第百話:女達
「軽蔑なさいますか? この、弱い私達を」
蝋燭の灯りに照らされて浮かび上がったのは、そう言葉を紡ぐ、中年女性の自虐的な横顔だった。
赤々と燃え立った黄昏は、もうとうに地平線の彼方へと姿を消し、この紅玉騎士団宿営地にある有翼の民の女達の天幕にも、夜の帳が降りていた。その天幕に用意されていた蝋燭全てに火を付ける仕事を終えて、ようやく中年婦人は、小皺の入ったその顔を正面に向けて見せた。
「旦那様……、いいえ、リュート様。お聞きになったんでしょう? 私達の、選択を」
そう尋ねながら、燭台を机の上に置く婦人の表情は、先の自虐から少し変化をしていた。強いて言えば、諦め。そして、開き直りとも思える、そんな表情である。
そして、それは、この林檎体型の婦人、マダム・シェリーだけではない。彼女の後ろに控える女達――ハーレムという名の施設で庇護されている女達、その全てが、彼女と同じような表情を、主人に向けていた。
その女達から向けられる無数の目を受けて、この女達の主人――、妻との会話を終えて久しぶりに妾達の天幕へとやって来た夫、リュートは一つ頷きの後、無表情で答える。
「ああ、聞いた。本妻から、余すところ無く、君たちの処遇をな。……よくも、同胞である僕に、今まで黙っていてくれたな、とは思うよ」
責めるような台詞だが、そこに、感情の乱れは一切ない。怒るでもなく、軽蔑するでもなく、ただ、真実を見定めたいが故の、無感情。そう感じられる主人の表情に、思うところがあったのか、このハーレムを取り仕切る中年女性、マダム・シェリーは主人と同じように頷きの後、静かに口を開いていた。
「ええ……。貴方には本当に申し訳ないことをしてしまったと思っています。ですが……」
そう反語を紡ぐと同時に、婦人の目が、ちら、と天幕の入り口に滑る。
そこには、男よりも遙かに頑健な体躯をした女騎士――紅玉騎士団最強の騎士、ジェック・ミリーガルの姿。ハーレムの女達の護衛という名目で、いつもこの天幕で寝起きしているらしい彼女は、その婦人からの視線に、無言で頷くと、先の話を主人に語ってやれ、とばかりに、くい、と顎を動かして見せた。
「すみません。姫様から、しばらく貴方には真実は言うな、と釘を刺されておりましたので。……『大森林での酒宴は、今度こそ失敗させるわけにはいかない。あのリュートという男が、もし真実を知ったら、何をするか分からない。だから、酒宴が無事に終わるまでは、おとなしくハーレムの女を演じて、決してあの男に真実を話すな』、とのご命令で」
「……なるほどな。それで、ああして、ハネムーンとかいう馬鹿な御名目で、僕と君たちをここまで引っ張り出してきたってわけか」
主人からのその問いに、婦人はすまなさげに頭を下げて、……ええ、と肯定の言葉を口にする。
「貴方にしてみれば、さぞ、自尊心を傷つけられたことでしょうが……。私どもには、こうするしか無かったのです。私達を虐げるかもしれない同胞の男よりも、私達に暮らしを提供してくれる敵国人を取った……。それだけです。それだけですが……、貴方は、軽蔑なさるでしょうね。私達の事を、『裏切り者』、と……」
かつて、そう言われたのだろう。その『裏切り者』という言葉に、居合わせたハーレムの女達、全ての眉間に皺が寄る。
「その言葉、……同胞に、……有翼人に言われたんだな」
またしても無機質な主人の問いに、婦人は目を伏せ、頷いてみせる。
「はい……。姫様は、私達だけでなく、各地に散らばる有翼人奴隷の協力も得たいとお望みでしたから、私達はあの屋敷からちょくちょく外に出して貰って、同胞達と接触を持ちました。ですが、私達の事を、『姫に安い金で飼われて、帝国人の味方をする裏切り者』と罵る同胞もおりまして……」
そう言葉を言い淀む婦人の声は、心なしか涙声が混じり、その様子に堪らず、背後の若い女達が、婦人の肩を抱き寄せていた。
