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第百六話:背信

「た、逮捕ですって……?」


 突然届いた知らせに、楽しい会食の場は一転。一気に騒然とした空気に包み込まれていた。



 草原の国パルパトーネに、エリーヤ姫一行がやって来て数日後に、開かれた歓迎の為の昼食会。

 その席で、王ル・パイタン、第二王子ル・ポイキオ、その家臣数名、そしてエリーヤ姫と彼女の夫が、パルパトーネの珍味を前にして、話に花を咲かせている時だった。


 この食事会にて、給仕の役目を買って出ていた元女奴隷サーシャの耳に、ふと、遠くから尋常でない風切り音が届いたのだ。


 あの風の国を離れて久しいとは言え、サーシャも風と共に生きる有翼の民の女である。こんな風切り音を立てて飛行するなど、きっとただ事ではない――。そう思い、すぐに給仕の手を休めて、パオの外に出てみた。

 すると。


 ――どしゃり……っ!!


 鈍い音と、激しい土煙をあげて、目の前の草原に、一人の女騎士と彼女の飛竜が、突然、墜落したのだ。


 一体、何が起こったのか。

 すぐには理解出来ないサーシャだったが、目の前で血を流す女騎士を放っておけるはずもない。即座に駆け寄って、彼女の身体を抱き起こした。

 そして、サーシャと目が合うや否や。その女騎士は、口の端から血を溢れさせながらも、なお、しっかりとした口調で、衝撃の言葉を紡いだのだった。


 ――『ミーシカ・グラナ将軍、捕縛』、と。





「どういう事?! セリエ! 説明なさい!!」


 無論、この女騎士からもたらされた衝撃の一報に、一番の動揺を見せたのは、当の女将軍の娘だった。パオに収容される女騎士の手当もそこそこに、詳細を問わんと食って掛かる。


「お、お母様が……、ガイナスに、……いえ、元老院とお兄様の命令で逮捕って! 一体、どういう事よ!」


「も、申し訳ございません、姫様!! 私たちが付いていながら、閣下を……! そ、それが、あのガイナスめが、何故か、あの秘密の調印書類を持って参りまして……! 閣下も我らも抵抗しましたのですが、なにぶん深夜の突然の事……。私も一度暗黒騎士団に囚われたのですけれど、グラナ閣下が、姫様にお知らせするようにと、身体を張って私を逃がして下さいまして……」


 おそらく、激しい暗黒騎士からの追撃にあったのだろう。女騎士と彼女の飛竜の傷が、その戦闘の激しさをありありと物語っていた。

 このセリエという将軍の側近は、男にもひけをとらぬ手練れである。それがこれだけの痛手を負う、ということは、つまり……。

 想像される事態に、姫の眉間に深い皺が刻まれる。


「そ、それで、お母様と、大森林にいた第三軍は……」


「私も逃げて参りましたので、現在の様子は分かりませんが、ガイナスの話では第三軍は暗黒騎士団の統治下に置き、……閣下は、帝都に連れ帰って、……その、元老院で裁判に掛けられ、……処刑するつもりであると……」


