第百一話:契約
蝋燭の灯りに照らされた新妻の肌は、まるで上等の陶器を見るようだった。
「嬉しいわ、来てくれて」
妾達との話し合いを終えて、約束通り来訪をした夫に対して、妻は気取らない姿で歓待をして見せた。
絹地で出来た白い寝間着に、無造作に垂らされた赤毛。そして、その色に合わせたかのような唯一の装飾具――、紅玉の首飾りの赤。そのコントラストが、蝋燭の灯りだけに照らされる天幕の中で、実によく映えている。
厚い織りの幕で囲われた夫婦二人だけの天幕である。しかも、帝妹と、異民族の王子という身分高い夫婦の天幕に、邪魔をしにくる者など誰も居ない。故に、焦る必要など無いのだが、妻の手は待つということを知らぬとでも言うように、夫をその天幕の奥へと、そそくさと導いていた。
だが、この女、流石に女帝の地位を望もうとするだけのことはある。当然、今の夫の異変に気付いていないはずは無かった。
「どうしたの。夕方会った時とは、随分違う顔をしているわね。何か、考えて思い当たることでもあったの?」
導いた夫婦二人の為の寝台に夫を座らせ、妻はそう指摘を口にしてみせる。だが、当の夫は、いつもの美麗な横顔を見せながら、その表情筋の一つすら、動かそうともしない。その様は、顔の造形の素晴らしさと相まって、さながら冷たい陶器で出来た人形の様だった。
「……なぁに? 怖い顔しちゃって。まさか、何か悪い事でも企んでいるんじゃないでしょうね」
試すようなその問いにも、夫からの返答はなし。これには堪らず、妻が気分転換とばかりに、枕元に置かれていた水差しから、水を杯に注いで見せる。
「あなたも飲む? 私、愛酒連合の皆様との宴で、少し飲み過ぎたみたい。もう、しばらくお酒はいいわ。……ったく、お母様はよくもまあ、あれだけバカバカと酒が飲めるものだわ。ねえ、あなたもそう思わない?」
少しでも場を和らげようと紡いだその言葉。だが、これまた夫は無言。その態度に耐えかねた様に妻が、実力行使に及ぶ。
「何よ、さっきから。……んん? この天幕にはあなたが自分の意志で来たんでしょうに。待っている、と言った私の所に来たってことは、つまり、そういう事じゃないの?」
そう誘惑の言葉を紡ぎながらのキス。
寝台に腰掛けている夫の膝の上に乗り、逃れられないように首にしっかりと手を回して、唇に食らい付くと、妻は、くちゅくちゅと音を立てて、夫の舌を吸い上げる。
「……ん。ね、どしたの……。いつもは、もっと、抵抗するのに……」
熱い息と、ねっとりとした唾液を絡ませながら、そう問えば、夫からは、これまた無感情な視線だけが返ってきた。その様は、瞳の色と相まって、無機質なエメラルドを思わせる。そう、それは、まるで熱など一切持たない、冷たく固い石のようで。
そして、その冷徹さは視線だけではない。いま現在、妻に吸われるままにされている唇すらも、まるで氷のように冷たくて。ましてや、その唇から飛び出す言葉さえも、刺すように鋭かった。
「堪能したか? 最後の口づけをな」
「……最後、ですって?」
そう妻が受け入れられない言葉を反芻するや否や。
今までの立場が、一瞬にして逆転する。
即ち、今まで夫の上に乗っかっていた体勢から、今度は逆に乗っかられる側に。……つまり、押し倒されたのだ。
柔らかい寝台の上に、きつく組み敷かれて。白い敷布の上に、癖のある赤毛を波打たされて。初夜で纏った白い寝間着からはだけた四肢を、ねじ上げるように掴み取られて。
上に乗る夫の様子から察するに、激情に駆られて思わず押し倒してしまった、という訳ではない。まるで、磔を思わせるような、その有無を言わせぬ組み敷きぶり。
それに、即座に妻の身体に警戒の色が宿る。
「何よ……。一体、どうしたって言う……」
「このまま――」
またも一切感情のこもらぬ声で、夫の声が妻の言葉を遮る。そして同時に、彼女の左腕を拘束していた夫の右手が、素早く動いた。
するり、と伸ばされた夫の手の先。それは、妻が初夜の為に新調したという寝間着の胸元にまで到達していて。女特有の胸の膨らみを隠すように結ばれた紐飾りを、しゅるりと解ききっていた。
