第百二話:書簡
百一話、百二話の同時更新です。百一話をお読みになっておられない方は、先にそちらをお読み下さい。
「呆れた。本当にそんな約束、なさったんですの?」
聞かされた事の顛末に、元観賞用の女奴隷サーシャは、その口をもう開け放すしかできなかった。
大森林エントラーダの首都エントラの一角に設営されたリンダール帝国第三軍の宿営地。その中の小さな天幕の一つの中で、秘密裏に再会した恩人を前に、サーシャの頭は、もう破裂寸前だった。
何しろ、数日前、突然に『交易都市まで帰って闇商人を連れてこい』と命令され、やっとの思いで、都市から再びここに帰ってきたというのに、いきなりのこの話だ。そう、……つまり、この、目の前に座る金髪の男とその妻、夫婦二人の中で交わされた、訳の分からぬ『契約』とやら。
――『条件を果たせば、一生の男として愛してやる』。
この金髪の男に助けられて以来、密かに恋心を抱いてきたサーシャである。当然、この無謀な契約の内容に、納得出来るものではない。思わず、眉根を寄せて、男を責めるように見遣ってみる。
だが、当の男の方はと言うと、そんな女の内心に一切気付かぬどころか、表情一つ動かすこともしない。……のみならず。
「ん? したさ。僕の妻は僕にどうしても愛して欲しいそうだから。丁度いいと思ってな。あの妾達の命の代わりに、いくらでも『愛』くらい、ささやいてやるとも」
サーシャの呆れとは正反対のあっけらかんとした声音。加えて、王子様然とした偉そうな姿で、一人ふんぞり返って女を迎えるというこの姿だ。
確かに、絵になるくらいの美形で、女なら誰しも惚れてしまうだろうと思わせる容姿なのだが、それにしたって、サーシャにはこの男という生き物が理解しがたい。何と言っても、この信じられない言葉と、態度である。
「うん。ここのところ、色々と考えてみたんだがなぁ。幸いにして、僕にはどうにも、愛だとか、恋だとかそういう感情が無いらしい。だから、いくらでもそんなの口先で囁いてやれるさ。ああ、良かった。訳の分からん女の執着心なんか、理解するに値しないからな。分からない方が、人生ずっと楽だ。な、そう思わないか、サーシャ」
このように、女の淡い期待を、一分の憐憫の情すらなく、見事に一刀両断。
目の前に好意を寄せる女がいるというのに、一体どうして、この男はこんな態度が取れるのか。どうにも、この男に顔と才能を与えた神様は、男女の機微が分かる神経は与えなかったらしい。
この清々しいまでの女心への冒涜に、旅の疲れも重なって、サーシャはがっくりとその肩を落とした。
「……もう、まったく。そんな心を安売りしてどうするおつもりです? いつか交易都市でも私、言いましたでしょう? 『地位とかお金で人を好きになるんではない』って。そんなに、恋愛って簡単なものじゃないんですのよ、リュート様。姫様だって、ただ単にあなたが好みの美男子だから執着されているのでは無いと思いますわ。これ、私の女の勘。よく当たりますのよ」
暗に、自分も貴方が王子様で美形だから、お慕いしてるんじゃないんですよ、と言いたげなそのサーシャの台詞。にも関わらず、当の男は変わらぬ態度で、悠々と自分の顔を指さして、答えを返す。
「そんなの知らない。僕にしてみれば、こんなの産まれたときから乗ってる顔だ。それを他人が好きでも嫌いでも、僕には関係ないし、それ以外のものが好きと言われても、よく分からない」
「……んま……。本当に、あきれ果てますわ。姫様の事だって、そんな風にしか思っていないのに、一生の男になってやるなんて約束して。いいですか? 一生、ですよ? 一生! もう、まったく……。リュート様、貴方、姫様の事……、本当に……」
そう言い淀む女の台詞に、流石にこの彫像のような男も、その先の言葉を察する事が出来たらしい。また、いつもの何食わぬ顔で答える。