「いいのよ、マダム。言いたい奴には言わせておけば! 裏切りが何? 姫様に縋って生きるのが何? それの何処が悪いって言うのよ? ……虫けらみたいに殺されるより、ましよ!」
「そうよ、私達だって……、好きでこんな目に遭っている訳じゃあ……」
「――いいよ。僕は、君らを軽蔑なんか、しない」
まるで、半狂乱、といった様相で弁明する女達の前に、一言、静かな言葉が、投げかけられる。
「君らを責める気は、さらさら無い。君らが生きるために取った手段を責める資格は、僕にはない。ただ、君らの運命を思うと哀しいが――」
そう冷静に言い放つ主人の顔は、先の無表情から少し、憐憫の色を帯びたものに変わっていた。それを受けて、中年の婦人がさらに嗚咽混じりの声で答える。
「す、すみません……。で、でも……、本当に私達にはこうするしかなくて……。グラナ将軍も、姫様も憎い帝国人だと分かっています。私達はいいように利用されているだけだ、とも……。でも、祖国にも見捨てられた私達には、敵国人だろうが何だろうが、未来を見せてくれる者に、縋るしか無かったんです」
自分たちを拉致し、あるべき幸せを奪った帝国人。彼女たちが憎くない訳はないのだ。それでも、憎しみと、生きたいという希望を天秤に掛けたとき、どちらが勝るかは言うまでもなく。人間、誰しもが矜持の為に死ねるものではないし、それが美学だとも思える訳もない。
「……一つ、聞きたい」
女達の哀しみに、思い馳せた所で、主人がおもむろに問いを口にする。
「君たちは、……本当にクーデターが成功すると思っているのか。そして、あの女が女帝になることを、心の底から望んでいるのか」
その言葉に、一瞬、女達の目が泳ぐ。そして、しばし、互いに顔を見合わせた後、女達の目が行き着いたのは、天幕の入り口で無言でたったままの女騎士、ジェックの姿だった。
彼女は、リュートの問いと女達の視線が意味するところを、良く理解していたらしい。声の出せぬ身ゆえに、手振りのみで女達に、合図を送ってやる。……『いいから、話せ』、と。
そのジェックの合図を受けて、マダム・シェリーの後ろに控えていた若い女奴隷――、かつてリュートを『けだもの』と罵った奴隷、カーラが進み出る。あのグラナ邸での拒絶するような態度は、以前に比べれば軟化はしているが、それでも男への警戒は完全には解いていないらしい。怯えと嫌悪を微かに滲ませた表情で、主人の事を睨みつつ、一つ問いを口にして見せた。
「旦那様。この女騎士、ジェックの素性、姫様からお聞きになっていません?」
「……ああ、聞いている。確か、混血なんだろ? 帝国に根絶やしにされた無神論の民族、アマラート人とかいうのと、リンダール人との……」
いつかの交易都市で聞いた女騎士の過去。その時に、リュートが感じたのは、同胞の女達に向けたものと、同様の疑問だった。
……即ち、自分の民族を虐げたはずのリンダール人の姫に、どうしてそこまで従うのか、という疑問。
「この騎士、ジェックも私達も、夢を見たいのです。いいえ、見るしか、できないんです」
その答えを、マダムがまたも涙混じりの声で紡ぎ出す。
「彼女はこんな厳つい形をしていますけれど、本当はとても優しい女性なんですよ、旦那様。紅玉騎士団の騎士の中でも、誰よりも私達の事を気遣ってくれます。言葉は話せませんが、彼女の事は、私達、どの帝国人よりも信用しているんです」
その婦人が言う女騎士の優しさ。それは、自分の身に降りかかった不幸ゆえだと、女達がさらに事情を語り出す。
「彼女は誰よりも、この大陸の惨状に心を痛めています。自分の半分の血が、その半分の血を根絶やしにした。そして、自分もかつて自由のない奴隷として売られ、グラナ将軍に拾われるまで、それはそれは言い尽くせない辛酸を舐めてきた。だからこそ、彼女は姫様にお仕えしようと決めたのですよ」
「……だからこそ?」