「このまま――、無理矢理犯してやったら、お前はどんな顔をするかな。力任せに、殴って、嫌だと言っても、押さえつけて。そうやって、僕の同胞の女達が舐めた辛酸を、同じようにお前に味わわせてやったら」
そう恐ろしい台詞を口にする夫の顔は、またしても無感情な人形そのものだった。
これに対して、組み敷かれた当の妻は。
「あら。あなたから積極的に抱いてくれるなんて。願ったりだわ。……うふふ、いつかの中継島で邪魔が入った時から、ずっとあなたとしたいと思っていたのよ。楽しみね」
胸元を露わにされたことなど、毛ほども感じない様子で、夫の冷徹さを一蹴する台詞を吐き、迎え撃つ。その反応を受けて、夫は、顔に少しだけ感情の色を宿らせて答えた。
「まあ、そうだろうな。……そう言うだろうな、とは思っていた。なにしろ、お前――」
ちら、と夫の視線が、妻の半分ほど覗いている胸元に滑る。そして。
「……僕の事が、好きで好きで堪らないんだからな」
そう、見事な嘲りの台詞を口にして見せた。
その言葉に、妻は一瞬驚いたように目を見張った後、いつものように、そのたっぷりとした唇を悠々と歪めて嗤う。
「あら……、ちゃんと聞こえていたのね、あの大樹での私の最後の言葉。ま、聞こえていても聞こえていなくても、どちらでも私は構わなかったんだけど」
「……聞こえては、いなかったさ。ただ、その唇の動きは、嫌でも分かる。……あれ、お前の本心だと捕らえていいんだな?」
――『好きよ、リュート』。
唇の動きだけで語られた、愛の告白。
その台詞を妻はゆっくりと首肯してみせる。
「ええ。ずっと言っているでしょ。あなたが欲しいって。好きじゃなきゃ、欲しいなんて思うもんですか」
そう堂々と自分の想いを言い放つ妻の身体は、まるで熱病に罹ったかのように上気していて。胸に伸ばされた夫の冷たい手にまでも、ほんのりとその熱を伝染させていた。
「リュート。初めて会った時から、あなたの事が、忘れられなかった。あなたのその目が……、その碧の目が、ずっと、私の心にかかっていた」
熱い吐息と共に、妻の柔らかい双丘が扇情的に上下する。夫の手が伸ばされたそれは、今にも冷たい夜の空気にさらされんばかりに、大きくはだけられており、これから与えられるであろう愛撫を、今か今かと待ちわびているようだった。
……だが。
「……結構。実に結構だよ、『奥さん』」
当の夫からは、その冷たい言葉と共に、熱い愛撫とは正反対の、氷の様な侮蔑の眼差しだけが返ってくる。いや、それだけではない。その人形の様な無表情な顔から一転、口を大きく歪めた嘲笑さえも、妻には向けられていて。
「何だ、結局、お前、僕に本気だったんだな。……そうか、そうか、悪かった。そんなにお前が僕に真剣だったなんて、思ってもみなかったから。ただのお姫様のお遊びでの恋愛ごっこで僕をからかっているだけ。――そう、思っていたから。ごめんな、愛してやらなくて。……発情期の雌猫さん」
やんごとなき帝妹に向けるとも思えぬような、最大限の侮辱とも言えるこの台詞までも、彼の口からは飛び出していた。これに、黙っていられる妻ではない。
「発情期の雌猫ですって? よくも、私に向かってそんな事が……」
「だって、そうだろ? お前、ずっと、僕が欲しい欲しいって……。盛りのついた雌猫でなきゃ、そうまで言わないよな? 今だって、僕に抱いて欲しくて、堪らないんだろ?」
「……あ、あんたね……。女に弱い癖に、何を偉そうに。あんたはもう私の奴隷で……」
勝ち誇ったような表情で、妻が、そう言って、ふん、と鼻を鳴らすのは、自信があるからだろう。つまり、この夫は、結局、どう転んだって、色事には弱い、……圧倒的に、女である自分が優位なのだ、という自信。
だが、その自信に満ちた女の笑いを一蹴するかのように、夫の怒りの炎は静かに妻を切り捨てていた。
「僕が身分上、まだお前の奴隷だと思っているのか? 確かに、いつかのエルダー城で奴隷になるとは約束したが、一度、僕の身柄は皇帝に買い上げられているんだ。その後、僕は皇帝から、お前に下賜された形で、強引にお前の元に引き渡されたが、決して、お前の奴隷として買われた訳じゃない。覚えているだろう? あの結婚式。僕は、あそこでお前の正式な夫になったんだ。そう、お前の唯一の『旦那様』に、な。エリー」