「ん? あの女の事が好きでもないのにってか? うん、はっきり言うが。僕、あの嫁、大嫌いだ。今も、これまでも、……多分、これからも。愛する自信は、砂一粒ほどもない。だけど、『愛しているよ』くらいは、いくらでも言ってやれる自信がある。何故なら、嫌いだから」
訳の分からぬ、だが、自信たっぷりで語られるその論理。これに、再びサーシャの口から深いため息が漏れる。
「嫌いだから、『愛している』なんていくらでも言える……ですか。もう、何て人……。私、あの姫様の事、好きにはなれませんけれど、同じ女として、少々同情しますわ。ええ、私と同じ……」
……貴方に惚れてしまった女として、ね。
言いたかったその台詞をサーシャは、女のプライドからか、その喉奥へとそっとしまい込む。だが、当の男はそんな女の心の動きには、とんと気付いていないらしい。また、いつもの不敵な笑いを浮かべながら、余裕の声音で答えてきた。
「一生側に居てやるとは約束したが、それはあくまであの女が非の打ち所がない女帝になった時の話だ。あの女がそんな為政者になれるタマだと思うか、サーシャ。……思わないだろ? よって、僕が一生あの女に繋がれる男になることはない。今だって、そうさ。あの女がちっとも夫婦の天幕の中を片づけないもんだから、呆れて出てきてやったんだ。ああ、嫌だ、嫌だ。掃除一つ出来ない女なんて」
その言葉から察するに、夫婦二人の天幕の掃除について、この男、どうにも妻と一戦やり合ったらしい。だが、その喧嘩のおかげで、この男とサーシャは、こうして秘密裏に会うことが出来ているのだ。犬も食わぬと言われる夫婦喧嘩もまんざら、無駄ではなかったと言えよう。
だが、それにしたって、サーシャには、この男の心理が不可解に過ぎる。さらに、顔をしかめて、問いを重ねるしかない。
「では、どうして、そんな契約をしたのです。貴方が心を安売りするつもりも、姫様の事を信用してもいないなら、一体何故……」
「確かに、あの女を心底信用はしていない。……してはいないが、あの女のプライドの高さだけは信用している。だから、言質をとったのさ」
「……プライド? 言質? 一体、何の事です?」
返ってきたのは、やはり、この男にしか分からないような答え。
ここまで来ると、流石にサーシャも、諦めて、この男を信用するしか道はなかったようだ。……ええ、もうお好きにしてくださいな、と呟いて、その腹を括る。
「それにしても、貴方に助けて頂いてから、私、人生が逆転したようです。今までは市長のご機嫌を取るだけの、退屈な日々だったのに。ここに来てからは、もう、まるで大きな波に揉まれているようで、息をするのがやっとですわ。……はあ」
と、相対する男の性格に嫌気が差したように、サーシャが三度目の溜息を付いたその時だった。
「……馬鹿っ! サーシャ!! 息が出来ないのはこっちだ!! いいからさっさと我が輩をここから出さんか!!」
彼女の足下に置かれた旅行用の大きな荷袋の一つから、甲高い男の声が響いた。と同時に、荷袋がまるで意志を持った生き物になったかのように、ごそごそと蠢く。それは、まるで布袋のお化けといった滑稽な様相で。
「あら、ヒルディン。貴方の事、すっかり忘れて、リュート様と話し込んでしまっていたわ。ごめんなさい」
「ごめんなさいではないわっ!! この闇商人、ヒルディン様を荷物扱いとはいい度胸だ! こっから出したら、ぼったくってやる!! いいから出せ出せーーーっ!!」
「……酷い目に遭ったぞ、有翼人の男よ。この落とし前、一体いくらで償って貰おうか……」
荷袋から這い出して、開口一番、小人族の闇商人が、愛用の算盤をばちり、と弾く。
あの交易都市で会った時と寸分違わぬ丸眼鏡の奥の商魂逞しい目つきに、子供ほどしかない小さな体躯。だが、その小さい身体も、流石に荷袋の中に入れっぱなしにされたのは、窮屈だったのだろう。算盤と一緒に、ごきごきと全身の関節までも鳴らしてみせる。