「帝都で……、処刑ですって?!」


 帝国で、処刑と言えば、何を指すか。分からぬ姫ではない。


 ……おそらく、帝都の民の前での公開火刑。

 きっと、元老院も皇帝も、自分らの地位転覆を謀っていた女を、ただで済ます訳がないだろう。


 その予測が、いつになく赤毛の姫を動揺させたらしい。即座に、真っ赤な目をさらに炎のように光らせて、王のパオから飛びださんとする。


「クーデターを起こす前に、お母様が処刑だなんて、許さないわ! ティータ、控えているわね?! すぐに、待機している紅玉騎士団、全員を呼んできなさ……」


「お待ちなさい、エリーヤ姫」


 だが、その滾る姫を、落ち着いた壮年の男の声が引き留める。


「おじさま……」


 声は、パオの最奥からだった。

 先までの会食で見せていた朗らかな声ではない、一人の為政者としての威厳ある声。


「待ちなさい、姫よ。そう感情的になられるなど……。こちらをあまり失望させられますな」


 さらに、『おじさま』、などと親しげな愛称を一蹴するかのような、冷たい台詞。

 それは間違いなく、――有角の国の王、ル・パイタン。その人のものだった。


「おじさま! 何を仰っているの?! 貴方も同意されたクーデターの一件で、私の母が捕らえられたのよ? 何を今更、人ごとみたいに……」


「人ごとでないから、尚更貴女を引き留めておるのがわかりませんかな、姫」


 その王の言葉と同時に。


「――――っっ!!」


 さらなる不穏な空気がパオに漂う。


「これは、一体どういう事かしら? おじさま……いえ、ル・パイタン陛下」


 苦々しげに姫が呟くのも無理はない。何しろ、彼女が抵抗する間もなく。


「どうもこうも。……こういう、事です」


 控えていた有角の国の家臣達が、まるで、ここから一歩も出さない、とばかりに姫を取り囲んだのだから。

 首筋に次々と当てられる剣の切っ先。それは、先までの友好的な態度とはかけ離れた――。そう、まるでこの王の二つ名である『草原の狼』の牙を思わせるほどに鋭く、姫の喉元に食い込んでいて。


「……困りましたな、姫。どうやら、あなた方の計画は、実行前に早くも破綻したようだ。これは、我が国にとっても実に由々しき事態です」


 極力感情を押し殺した声音で語りかけながら、角の装飾具を、しゃらり、と鳴らして、王が立つ。


「一体何故、こうなったのかは分かりませんが、グラナ将軍閣下が囚われた今、文書に調印した我らも同様に、帝国に徒なす輩と思われるのは必定。これは、現在、属国にある我が国にとって、実に好ましくない事態です。何しろ……、反逆の輩と位置づけられれば、かの獣人の国の様に、ガイナスに国を焼かれるやもしれぬのですから……」


 ……この事、賢明な貴女なら、お分かりになるでしょう?


 そう語りかけて、王が静かに姫の前へと詰め寄る。


「まず、間違いなく、帝国は、グラナ将軍に引き続いて、首謀者として貴女を捕らえるために、この国へガイナスを送ってくるでしょう。そうなった時、もし私が貴女を匿えば、あのガイナスの事です。私の首くらい、一撃で落とすでしょう。悪いが、私と、この国は、そんな未来は――、……お断りです」


 分の悪い賭けはしない。

 形勢が悪くなったら、多少の犠牲を払ってでも、賭けは降りるものだ。


 毅然と、王の視線は、そう主張する。

 そして、周囲の側近に目配せをし、互いに無言の内に頷きあい、姫への最終通告を口にしてみせた。



「悪いが、姫。……貴女との同盟は決裂した。我ら、草原の国パルパトーネは、貴女を人質にして、帝国に許しを請う」


 ……そして、その見返りに、あの同盟に捺印した事実を帳消しにしてもらい、草原の国だけは、帝国からの追求を逃れるつもりである、と。


 それが、王とその側近達が即座に出した、満場一致の答えだった。

 だが、それに対して、この女がうんと言うわけもない。口元を歪めて、挑戦的に王の言葉を一蹴する。


「……ここまで私達と一緒に来ておいて、何を馬鹿なことを。今更、私とお母様を裏切るなんて許されると思うの? ほら、ぼーっとしてないで、ポイキオもこの馬鹿なお父上に何とか言ってやりなさいよ! そもそも、誰よりもあの愛酒連合に、この国が調印することに賛成したのは、ポイキオ、あんたでしょうに」


 長きに渡る友好関係と、そして、一度は共に見た未来。それを思い出させるように、姫はその目を有角の国の王子へと滑らせた。

 だが、彼はその顔を合わせようともしない。のみならず、軽薄な顔に笑みを浮かべることも、いつも愛を囁いてきたその口を動かすことさえもせず。ただただ、ばつが悪そうに、俯くだけで。


 見事に、姫の期待を裏切っていた。


「すまぬね。我が息子、ポイキオも私と同意見の様だ。何しろ、我ら、草原の国はめぼしい武力を持たないのだからね。それ故、こうやって生き延びてきたのだよ。常に時流を見ては、強いものに靡き、裏切ってね。……これが我らの処世術だ。悪く思いますな、姫。……さ、皆の者、連れて行け」