その言葉は、無論、妻の動揺を誘わないわけはなかった。
何しろ、忘れもしない、あの皇帝の結婚式で。
婚姻証書に血の判を押し、神の御前にて聖火にそれをくべた。それは、もう、神が認めた結婚。
どちらかが死ぬまで破られない永遠にして、対等な契約なのだから。
「……ええ、そうね。あなたは、確かに、もう奴隷じゃないわね。そうよ、間違いなく、私が選んだ『旦那様』。でもね、忘れるんじゃないわよ。誰があの場で選んでやったと思ってるの。私があの場で連れ出さなきゃ、あなた、あの後、ガイナスの拷問にかけられて死んでいたのよ。感謝してくれてもいいんじゃない?」
「感謝? 一体何を。全部お前の欲望の為にした事だろうが。それを今更恩着せがましく言うのみならず、ハーレムの女達を人質に取って、僕を手に入れようとはな。本当に、最低の女だ、お前は」
辛辣な夫からのその指摘。
だが、妻はその罵倒に少しも感じる事はないらしい。ふん、といつもの鼻に掛かった笑いを漏らしながら、また小馬鹿にしたような口調で反論をする。
「それのどこが悪いって言うのよ。欲しいものを手に入れる為なら、私はどんな手だって使うのよ! おとなしく待っていて、男に慈悲を請うだけの女なんて、糞食らえだわ。あんただって、絶対に逃がさない。あんたは私のものなのよ。死ぬまで、私の夫なの!」
そう唾を飛ばすと同時に、組み敷かれていた妻の手が、短くなった夫の金髪を、きつく掴み取る。
「まったく、あの髪、気に入っていたのに! どこの女にやったのよ! 許せない……、私の男の髪を持ち逃げするなんて……!」
この、清々しいまでの執着心は、どこからやって来るのか。
その呆れと怒りに、堪らずに、夫が妻の手を振りほどかんと試みるが、妻の手は、なかなか髪を離そうとしない。
「離せ、この……、馬鹿嫁がっ……!」
「嫌よ! 私のお気に入りの金髪なんだからね……! 絶対に……」
そんなしばらくの激しい格闘の後、男の体力の方が勝ったのであろう、髪二三本の犠牲の上にようやく、夫は妻の手を引きはがすことに成功する。そして、再びその腕をきつく掴み取ると、有無を言わせぬ怒りの形相で、妻を寝台の上に押し倒してみせた。
「いいか、エリー。よく聞けよ」
今にも、唇と唇が触れそうな二人の距離。
……はあっ、……はあ……っ。
先の格闘で上がった息が、お互いの唇を熱く濡らして。
「僕が本当に欲しければな――」
吐息を妻の唇にぶつけて、強い口調で夫が言葉を句切る。
「僕が本当に欲しければ、お前の言うとおり、女帝になってみせろ、エリー」
変わらずにきつく妻を組み敷いたままに告げた夫の言葉。それに、妻の瞳が大きく揺るぐ。
「……じょ、女帝になれ? あ、あんた、それって……。私のクーデターを支持する……。つまり、私があなたに要求した有翼人奴隷の指揮者になることに同意する。私に協力してもいいっていう事? そういう意味で、いいわけ?」
「協力? お前に? ……嫌な言葉だな。お前のその上から目線での協力要請なんざ、死んでも断る。うん……、そうだな。強いて言うなら――、契約。うん、契約がいい」
尋ねるその先、夫からはこれまた意味の分からぬ言葉が返ってきていた。これに堪らずに、妻が問う。
「契約……? 何のつもりよ。私はあなたに譲歩しなければならない理由なんてないわ。私はあなたの可愛い妾ちゃん達の生活を握っているのよ。それに、彼女たちの未来もね。あなたは彼女たちの事を考えたら、私に黙って従うしか――」
「それが、嫌だって言うんだよ、奥さん」
妻の言葉を遮って、夫の低い声音が天幕に響いた。
その激しくも、毅然たる怒りの台詞。それを口にした途端、今まで、氷のように冷たかった夫の手が、まるで火がついたかのように、熱を持つ。
「そうやって、自分たちのした事を棚に上げて、これから善処するから、何もかも許してねっていう、そういうお前の態度に、心底腹が立つんだよ! 何が、彼女たちを庇護してやっているだ。何が有翼人の奴隷解放令だ。何が、改革の為のクーデターだ。お前の口からそんなこと、言えた立場じゃ無いだろうが!」