「まったく、我が輩、いつものように交易都市で商売に励んでおったと言うに、急にこんな所まで呼び出しおって。加えて、荷物扱いとはな。貴殿、闇商人を舐めておるのか」
甲高い子供のような声で、闇商人がそう詰め寄るも、呼び出した当の本人の方は少しも悪びれる様子はないようだ。その口の端を歪めて、親密げな再会の喜びの台詞を口にする。
「やあ、親愛なる僕の取引先君。また会えて嬉しいよ。ところで、……あの持ち逃げした金髪はもう売れたのかい?」
この言葉には、堪らず、闇商人が唾を飛ばして反論する。
「も、持ち逃げとは失敬な! 我が輩はきちんと頼まれた水や食料を、あの後、酒場に届けに行ったのだぞ? そうしたら、酒場ではマスターや兵士、挙げ句の果てには市長まで死屍累々とぶちのめされておって……。その上、依頼主の貴殿は、忽然と姿を消しておったし……」
「嘘付け。知ってたんだろ? 僕が女将軍に捕らわれたってこと。確か、『闇商人の情報網は、大陸一』だったもんなぁ」
この指摘には、流石に闇商人も同様を隠せなかったらしい。ぎくり、と肩を動かして、さらに金髪の男の追求を受ける羽目になる。
「ああ、でもまずいんじゃないのか? 『商人は信頼第一』だったもんなぁ。金と売れる金髪だけ貰って、商品を依頼人に渡さない、では、お前の言う『信頼』も、失墜するなぁ、ヒルディン。確か、そんな商人は仲間内からも爪弾きにされるんだっけか?」
有無を言わせぬ脅迫の台詞。これに耐えかねるように、ヒルディンの額から、たらり、と汗が流れる。
「……貴殿、覚えて無くていい台詞をよう覚えておるな。ああ、くそっ。分かった。我が輩を呼んだと言うことは、あの食料やらの代わりに何か欲しいんだろう。言え。用意してやる。勿論、秘密裏にな」
「話が早くていいな、闇商人。そうだな、……僕が欲しいのは、一つには、情報。大陸一と言われる君達小人族の情報網なら、色々知っているだろう?」
「情報? 一体、何のだ? 聞けば、貴殿、帝妹の婿だそうではないか。そんな男が、今更何の情報を……」
この金髪の男の身分については、ヒルディンも、交易都市からここまで来る間に、サーシャからあらかた聞かされてはいた。だが、流石にその身分にあるという男の真意が分からないのだろう。思わずそう問い正したのだが、ヒルディンの前には、彼の疑問を払拭するような、ふん、と勢いのいい鼻息が返される。
「確かに僕は婿殿だが、どうにも姑様からは嫌われておるようだし――、それに、嫁さんもまだ、何か僕に隠しているようなんでね。まったく、いつ殺処分されるかも分からん婿養子は、辛いよ。……ま、この肩身の狭さをどうにかするためには、嫁さん達を出し抜かないと駄目ってことさ」
無論、この男の言う姑、そして、嫁が如何なる人物なのか、知らぬヒルディンではない。何しろ、大帝国を支える女将軍とその娘である。本来ならば、こんな一闇商人が本来関わることなど出来ようはずもない女達だ。
その彼女たちに対して、この様な暴言が吐ける婿の存在が、ヒルディンには、実に理解しがたかったらしい。また、たらり、と冷や汗を流して、話を先へと進める。
「まあ……、貴殿の家庭の問題は、我が輩は関わりたくはないが……、一つには、というからには、他にも欲しい物があるという事か?」
厚い丸眼鏡をくい、と直して、闇商人がそう指摘してみせると、男から今度は満面の笑みが返ってきた。
「そ。闇に生きる者は察しが良くていいね。僕が真に望むのは――」
「ちょ、ちょ、ちょっと待て! 貴殿は、偉そうに要求ばかりしてくるが、我が輩はただ働きは御免だぞ! 無償で働く事は、生粋の商人である小人族にとって屈辱以外の何物でもないんだからな。あの金髪と、前払いしてもらった代金は、情報提供代でチャラだ! 我が輩にこれ以上の働きを求めるのであれば、それなりの物を用意して貰わねば――」