「……姫様!! この無礼者共! 属国の分際で姫様にお縄を掛けようなど、なんたる仕打ちか!」


 連行されんとする姫を助けようと、姫のお付きの少女騎士ティータが動く。だが、入団したての少女一人の力が、数人の男達に敵うはずもない。


「――きゃっ!!」

「ティータ!!」


 あっけなくはじき飛ばされて、主人の腕に錠が掛けられることにすら、抵抗出来なかった。




「姫。……帝国の迎えが来るまで、……どうぞ心安らかに過ごされませ」


 その手に錠を掛けられ、連行されていく姫の後ろ姿に、流石に哀れを感じたのだろうか。王が、最後に姫に向けて、敬意のこもった声をかける。

 それに対して、姫の方は、王に振り向きすらもしない。ただ、捕縛された身とは思えぬ程に、堂々とした背筋を王に向けて、答える。


「……そ。これが、貴方達の出した答えね。ならば、よろしい。……でも、一つだけ言わせて貰えるかしら? ル・パイタン」


 ここに来てもまったく怯まぬ姫の態度に、些か気圧されながらも、王が問う。


「何でしょう……、姫。最後のお言葉としてなら、賜りますが」


 ……所詮は、小娘。

 母である女将軍の権威あってこその、担がれ人形に過ぎない。

 それを裏切った所で、一体、何の不利益があるものか。


『草原の狼』と謳われる王が、内心で、そう侮りたかった女。

 その姫が、去りゆく背中で語った言葉。それは。


「牙を無くして、尻尾を振る事を覚えた狼なんて、芸のない愛玩犬以下ね。……さて、その牙無しが、これから、どこまで自分の群れを守れるのか……、楽しみだこと」









「姫様! ……姫様!!」

「あ……! や、やっぱり、待ってくれ! 姫!!」


 連行される姫の言葉を受けて、やはり彼女に何か言いたいことがあったのだろうか、少女騎士のみならず、有角の国の王子までもが、彼女の後を追って、席を立つ。

 その一方で、残されたパオでは、姫を帝国に売ると決意した王も、やはりどこか後ろめたさがあるのだろうか。反論の言葉一つ口にしない。加えて、家臣達も王にかける言葉もなく、口を噛みしめているだけとあっては、パオの空気がどんよりと濁るのも、無理はない。


 だが、その中で。


「………………」


 給仕どころでは無くなってしまった元女奴隷サーシャの額に、たらり、と一筋の汗が伝う。


 何故ならば。


 異質なのだ。

 冷や汗をかくほどに、この暗い雰囲気の空間で、ある一角の空気だけが異様に違うのだ。


 ちらりと、彼女が視線を滑らせた、その先。


「あ、このお茶、美味しい」


 そこには、この鬼気迫る空気の中で、一人だけ、余裕たっぷりに、茶をすすっている男の姿。

 しかも。

 短く切られた金髪を、くりくりといじりながらの、この台詞。


「あーあ……、それにしても、僕、困っちゃったな。奥さん、連行されちゃったし」


 だが、言葉とは裏腹に、その目は一切困ってなどいない。……加えて。


「それで……、どうなるんでしょう? 王様。僕の奥さんが捕まえられたってことは、連帯責任で、僕まで帝国に差し出されるんでしょうか? ああ……、僕、無理矢理婿にされただけなのに……」


 この、猫かぶりである。

 もう、騙されるサーシャではない。……が、どうやら、免疫のない有角の国の王は、潤んだ碧の瞳にころっとやられたらしい。


「いや……、君の事はポイキオから聞いているよ。確かに、姫に強制的に結婚させられたそうだね。加えて、関係のない異民族の君が、こんな事に巻き込まれて、さぞかし辛かったろう。同情するよ」


 先までの厳しい表情から一転して、小動物を愛護するようなこの微笑みである。


 完全に。

 そう、このうるうるとした子猫の様な眼差しに、……完全に。


 ――騙されている……!!