だが、夫のこの責める言葉にも妻は、一分たりとも揺るぐ様子は見せない。そのたっぷりとした唇を歪めると、夫の態度を小馬鹿にしたように言い返して見せる。
「あんた、まだそんな馬鹿な事言っているの? そうやって、理想高く正論ばかりぶちかましてればいいわよ。正論振りかざして、この世が良く変わったら、苦労しないのよ! ……っとに、そんなこといつまでも言う様じゃ、やっぱり、あんたなんかいらない男っていう事かもね」
「……いらない? そうか、残念だな。せっかく――」
……さわり。
熱く血の通った夫の手が、妻の左胸を掴むように撫で上げる。
「せっかく、愛してやろうと思ったのに」
そう、言葉が紡がれると同時に。
……ぎりっ。
嫌な音を立てて、夫の手に、柔らかい乳房を握りつぶさんばかりの力が篭もった。
「……った! あんたっ……、何のつもりよっ! 本当に、女の扱い方知らな……っ!!」
侮っていた夫からの、この意外な行動。流石にこれには、妻も抵抗せざるを得なかったらしい。必死でのし掛かる夫の身体を引き離そうとするが、夫は怒りのせいだろうか、別人の様に、過激な行為をやめようとしない。さらに、圧倒的な冷たさと、傲慢さを漂わせる男の声音を持って、妻にきつく詰め寄っていた。
「女として扱って欲しいなら、とりあえず、ハーレムの女達を解放しろ。お前の都合で彼女らを庇護し、その身を戦いに駆り出すなんていう惨い真似はもうよせ。彼女らは、ただ、日々の幸せを噛みしめたいだけの女だ。この拉致された国ですら、ささやかな幸せを見いだしたい――、そういう類の女達だ。そんな彼女たちに、戦いを強いるなんて、許さない」
ぎりぎりと、尚もきつく握られる女の乳房。それに、些か苦痛の色を滲ませながらも、妻の態度は変わらなかった。
「はん! 何を甘い事を……! 女だからって、当たり前の生活が与えられると思ったら大間違いなのよ! 男も女も、欲しいものがあれば、それは戦って勝ち取るしかないのよ! 馬鹿じゃないの!!」
その激情に彩られた妻の台詞に、対する夫は、その手を緩める事は無かった。乳房の形が大きく変わるほどに、さらに手に力を込めると、唾を飛ばして、妻に怒りを吐き捨てる。
「甘いのは、お前だ、エリー。彼女らの手を借りなければ、女帝になれないなんて、お前の力量が無さ過ぎるんだよ。欲しいものがあるならなぁ……」
ぎり、とさらに乳房が握りつぶされて。
夫の怒りに満ちた唾混じりの言葉が、妻に向けられる。
「――欲しいもんがあるなら、他人の力なんぞに頼らず、てめえの力だけで手に入れやがれ、この糞嫁が!!」
その言葉に、一瞬、妻の赤目が、揺るいで。
「僕が、欲しいんだろう、エリー。僕の事が、好きで堪らないんだろう、エリー。……なら、お前の力で、僕の心を手に入れてみろ。あのハーレムの女達の生活を盾に、僕の協力を得るような真似はせず、お前自身の魅力だけで、僕を惚れさせてみろよ」
紡がれた夫の言葉に、さらに、たっぷりとした唇までも、ふるり、と震える。
「エリー。僕の心が欲しければ、女達の生活や有翼の国を盾に取るような真似なんかせずに、自分の力だけで、誰よりも鮮やかに女帝になってみろ。そして、僕が及びもしないほどの為政者になって、僕を屈服させてみろ。心から、お前のものになってもいいと――、この僕に、そう思わせるだけのいい女になってみせろ」
その夫の言葉は、先までの激高したものより、幾分か冷静で。それだけに、言葉の重みと意味が、妻の目をさらに揺るがせる。
「今のお前は、何もまだ成していない、ただ、自分の欲望の為に他国を利用しただけの薄汚い雌豚だ。そんな女に、いくら愛の告白をされたって、僕の心がお前に傾くものか。そんなお前に如何に協力を求められたって、僕は、全力を持ってお前を否定し、お前を拒絶してやる。お前に、僕の心も体も、何一つやらない。口づけだって、さっきので最後だ。……だが」
そう反語を紡ぐと同時に、夫の目から、幾分か怒りの色が薄らいで。