まさに守銭奴と言っていい闇商人のその主張。それを遮るように、金髪の男から、何かが、ずい、と彼の目の前に差し出された。
「それなりの金。これで、どうかな?」
ちゃらり、と目の前に揺れる首飾り。
それは、この闇商人なら、一目で上等だと見抜けるほどの見事なもので。特に、細かく細工された紅玉が実に品が良く、かなりの高値がつくと推察される逸品だ。これに闇商人の触手が伸びぬはずはない。
「おおお! これはまた掘り出し物だな! これなら、いい金になる! うん、是非とも我が輩が買ってやる! いやぁ、こんなもの、まさか貴殿が持っておるとは知らなんだ! おお、おお、まさに、この気品、どこかの王侯貴族が持っても遜色のない……」
と、そこまで言って、ヒルディンは、はた、と嫌な考えに辿り着く。
「王侯貴族……? 貴殿、これ、もしかして……」
たらたらと、いつにない冷や汗をかきながらのその問い。これに対して、帰ってきたのは、実に清々しい貴公子の笑みで。
「あ、これ? 僕の嫁の。うん、ちょっと、勝手にパクってきた」
あまりの悪びれない態度に、一瞬、ぴきり、とヒルディン、そして、サーシャの笑顔が引きつる。
この男が嫁と呼ぶ女。それは、即ち。
「……よ、よ、嫁ーーーーっ!! き、貴殿の嫁は、た、確か、帝国のっ!!」
「うん、帝妹エリーヤ様だよ。いいじゃないか、僕ら夫婦なんだから。ちょっと、寝ている隙に、拝借してきた。ほら嫁の財産は、夫の財産だろ? よって、これも夫婦の共有財産だから、僕が売っても問題なし」
「馬鹿ーーーーーっ!! 帝妹の首飾り、闇に流したと知られたら、我が輩、火あぶりにされるわ! 返して来い! 頼むから返してこい!!」
一度買ってやる、と言ってしまった手前、ヒルディンも、今更買えませんとは言いたくないのだろう。涙目でそう要求するも、金髪の男からは、眉根を寄せた無神経な顔だけが返ってくる。
「は? 夫が困ってるのを助けるのは、妻の努めだろ? 僕の為に嫁の装飾品くらい売って何が悪い。大体首飾りなんて、あったって食えやしない。まったく、自己満足の為にこんなものに大金払う女の気持ちが、さっぱり理解できないよ」
どうにも、本気でこの台詞、言っているらしい。
……ああ、この男には何を言ったって無駄なのだ。
この男の不貞不貞しい態度に、ヒルディン、サーシャ共に、がっくりうなだれて、そう呟くより他にない。
「……本当に、もう……。自分の欲望の為に、嫁の持ち物を質草にするなんざ、駄目亭主の鑑だな、貴殿は」
「あははは。駄目亭主、上等。あっちが惚れて、僕を婿殿にしたんだ。こっちは、望まれて婿になってやったんだから、それなりの対価は払って貰うさ」
「対価? 貴殿、一体我が輩に何をしろと……」
嫌な予感に、体中に汗を噴き出させながら、ヒルディンがそう問うと、さらに、男からは、美麗な顔に似つかわしくない、悪魔の笑みが返ってきた。
「うん、大丈夫だ。そんなに荒っぽいことをさせようって気はないから。そう、ちょっと、郵便屋さんをやって欲しいだけさ」
そう言うと、男の懐から、するり、と何かが取り出された。
宛名のない、厳重に封がなされた、一通の書簡。
どうやら、中に何が書かれているか、外からは分からないように何重にも紙が重ねてあるらしい。それを不審げにヒルディンが手にとって見せる。
「貴殿、この書簡は、一体……。それに、郵便というが、一体誰宛に……」
「うん、それは、これから二人だけの内緒話だ。ああ、サーシャ、お疲れだったな。君はもう、ハーレムの女達の天幕へ帰っていていいから」
「えっ……。わ、私は除け者ですか? 私だって、まだ色々とお役に立てると思いますわ。ですから……」
ここまで聞かせておいて、それはない。自分だって、もっと、貴方の側に居たいのに、と言いたげに、サーシャは口を尖らせた。だが、男からは、諦めの溜息と共に、恐ろしい台詞が返って来る。