 だが、サーシャがそうおののく先で、尚も茶番劇は続いていて。


「ほ、本当ですか? ああ、陛下! 感謝致します! 僕、有翼の国から戦利品としてこの大陸にやって来て、ずっと、皇帝にもあの姫にも酷い目に遭わされてきたのです。同じ民族の女達を、姫に助けられている以上、表だって姫に逆らうわけにも行かず、ずっと仲の良い夫婦としてやってきました。でも、いくら恩があるとはいえ、祖国を踏みにじった帝国人と、心から愛し合えるわけもなく……」


「ああ、分かるよ、有翼の民の王子。我らもリンダール人には、ずっと酷い目に遭わされてきたからね。その中でも、あの姫と女将軍は話が通じる良い人物だとは思っていたが……。こうなってしまったら、我が国の為には、背信者の汚名を着るより他にないのだ」


「陛下! そんな背信だなんて! 真の裏切り者は、愛酒連合の事をガイナスに教えた者でしょう?! 陛下は悪くありません!」


 ……そう、真の裏切り者は、帝国にクーデターの証拠を流した者。


「ああ、一体、誰でしょうね? そんな酷い事をする者は。おそらく、あの調印式の時にいた誰かでしょうか……。ええと、あの場にいた者、僕、思い出してみますね」


 一体、誰がその真の裏切り者なのか。


 サーシャは、知っている。

 いいや、正確には、今、悟ったというべきか。


「ねえ、陛下。やはり、獣人の王でしょうかね? それとも海の民の国家元首か、或いは……」


「リュート様。ちょっと、……よろしいですか?」


 人生で、最大級に引きつった笑み。

 まさか、こんな場所でそれを顔に浮かべようとは。サーシャは、思いもしなかった。


 ……そう。この男に、会うまでは。








 ――そうよ。あの時までは。



 男の手を引き、彼ら夫婦のパオへと身を隠すその先で、サーシャは忌まわしい思い出を振り返っていた。


 ……そう、あの日までは。

 私、ずっと、ずっと夢を見ていたわ。


 故郷から奴隷としてこの大陸に連れてこられても。

 そして、強欲市長に売られ、不自由な暮らしを強いられても。


 いつか、王子様が現れて、私をこの不幸な境遇から救い出してくれるって。


 そうよ。

 その王子様は、賢くて、美形で、優しくて。いつだって、きらきらとした笑顔を浮かべていて。常に私を惚れ惚れとさせてくれるような言葉を、その口から紡ぐの。


「……あー、ちょろかった」


 そうよ。

 けっして、こんな酷い言葉なんか口にしない。


「まさか、有翼の国の王様にも効いた僕の泣き落としが、ここの王様にも通じるなんてさ。どこの国の王様も、ちょろいよね。やっぱ、王様ってのは、いいお育ちだからかな。こういうのに、弱いんだよね」


