! それ、一体何の事で……」
慌てて、サーシャが詳細を問おうとするが、答えは男の口から返ってこなかった。目の前で、ばさり、と大きな白い翼が広がるや否や、草原の青い空へと、男の姿が吸い込まれていく。
「さ! サーシャ、これから忙しくなるぞ! ほら、君も付いてきて!」
まったく、この状況でどうしてそんなに明るく笑えるのか。理解出来ないと落ち込みつつも、その言葉に促されるように、サーシャは背の翼を開かんとする。
だが、心なしか、その羽が重く感じられて。
すぐには飛び立てない。
彼女の羽を――、いや、心を重くしているものが何なのか。
サーシャには、よく、分かっていた。
夫婦が、互いに互いを評した、あの言葉。
あの、同じ言葉がどうしても、心に重くのし掛かって――。
――『こいつはね、……』。
――『あの女はな、……』。
「……なによ、馬鹿夫婦」
思わず、小さく、悪態が口をついた。