「君は、僕にこれ以上近づかない方がいいよ、サーシャ。君と僕の間に、あらぬ誤解をかけられでもしたら、大変だ。僕は……、君の腑でこの首を繋がれたくは、ないんでね」
「呆れた。本当にそんな事、仰ったんですの?」
一方、同じ宿営地の別の天幕では、少女騎士ティータの深い溜息が吐き出されていた。
今不在の母キリカに代わって、主人の身の回りの世話を勤めることになったこの少女騎士にとって、主人から聞かされた話はまるで異次元の出来事のようだった。何しろ、ただでさえ、経験浅い十五才という若さなのに、この主人の独特の気性だ。理解しろと言う方がおかしい。
「『浮気したら、浮気相手の女の腑で、旦那様に首輪をこさえて上げる』、ですか……。旦那様との待ちに待った夜だったと言うのに。本当に、姫様、貴女って方は……。今まで貴女のお側で仕えていた私のお母様が、苦労なさるはずですわ」
主人が脱ぎ散らかした服が散乱する天幕の中。
片づけをしつつ、少女騎士がそう小言を飛ばせば、後ろからはいつもの調子で驕慢な声が返ってくる。
「何よ、寝小便ティータの癖して。本当に見た目だけじゃなく、説教の仕方までもキリカにそっくりなんだから。嫌になっちゃう」
「……なっ、姫様! お、おねしょなんて、いつの話ですか、もう! 私、これでも正式な紅玉騎士団の騎士になったんですからね! いつまでもそんな事言うのやめて下さい!!」
だが、このまだあどけない少女が、その母譲りの涼しげな目元をつり上げて怒ったところで、この女主人は一向に構うことはないようだ。その自慢の赤毛を艶々と梳かしつつ、読んでいる本から、目を上げようともしない。
「ねえ、それよりティータ。私のルビーの首飾り、知らない? いつどこでなくしたのか、覚えがないんだけど、探しても見あたらないのよねぇ」
「はあ? 姫様がこんなにとっちらかしたら、首飾りの一つや二つ、簡単に無くなるでしょうよ! どうせ洗濯物に紛れて、今頃干されて居るんじゃありません? ったく、ご結婚なされたのにこれじゃあ、流石に、旦那様も怒って、この天幕には居られないと言いますよ! ええ、浮気されても文句は言えませんからね!」
流石に、片づけても片づけても終わらないこの天幕の散乱ぶりに、嫌気が差したのであろう。少女騎士の口調はさらに剣呑さを増していた。
「ティータ。そんなに苛々しないでよ。何よ、あんた生理中なの?」
「……ま! 将軍閣下だけでなく、姫様まで、そんな下品な事! もう! 最低です! 本当に、もう姫様って方はいつも無神経なんですから! キリカお母様を連れて勝手に有翼の国へ行かれてしまった時だって、そうですし……。それに、あの有翼の国に囚われてしまったロン様まで助けてくれなかったそうじゃありませんか!」
短い茶髪を揺らして、振りむきざまに少女が主人の横暴を、そう詰る。
だが、当の主人の方は、説教よりも、少女が口にした男の名に、興味があったようだ。すぐに、本から視線を上げて、にや、と嫌な笑いを浮かべて、少女に問いを返した。
「あら。何よ、ティータ。あんた、まだロンの事、好きなわけ?」
あまりに直球のその問い。これに、一瞬で、少女の頬が真っ赤に染まる。
「……えっ! ち、ち、ち、違いますよっ! わ、わ、私、そんなんじゃ……」
「ふーん。ま、あいつが良くグラナ邸に来ていた時、あんたにも色々と優しくしていたものねぇ。……にしても、あんたといい、キリカといい、あんたら母娘の男の趣味、悪すぎるわね。ロンとか、狐ちゃんとか、ああいうふにゃふにゃした男のどこがいいのか、私には分からないわ」
「姫様! もう! ……ほ、放っておいて下さい!! わ、私だってねぇ……」
と、少女が傲慢なる女主人に、詰め寄ろうとした時だった。
突然、天幕の入り口の幕が捲られて、低く掠れた声が投げかけられる。
「男の趣味なら、お前の方が悪いであろうが。我が娘よ」