 そう。こんな言葉なんか。

 ましてや。


「にしても、エリーの仕舞い下手はどうにかならないのか。どこに仕舞ってあるか、これじゃわからないじゃないか、あいつのネックレス」


 そう、ましてや、夫婦のパオで、自分の妻の装飾品を漁ったりなんかしない。

 そう決して、憧れの王子様は、こんな風には――。


 だが、サーシャの希望は見事に裏切られ、自分を救い出してくれた王子様は、出会った日から今現在まで、見事に幻想を打ち砕き続けてくれる。

 確かに、自称王子様だ、とは聞いていたけれど。それでも、貴族の血であることは間違いないというのに。

 ……これだ。


「あ、あった、あった。ま、なんだかんだで、あいつも姫様育ちだよな。こういう無駄な装飾品を、少しは民に還元してから、大口叩けっての」


「……リュート様」


 もう限界。

 これ以上、黙ってはいられない。


「あ、サーシャ、知ってるか? あの嫁が貿易都市で散財した額。あれで、一体四人家族何日分の家計が――」

「そんな所帯じみた話をしたいんじゃありません!! 貴方、一体、どういうおつもりですか!」

「え? 一体、何の――」


「とぼけないで下さい! ……貴方なんでしょう?! 姫を……、いえ、御自分の妻を、――帝国に売ったのは!!」


 極力、外に漏れぬよう配慮はするが、かなり激しい口調で、サーシャが、核心を突く。

 だが、相対する男はと言うと。


「うん。そうだけど。……やっぱり、君にはわかっちゃった?」


 満面の笑みで、今度は、あっけらかんと肯定。

 まさに、何が悪いの?、とでも言いたいような態度なのだから、始末に終えない。


「わ、わかりますよ、そりゃあ! 私が、どれだけ貴方の言うこと聞いてきたと思ってるんです?! あの闇商人ヒルディンですね?! 何日か前に彼に渡したあの書簡。あれを使って、帝国に情報を流したんでしょう?!」


「はい、正解。よくできました。サーシャ、君、案外察しがいいね」


 ここまで来たら、察しが良いも悪いもない。この男のあまりの為し様に、さすがに、サーシャも堪忍袋の尾が切れたらしい。襟首つかんで、食って掛かる。


「なんてことなさるんですか、貴方はーっ!! 無理やり結婚させられたとしてもですよ? 御自分の奥様でしょう? それをあっさり裏切って! そ、そりゃ、私だってあの姫様の事好きじゃありませんけど……。それにしたって貴方がこんな事するなんて、失望しました!!」


「は? 一体、君は、僕に何を期待してるんだ? 僕が、清く正しい理想的な王子様だとでも? と言うか、勝手に期待して、その期待にそぐわなかったら、がっかりするとか言われても、困るんだけど」


 本当に、容赦なしのこの台詞。確かに今までも、見事に乙女の幻想を砕いてきてくれたこの男だけれど、それにしたってこれはあんまりだ。

 少しくらい、夢を見せてくれたっていいのに。


 だが、そんな乙女の願いもこの男には一欠片も届かないらしい。懐に妻の首飾りを仕舞いながら、だからどうした、と言いたげに、どっかりと寝台に腰掛ける。


「そもそも僕はな、あの嫁の旦那になる為にこの国に来たんじゃないんだ。僕がこの国に来た理由。それはただ一つ――」


 そう言葉を区切ると同時に、先までの不貞不貞しい様相からは一転。

 碧の瞳が、すうっと、鋭い光を帯びる。


「僕がこの大陸で為してくる、と祖国の友に約束した事柄。それは、――『あの有翼の国への侵攻を止めさせる』。その一点のみだ。結婚も、クーデターも、同盟も、まったくに興味がない」


「し、侵攻を……、ですか?」


「そう。君は祖国を離れて久しいから詳しいことは知らないだろうが、未だに祖国のイヴァリー半島南部は帝国支配下に置かれている。現在、雪に閉ざされている有翼の国では、一旦戦争は休止しているが、じきに春になり、雪が溶ければ、前任のサイニー将軍に代わり、暗黒騎士ガイナスによって、再び戦線が開かれる予定だ」


 サーシャの知らぬ、今の祖国の状況を語った男のその横顔は、先までの顔から一変して。

 まさに、惚れ直す、と言ったらいいのだろうか。目も離せぬほどに凛とした、――まさに、一人の戦士の顔で。

 思わず、サーシャの頬が、ぽっと熱を帯びる。


「ここまで言えば、もうわかるだろう? サーシャ。いいか? その春の遠征を利用せんと企んでいたのが、忌々しいあの蟷螂母娘だ。あの母娘は、何食わぬ顔をして大森林に居座り、何も知らぬガイナスが春に北の大陸に渡るのを待っているつもりだった。そして、強敵である彼の留守を狙って、帝都を制圧し、現皇帝に成り代わらんとしている」


「つまり、……私たちの祖国が、姫様のクーデターに利用されようとしているってことですか?」


「そう。そんな事、この僕が許さない。あの国には、僕の戦友達が、そして家族が待ってくれているのだから。僕の妻は、クーデターに協力した暁には、休戦しても良いと言ったが――、あの糞嫁の戯言なんぞ、誰が信用出来るか。大体、クーデターが成功するまでに、一体何人の同胞が、ガイナスに殺されるかわかったものじゃない。それを、悠長に指くわえて待っていられるものか」