「だが、エリー……。お前が、もし、女帝になって、大樹で僕に言った条件を間違いなく遂行するのだったら。今まで通り、僕の同胞を養い、彼女らの戦力としての働きが無くとも、いずれは彼女らを解放すると約束するのだったら。僕はその時、心からお前の奴隷になってやってもいい。心も体も命も……、今度こそ、全部お前に差し出す。……お前の欲しいもの、全部全部、くれてやる」
「リュート……。それって――」
その宣言は、つまり。
「ああ。お前がハーレムの女達を利用せず、自分の力で女帝になり――。あの有翼の国への侵攻を止め、尚かつ奴隷の彼女らに自由を与えると約束し、僕が頭を垂れるしかないような為政者になるのだったら、僕は……」
……するり。
妻の乳房を握りしめていた手が、突然、緩んで。
「僕は、一生、お前の側に居てやる。お前だけの――」
……お前だけの男に、なってやる。
耳たぶに、唇寄せて、語られた夫の言葉。それに、妻は。
「それは……。つまり、一生、この国にいるってことよ? あの国に……有翼の国に、二度と帰れない。そういう事よ?」
同じように夫の耳に唇を寄せて、そう問いを返す。その言葉を受けての夫の返答。それは、実に潔くて。
「ああ。そういうつもりで言った。僕は異民族だから、女帝陛下の正式な夫としては世間には認められないだろうから、表向きには死んだことにでもすればいい。その後、誰かを正式な夫として迎えようが何しようが、僕は陰の愛人として、一生お前を愛してやるよ。うん? ……何か文句があるか」
思わず、妻から呆れの溜息と清々しいまでの笑いを誘っていた。
「あはっ……、あははははっ! 馬鹿ね。あんた、本当に馬鹿ね。あの女達を戦わせたくないが為に、あんたの心を売ろうってのね? ……あははっ、本当に、馬鹿っ」
「……悪いか。あの女達は今まで、散々お前らの為に辛酸を舐めてきたんだ。これ以上、彼女らに辛いものを背負わせたくないと思って、何が悪い。祖国すら救わなかった彼女たちを、同胞の男である僕が救いたいと思って何が悪い。……彼女らを取引や戦争の道具に使われるくらいなら、僕の心くらい、お前に全部くれてやって構わない」
その言葉に、一瞬、妻の顔が、ぴくり、と忌々しげに歪む。だが、それも、すぐに、元の高慢な笑いに戻されて。
「……ふん。同胞の女達がそんなに大切? ああ、ちょっと、苛つくわね。……でも、まあ、いいわ。そこまで言うんだったら、……もう逃げられないわよ。いつかの交易都市みたいに勝手な逃亡すら、許してあげない。私の側を、一時だって離してあげないから」
「ふん。望むところだ。お前がどれほどの女なのか、片時だって離れずに監視していてやるよ。だが、覚えておけ。お前がこれから先、少しでも女帝に相応しくない行動を取った時、もしくは、女帝になれなかった時には、……遠慮無く、お前を殺してやる」
「うふふ。『殺してやる』、ね。何ていう愛の台詞かしら。あんたって、やっぱり素敵よ。いいわ、クーデターに失敗したら、生き延びていられるとは思わないもの。どうせなら、あなたに殺されるのも、悪くない。ええ、その条件だったら――」
その言葉と同時に、乳房の上の夫の手に、妻の手が、そっと触れる。
「私、あなたの望むような女になってあげるわ。貞淑で、清楚で、慎ましやかな妻になれ、と言われるなら、絶対に嫌だったけれど。でも、自力で、誰もがひれ伏すような女帝になれ、と、そういう条件なら、悪くはない。いいえ、悪くないどころか、むしろ、望む所よ。だって、あなたの言う条件は、私の理想そのものでもあるのだから」
慈しむように夫の手を乳房の上で撫でつけてそう言うと、今まで上機嫌な様子だった妻の瞳に、一瞬、暗い影が落ちる。
今までに見せたことがないような、その心の闇を写したかの様なその眼差し。それに、怪訝な色を浮かべる夫に向けて、妻はさらに、意味深な言葉を口にして見せた。
「そうよ。そうでなければ、私がこの世に産まれた意味がない。私は、産まれるべくして産まれ、女帝になるべくして、なるのだから」
「エリー?」
まるで、自虐とも言える色を帯びた妻のその顔に、夫が思わず声をかける。
……この表情、どこかで、見た?