印象的な黒髪を靡かせて、この赤毛の女主人を『娘』呼ぶ、その酒焼けした声の持ち主。無論、言うまでもなく、この第三軍を取り仕切る女傑、ミーシカ・グラナ、その人である。
いつもと変わらず、手には酒瓶を携えて、酒臭い息を撒き散らかして。それでも、女将軍として譲らぬ気品と迫力をも備えているのだから、自分の母ながら、実に大したものだ、と娘は思う。
だが、今は、愛酒連合との酒宴を終えて、賓客をそれぞれの国に帰したばかりである。クーデターの為に、すぐに、動かねばならぬ仕事は、今は無いはずなのに、どうしてこの娘の天幕に現れたのか。疑問に思った娘が問う。
「お母様……、急に一体、何の用で……」
「ああ、娘。ちょっと、お前に話があってな。ティータ、お前は少し席を外しておれ。ああ、それからついでに――」
そう言葉を句切ると、女将軍は控えていた少女騎士にひそひそと何やら命令を下したようだ。それを受けた少女騎士が、……御意に、とだけ言って頷き、そそくさと散らかった天幕を後にして行く。
「……にしても、娘。お前、少しは自分で片づけろ。婿殿に本当に逃げられるぞ、このずぼら嫁め」
残された母と娘だけの天幕。
脱ぎ散らかされた服に、山積みにされた本や書簡の数々……。その内部の惨状に、流石の母も辟易したのであろう。娘に対して、そう戒めの言葉を口にしていた。しかし、この母にしてこの娘あり。負けずに、彼女も反論を試みる。
「何言ってるの。酒瓶転がしっぱなしの貴女の天幕よりましよ、お母様。そんなお小言が言いたいだけなら、さっさと帰ってよ」
「おお、おお、口だけは減らぬの、娘。まあ、よいわ。小言を言いに来たわけではない。……ときに娘よ」
天幕の一番奥に設えられた寝台に腰掛けて、女将軍は持っていた酒瓶にぐびり、と口を付ける。そして、夫婦の寝具を、意味深に一撫でして、しれっと、驚愕の質問を口にして見せた。
「婿殿とは、一晩、どれくらいシておるのだ? ん?」
これには、流石の娘も堪らない。
夫婦の寝台に無神経に腰掛けられるだけでも、腹が立つのに、よりによってのこの質問だ。
「……ほ、放っておいてよ。お、お母様には関係ないでしょ、そんなこと」
どうにも、正直に、……まだ、していません、と言うのは、新妻のプライドが許さないらしい。口を尖らせて赤毛の姫は、そう反論してみせるが、この態度こそが答えを母に語っていたようだ。彼女の口から、はあ、と大きな呆れの溜息が漏れる。
「何じゃ、まだ一度もシておらんのか。寝床は共にしておるのだろう? なのにか?」
この問いにも、娘は無言。
その態度、それ即ち。行為が、一切、ないと言うことで。
「……おい。こう言ってはなんだが、あの婿殿、男として少しおかしいのではないか? ん? 貸してやろうか? 媚薬か性欲増強薬。幸いにして、妾は常備しておるぞ」
呆れを通り越して、哀れみまでも感じさせる、母のこの暴言までも、誘っていた。
「うるさいわね。私は、男関係だけは、貴女みたいになりたくないのよ。私は、私なりにあの男を……」
母の言葉に、堪らずに娘がそう反論を試みる。だが、母からは、先までの調子から一変した、極めて真摯な顔が返ってきた。
「おい、娘。貴様、なにゆえ、あの男にそこまで執着する?」
母からの、その鋭い質問。
これに、一瞬、娘の表情がぴきり、と凍る。
「……いいでしょ、別に。好みの美男子だし。……それに、あの男の才能に惚れている。それだけよ」
誤魔化すように語られたその返答に、対する母は容赦がなかった。ただ一言、娘の内心を見透かしたような問いを口にする。
「あの男が、――異民族だからか」
これに対して、さらに娘は無言。
突かれたくない所を突かれたのか、それとも答えたくないだけなのか。とにかく、目を逸らして、無表情で母の前に座ってみせる。
「娘。……貴様、やはり、貴様の身の上や、この母を恨んで……」
「――関係ないわ」