 まさに、忌々しい、と言いたげに、男の眉間に、深い深い皺が寄る。


 あの商業都市で出会って以来、見たことのないこの男の顔。

 怒りと、憂いと、そして……深い愛に満ちた横顔。


 ……これが、祖国での、本当のこの人の顔だったのかしら。


 そう思うと同時に。

 何故だろうか。心が、何かにぎゅうっ、と締め付けられるような、そんな感覚をサーシャは覚えていた。


「……それで、私にヒルディンを呼びに行かせたんですね。この大陸に独自の情報網を持つ小人族の彼なら、こっそりと皇帝側のガイナスに情報を届けることも可能ですし――」


「ご名答。もうすぐ訪れる春の侵攻を、一旦回避させたいと僕は考えた。その為には、ひとまず、僕らの国に向けられているガイナス率いる帝国第一軍の矛先を、どこかに向けさせたい。それをするにはどうしたらいいか。答えは簡単さ。足元揺さぶってやればいいんだ」


 確かに、足元である帝国内で、密かに謀られているクーデター計画。その証拠を突きつけてやれば、第一軍も遠い北の国で、聖地回復のための戦争に行っている場合ではなくなるだろう。

 思いも寄らなかったこの男の考えに、また、たらり、とサーシャの額に汗が流れる。


「そ……、それで、ヒルディンに調印書という証拠を持たせて、ガイナス将軍を動かせたのですか。確かに、女将軍とその娘によるクーデター計画の明確な証拠となれば、帝国も海外遠征などという馬鹿な真似はできませんものね」


「……そう。あの皇帝も、自分の妹を大いに嫌っていたからな。心のどこかで、妹に不審を抱いていたんだろうよ。そこに付け込む明確な証拠があれば、あの短気な皇帝のことだ。すぐに動くと思っていた。例え――、それが、それらしく作った偽物の調印書であったとしても、だ」


「呆れた……。よく調印書が盗めたものですね、と思っていたら、そういう事でしたか……。文書の偽造までするとか、ああ、本当に、貴方って方は……」

「……ふん。僕を婿にして、飼いならしたつもりなのか、手の内をべらべら喋るあの母娘が悪いのさ。所詮、異国人、この大陸では何もできないはず、とでも侮っていたんだろうが」

「甘く見ていた……。それはそうかもしれませんね。でも……」


 証拠を流して、第一軍の矛先を女将軍に向けさせたのは良い。だが、それから先はどうするつもりなのか。

 考えあぐねた末に、サーシャが尋ねる。


「でも、このまま女将軍と姫様が捕まって処刑され、それに同調した諸国も処罰されれば、再度、第一軍の矛先が、有翼の国へと向くんじゃありません? クーデターが計画されていたことが明らかになったら、皇帝の権威にも傷が付きますし……。また、躍起になって聖地回復なんて事をして、皇帝の名誉を復活させる、などと考えなければよろしいですけれど……」


 口にするだけ、おぞましい未来。

 だが、この目の前の男が、それを考えぬはずもなかった。


「そう。僕としても、このままあっさり奥さんが殺されちゃったら、困るんだよなぁ。だから――」


 だが、その返答は、これまた訳がわからない。懐に入れたネックレスを取り出して、にっこり、笑んでくる。


「今から、これを持って奥さんに会いに行くんじゃないか」


「……は? それ、もともと姫様のものでしょう? 何で、それを……。それに、今は姫様監禁されていて……」

「地獄の沙汰も金次第ってね。ま、いいから、いいから。君も付いてきて。あ、それから」


 一体、どうするつもりなのか。

 分からぬサーシャの手に、男の手が、優雅に差し伸べられた。それこそ、まさに、夢に見た金髪の王子様に、舞踏会へと誘われるように――。


 だが。

 その誘い文句は、これまた不可解かつ、不吉なもので。



「以前、僕にはあまり近づかないほうがいいよ、とは行ったけど、撤回だ。先に、謝っておく。――これから、君には苦労をかけるね、サーシャ」



 ……ああ、私の未来が、思いやられるわ。


 そう呟いて、サーシャはがっくりと肩を落とすより、他になかった。




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