そう夫が内心で疑問を漏らすと同時に、彼は、ふと、その答えに突き当たる。
それは、昼間、女将軍と二人きりで真実を知らされた時の事だ。クーデターを企む女将軍に、『クーデターを起こすのは、権力が欲しいからなのか』、と問うと返ってきた表情。今の妻の表情は、昼間に、あの母が浮かべた表情、それに他ならなかった。
その顔は、一見、決意を固めた凛とした表情に見えて。だが、しかし、その奥に何か危ういものすら感じさせる張りつめきったもので。堪らずに、夫がその真意を問う。
「エリー、お前、まだ僕に何か隠して……」
「――さーて、じゃあ、早速、あなたの言う『契約』といきましょうか、リュート」
夫の疑問を遮るように、一転して、妻からは明るい声音が返ってきた。それは、まるで、これ以上心に踏み込むことを拒絶するかのように、有無を言わせない明るさを帯びていて。それに、思わず、夫も、さらなる問いを紡ぐのを躊躇っていた。
「いいでしょう、リュート。あなたが大事に思う有翼の民の女達については、とりあえず今は非戦闘員扱いにして、今まで通りの平和な生活を約束してあげるわ。そして、私が女帝になった暁には、彼女たちを解放して上げてもいい。あなたの心と引き替えに。それで、いいのね?」
「ああ、それから、大樹でお前が提示してみせた有翼の国への侵攻の件も必ず遂行すると約束するのなら、だ」
「いいわ。こっちだって、狂信にまみれた元老院議員は一掃したいもの。あんな奴等、元々私が片っ端から首を刎ねてやろうと思っていたし。あいつらの首と引き替えに、あんたが一生私のものになるなら、安いもの。その代わり、私が女帝になるまでは――」
そう言葉を句切ると同時に、今まで慈しむように夫の手に添えられていた妻の手が、するり、と夫の首に回る。
「いいえ、私が女帝になってからも、だけれど。とにかく、今から、あなたが死ぬまで、浮気は絶対に許さないわよ。私が女帝になれなかったら、私を殺して、浮気でも何でもしたらいいけれど。でも、今は、絶対に、駄目。私を心から愛するようになるまでも、他の女に心を寄せるなんて許さない。あのハーレムの女達にだって、必要以上に優しくしないで」
「……浮気? お前なぁ。自分から夫に妾をあてがっておいて、よくそんなこと言えるな。しかも、お前だって有角の国の王子様と僕の目の前でキスした癖に」
「あら。……本当に、分からない旦那様ね。あれは、あなたに当てつけたかっただけよ。女はいつだって、男を試して、揺さぶってみずにはおられない生き物なのだから。そうして、試した挙げ句に、自分のために、好きな男が堕ちるところまで堕ちてくれるのだったら、それはまさしく、女の究極の夢に他ならないのよ。……あははっ、何て素敵っ」
「どこが……。本当に、お前は一度巻き付いたら離れない……蛇みたいな女だな」
あきれ果て、溜息混じりにそう呟いた夫からのその言葉に、妻は意外にも満足げな笑みを見せた。そして、首に回していた手をさらにきつく夫の首に巻き付けて、絶対に離さない、とでも言わんばかりに夫を抱きしめる。
「いい? あんたが私を嫌いでも、私はあんたに惚れたの。私に惚れられたら、あんたは、覚悟するしかないのよ。絶対に、惚れさせてやるから」
そして、さらにそのルビーの瞳を光らせ、挑戦的な言葉を、堂々と言い放ってみせた。
「もし浮気してごらん。あんたの目の前で浮気相手の女の腑かっ捌いてやる。そして、その女の腸であんたの首に相応しい首輪こさえてやるからね。だから、他の誰にもあんたの心、やるんじゃないわよ。いいわね?」
この残虐なる宣言、この女なら躊躇わずやってのけるだろう。その事実に、思わず、くらり、と夫を眩暈が襲う。