何か、さらに言葉を紡ごうとした母を遮って、有無を言わせぬ一言が、娘の口から飛び出した。
「ずっと言っているでしょ! 私は貴女や、この身を恨んでなんかいないって。私は、もう決めているの。自分で、自分の人生が如何なるものか、あの時、私はきちんと決めたのよ。私は、全ての事を飲み込んで、『女帝になる』って。今更、それが、あの男に何の関係があるものですか!」
「娘、お前……」
まるで張りつめた弦のように、危うい表情を浮かべて、そう叫ぶ娘の様子に、母の顔に、いつにない憐憫の情が宿る。だが、その母の面持ちがさらに娘の癇に障ったらしい。尚も、口調を強めて、感情をぶつけてきた。
「何よ、その顔! 昔からいつも、哀れまないでって言っているでしょう?! もう、私はずっと前から覚悟は出来ているのだから! 私は、産まれるべくしてこんな風に産まれたのよ! 黄昏の帝国の女帝になるために、私は産まれたの! とうに、覚悟は出来ているわ! だから……」
「……わかった。すまなかったな、娘。妾が……、この母が悪かった」
娘のその怒りの理由も、哀しみの訳も、全て悟ったような母の言葉。その女将軍のいつにない様子に、毒気を抜かれたのか、今まで激高しきっていた娘からも、ふっ、と怒りの感情が消える。
「……え、ええ。ごめんなさい。こちらこそ、怒鳴ってしまって。……いけないわね、女帝になろうという私が、こんなに感情的になってしまっては。……反省していますわ、お母様」
「いや……、妾が貴様に辛いことを訊いたのだ。悪かったな、我が娘よ。『貴様の身の上』については、幾度となく母娘の間で話し合って来たことだと言うのに、蒸し返してすまなかった。貴様があまりにもあの婿殿には執着するので、つい、心配になってな……」
……あれは、今までと違う男のようだから。
兄カイザルとの結婚から逃れるために利用したとはいえ、貴様が、自分の意志で、初めて迎えた婿なのだから。
そう反省の言葉を口にする母の顔は、やはり、どこかほんのりと憂いに帯びていて。
それを払拭したいかのように、娘が、顔に凛とした色を宿らせて、母に対峙する。
「私を信用して下さいな、お母様。私、貴女と自分を裏切ったりは、しないつもりだから。例え、私が惚れた男の為でも」
その言葉が真に意味することが何なのか、この母にはよく分かっていたらしい。目を伏せ、一つ頷くと、目の前に立つ娘に、肯定の言葉を投げかける。
「……そうか。ならば、母はもう何も言うまい。だが……、ただ、一つだけ、忠告だ。我が愛しい娘よ。……恋というのはな、多く惚れた方が、負けなのだ。貴様は、少々、婿殿に心を晒しすぎだ。そこを、つけ込まれなければ、よいがな」
意味深なその挑発の言葉。それを受けて、娘の顔にも、余裕の笑みが戻る。
「あら……。『多く惚れた方が、負け』。それは、御自分の経験からのお言葉かしら、お母様」
「……ま、そうだな。現に、今でも妾は負け続けおるよ。あの、……男にな」
「『あの、男』、ね。……本当に、お母様こそ、男の趣味がお悪いこと」
今までの険のある会話から一転、言い合った嫌味に、母娘が互いに顔を見合わせて、ぷっ、と笑いを漏らす。
だが、母は、ここで、自分が何を訊きに来たか思い出したのであろう。すぐに、笑みをぬぐい去って、真摯な顔で娘に向き直る。
「放っておけ、娘。それよりも、訊きたいのだが――、貴様のところにもまだ帝都のキリカから連絡はないか?」
この問いに、娘の顔からも、今までの笑顔がぬぐい去られた。いつも側にいた女、キリカの異変に、無論、この娘が気付いていないはずはなかった。誰よりも、彼女の身を案ずる表情で、母の問いに答える。
「……ええ、私達が帝都を発ってから、一度も……。彼女に限って、余計な心配は無用かも知れませんが、やはり気になります。一度、こちらからも探りを――」
と、娘が母に提案した時だった。
天幕の外から、少女騎士ティータと、もう一人、鬱陶しいばかりに脳天気な男の声が響いた。
「ちょ、ちょっと、待ってくださいな、殿下! 私がお取り次ぎしますからっ……て! そんな勝手に!!」
「いいじゃないか、僕と姫の仲だしっ! ……やあっ! 将軍閣下に、愛しのエリーヤ姫っ! お呼びでございますかっ!」
その言葉と同時に、許可もなく、天幕の入り口の幕が捲られ、一人の人物が入ってきた。
見るだけで目が犯されるような、色取り取りの原色の衣装に、その頭に印象的な見事な角。そして、何よりも、この爽やかさを百八十度はき違えた暑苦しさ。
他でもない、あの愛酒連合にも参加していた有角の民の国、パルパトーネの王子、ル・ポイキオである。
「ポイキオ! あんた、まだ有角の国に帰ってなかったの?」
「『帰ってなかったの』は、酷いな、愛しの姫よ! そんなに僕を邪険にしないでくれたまえよ。それに、僕は第二王子だから、別に急いで帰らなくてもいいのさっ! 本国の政治は父上と兄上に任せておいて、僕は外交という名の旅行三昧っ! ああ、なんて素晴らしいこの弟身分っ!」
「……あんたね、いつも思うけど、その鬱陶しい芝居みたいな喋り、どうにかなんないの? もうあんたに用はないから、さっさと帰ってよ。鬱陶しい」
この惚れた女からの血の涙もない言葉。これに、調子のいい王子も、民族特有の角飾りを、しゃらりと鳴らして、うなだれるより他にない。
「二回も言ったね、『鬱陶しい』って」
「大事なことだから、二回言ったのよ。あんた、ここの洗濯物と一緒に、何度か洗濯されてらっしゃいな。それで、少しはその性格のくどさ、ましになるはずだから。まったく、せっかく、顔は私好みの美形ちゃんだっていうのに、勿体ない。……いいから、何よ。急に、あんたまで何の用で……」
清々しいまでの嫌味をそう王子にぶつける先で、見かねたように、女将軍が二人の間に割って入った。
「妾がティータに命じて、彼を呼びに行かせたのだ、娘。少々、貴様に仕事を与えようと思ってな」
「……お母様が? 私に、このポイキオと? どういう事?」
「うむ……。愛酒連合との酒宴が無事終わった今、あとはクーデターを起こすのみだが、……今は、まだその時ではない。妾らがこの大森林から動き、皇宮制圧を行うには、あの邪魔なガイナスが、再び有翼の国への遠征に行ったその隙を待たねばならない……。そう、次の春まで、な。それまでは、しばしの猶予がある故、貴様にはここを離れて、ポイキオと一緒に、秘密裏に有角の国、パルパトーネに行って貰いたい」
「有角の国、パルパトーネに……?」
「ああ。護衛に紅玉騎士団の精鋭を付けてやる。心配するな。こっちは妾と獣人の王ラー=ドゥーに任せておけ。帝国元老院に向けては、『まだ暴動が治まりません』、とでも言って、適当に繕っておくから。貴様は、安心して行ってきたらいい。有角の国パルパトーネの極秘図書館へとな」
……極秘図書館。
その母が言う場所が如何なる所なのか。そして、そこで何をして来いというのか。この娘にはよく分かっていたらしい。今までの怪訝な表情から一変、その赤目にほんのりと期待の色を覗かせて、母へと抱きついてみせる。
「いいの、お母様? この大事な時期に、ここを全てお任せしても? それに、キリカの事だって、私……」
「ああ。大丈夫だ。キリカの事もこちらで調べておくから。気にせず行ってこい。勿論……婿殿も連れてな」
母から許されたその同行者に、一層に、娘の瞳が輝きを増す。
「リュートも連れて行っていいのね? 有角の国、パルパトーネに!」
豊かな赤毛を揺らしての、この楽しげな娘の顔。どうにも、余程、婿と一緒が嬉しいらしい。
まるで、少女の様な、嘘のないその表情。
娘のその満面の笑みに、いつも強面の母の顔にも、ほんのりと笑みが宿る。
たった一人の娘を誰よりも思う、母の慈愛に満ちた、……だが、控えめな笑みが。
「楽しんでこい、娘。婿殿との、……本当のハネムーンをな」