「……ああ、そんな事を言われたら、君を心から愛する自信がますます無くなってくるよ、『奥さん』」
「あら、駄目よ。そっちが、条件を満たせば、愛してやると言い出したのだから。私の性格も全てひっくるめて愛してくれなきゃ、契約違反だわ、『あなた』」
そうおどけて、うふふ、と笑ってみせた後、今まできつく絡みついていた妻の腕から、ふっ、と力が抜ける。そして、夫に見せたのは、自信と、そして少しの憂いを帯びた、極上の女の笑みだった。
「大丈夫。私、あなたの望む女になるわ。誰よりも気高く、誰よりも鮮やかな女帝になる。それは、――何よりも、私が決めたことだから」
「……エリー? お前……」
「ねえ」
妻のいつにない憂いの表情に、夫がその意味を問おうとすれば、また妻からは強引に話題を変えようとするような不自然な明るさが返ってくる。
「ね、じゃあ、とりあえず、契約成立、ということで、サインしてくれない?」
「サイン? どこに?」
「決まっているでしょう? 私とあなたのサインと言えば」
含むような言葉を口にした後、妻の指が、とんとん、と一つの場所を指し示した。
たっぷりと肉厚で、赤く艶めくその場所。それは、忘れもしない、いつかのルークリヴィル城でサインをした場所。そう、この妻が、『いつか絶対迎えにくるわ』と言って残した、鮮やかなあの接吻。
その印象的な場へのサインの提案に、即座に夫の眉間に皺が寄る。
「……断る。言っただろ? さっきのが、最後の口づけだと。お前が僕の理想の女に成らない限り、僕は金輪際、お前に口づけ一つやるつもりはない」
「あら、ケチね。少しくらいは前払いしてくれてもいいのに。そんなに私が信用出来ないの?」
「信用? 馬鹿言え。そんなものが一朝一夕に出来るものか。……まあ、しかし――」
そう反語を紡ぐと同時に、妻が気付かぬ程の一瞬、夫の碧の瞳がきらり、と怪しげに光った。そして、その視線を妻が指し示した唇から、下へと滑らせる。
「そうだな。今まで僕の妾達を養ってくれた礼くらいは、……してやってもいい」
碧の瞳が辿るその先。それは、たっぷりした唇から顎、首を越えたその下。……きらりと輝くルビーの首飾りに彩られた、艶めかしい胸元に向けられていて。
「エリー。お前は僕を試したいと言ったな。じゃあ、僕もお前を試してやる。僕の妻は、一体どれほどの女なのか。僕が一生を捧げて愛するに相応しい女なのか。僕は、ずっとお前を試し続けてやる」
組み敷いた妻の上で、夫の挑戦的な言葉が語られる。それと同時に、夫の手がするりと妻の首の後ろへと伸びて。胸元を飾っていた首飾りを、邪魔だと言わんばかりに解き放っていた。
……そして。
「忘れるなよ、奥さん。お前が僕の期待を裏切るような女だったら、ここに間違いなく剣を突き立ててやるから」
そう、宣戦布告の言葉を紡いだ夫の唇が、邪魔なルビーの首飾りの無くなった胸元へと寄せられて。
……ちゅ、と音を立てて、胸の谷間の肌が、きつく吸い上げられる。
その触れた唇から与えられる熱と、唾液の濡れた感覚に、ぴくり、と妻の身体が跳ねた。そして、その唇から、……んっ、と一つ鼻に掛かった声を漏らすと、もっと、とばかりに、きつく胸元に埋められている夫の頭をかき抱く。
「リュート……、誰にもやらないわ。あなたは私のものよ。……永遠に、私だけのもの……」
短くなった金の髪に指を絡ませて、夫を抱きしめる妻の腕は、さながら夫を縛る鎖の様に、きつく重苦しくて。それは、もう愛と言うよりも、狂気に近い危うい感情、そのもののようで。
「もう、逃がさないわよ。今夜から、あなたはこの天幕で私と一緒に暮らすの。食事も一緒。寝床も一緒。いつかのように、飛竜の寝床に逃げ込むなんて、絶対に許さないから。無論、妾の寝床になんて、以ての外だから」
「……わかった。だが、寝るだけだぞ。僕は、お前が契約を果たすまで、全力を持って、女であるお前を拒絶してやるから。この口づけ以上、僕はお前に何もしない。今のお前は、僕の妻であっても、僕の女ではないのだから」
「あははっ。いいわ、私の戴冠式まで、本当の初夜はお預けと言う訳ね。ええ、それなら、望むところ。私、欲しいものは、絶対に手に入れるから。……うふふ、じゃあ、それまでは――」
今まで、きつく絞められていた妻の腕から、突然、ふっ、と力が抜けて。そして、夫の髪を一撫でした後に、先にきつく吸われた胸元へと、妻の手が伸びた。
そこには、つい先ほどまで、この胸元を飾っていたルビーの色に似た、赤い赤い痣が一つ。
夫の唇と歯によって、妻の白肌に刻まれたその印は、唾液に濡れて、てらりと怪しい光すら放っていて。妻は、それを愛おしそうに眺めた後、夫の唾液をすくい取るように、指でその跡をすうっ、と撫で上げて見せた。そして、その唾液を絡ませた指を、肉厚の唇まで持って行き。
「これで、夫婦の営みとしては、一旦、満足するとしましょうか、あなた」
……ぺろり。
小さく音を立てて、妻の舌が、その濡れた指先を舐め取っていた。
「うふふ。じゃ、今日は寝るとしましょうか。ああ、それにしても、今日のあなたは、うんと素敵だったわ。ええ、いつもの色事に弱いあなたより、ずーっと素敵。うふふ。一つ勉強になった」
そう言いながら、舐めた指に、もう一度惜しそうに軽くキスをして、妻は、はだけられた胸元を、そっと直してみせる。
「勉強……? 何のことだ。僕は……」
「あら? あなたって本当にわからないのね。あなたを焚きつけるには、他の男との情事を当てつけるよりも、もっと効果的な方法があるって事よ。あなたって、本当に、怒ると何をするか分からない人。だから、あなたをもっともっと怒らせちゃえば、いいのよ。うふふ、怒りで我を忘れた積極的なあなた。今までになく、良かったわ。ますます、惚れちゃったみたい」
きつく組み敷かれて、胸に乱暴された事など、もう忘れてしまったのか、妻はこのあっけらかんとした態度だ。これには、流石に夫もあきれ果てて、溜息をつくより他にない。
「おい。あのな……」
「ああ、もし寝ている間、私の寝顔のあまりのかわいさに、どうしようもなく男の激情に駆られて、襲いたくなるようだったら、いつでも襲っていいからね、あ・な・た」
「……断る。本当に、お前は相変わらず破廉恥女なままだな。ますます、愛する自信が無くなってくるよ。……奥さん」
その言葉を最後に、ふっ、と天幕の中の蝋燭が吹き消されて。
闇に閉ざされた天幕に用意された寝台の上に、二つの影が折り重なる。
お互いがお互いの吐息を感じられる距離での、夫婦初めての共寝。
無論、身体の関係など、一つもない淡泊な同衾なのだが。それにも関わらず、妻は満足げに夫の腕に、その頭を預けて、目を閉じた。
だが、その下で。
夫の手が、密かに動いた事を妻は知らない。
暗闇で、密かに伸ばされた夫の手の中。そこには、先に妻の首から解き放った上等のルビーの首飾りが、きらりと妖しく光っていて。
妻が、おやすみ、と小さく囁いたその隙に。
……するり。
小さく衣擦れの音を立てて、あっさりと、その首飾りは夫の懐の中へと消えていた。
勿論、初めての夫の手枕に、満足しきりの妻が、その音に気付くはずもなく。
そして、さらに。
何かを探すように、夫の目が、暗闇の天幕の中で妖しく光っていたことも、また。
……今の妻には、まったくに、あずかり知らぬ事柄である。