「ええ。姫様は、少なくとも、現皇帝とは違って、異民族への偏見を持っておられぬお方です。……勿論、姫様はリンダール人なので、一番自国民を優先はされるでしょうが、今の元老院のように、選民の思想にはかぶれておられない。その姫様が女帝になれば、自分のような不幸な混血児が少しでも救われるのではないか、と。選民の名の下に、虐げられる民族が少しでも減る。そして、……いつか、民族の差別無く、元奴隷だったリンダール人も、他の民も分け隔て無く共存しあえる国が出来ればよいと……」
実に、耳障りのよい、理想。
だが、それに主人が頷くはずもない。また、感情のこもらぬ声で、一つ事実を女達に告げてくる。
「その理想を掲げた姫も、この女も、僕らの国を虐げたぞ。自らの大陸の安寧の為に、他大陸の民族を侵していいとは、実に都合のいい事だ」
自らが受けた不幸を覆したいが故に、同じ不幸を他人に与えていい。そんな論理は、ない。
そう言いたげな主人からの眼差しを受けても。女達の視線は、少しも揺るがず、彼女らを代表するように、中年婦人が語り出す。
「そんなものです。結局、人間ってそんなもの、世界ってそんなものです。姫様も、ジェックだけじゃありません。私達の祖国だって、そうやって、自国の安寧のために、私達を無き者として切り捨てたじゃありませんか」
……結局は。
短く言葉を句切って、マダムの横に進み出ていた、カーラが言葉を絞り出す。
「人間なんて、みんな自分に都合のいい生き物ですわ。そして、その自分に都合のいい姫様の論理が、私達を食わせてくれたのは事実。私達は、このままこの国で虐げられるままにはなりたくない。だから、姫様の都合のいい論理に、自分たちの都合で従う。……それだけのことですわ」
毅然とした女達からの返答。それを受けて、今まで女達の後ろに匿われていたハーレムの子供達が、心配げに顔を出した。
有翼人、獣人、有角の民……。かつて、帝都で子守をさせられたその色とりどりの孤児達が、女達の服の裾にしがみつきながら、主人であるリュートの目を睨め付ける。
「この子達だって、姫様達が居なければ、生きてはいません。こうして多種多彩な民族の子供達が同じ場で、同じように共存出来る。姫様や、将軍が、何処まで意図しているのか、私達には分かりませんが、思えば、このハーレムは理想の一つの体現だったのでしょう。いつか、この大陸でどんな人間もその血や見た目でなく、その中身で判断される日が来ればいいと、私達もジェックも、そう思っているのです」
あの、麗しいグラナ邸は。
まさしく、楽園だったのだ、と女達は言う。
いつか来る理想の世界を体現した、小さな小さな箱庭。
だが、その箱庭の根底には、数多くの涙と血が、染みこんでいて。
ひどく、歪んだ、いびつな……夢の園。
そこにあって、この女達が見た未来。それを、口角に刻まれた小じわを緩ませて、マダム・シェリーが語り出す。
「旦那様。……祖国でしか暮らして来なかった貴方にとって、帝国はただの憎い敵国でございましょう。ええ、勿論、私もそうだった。若い時分に、有無を言わさず拉致され、自由も何もかも奪われた。その憎しみは、未だに色あせないけれど。……でもね」
中年婦人のささくれだった手が、まだあどけない子供の一人を側へと引き寄せる。
「でも、……どれだけ憎んだって、運命は変わらなかったですよ。無力な女である私は、大きな力の前に屈することしか出来ませんでしたから。本当は、姫様達が助けてくれた時だって、刺し違えてやろうとでも思ったけれど……。私には彼女らと刺し違えるだけの器量は無かったし、……姫様やグラナ将軍を殺したところで、誰かが助かるとも思えなかった。十三年という年月は、私の心から、遙かに祖国を遠ざけ、そして、何より、同胞の女達と、多くの子供達との生活は、……どうしようもなく私を癒してくれました」
歌を歌いながら、共に機を織り。自慢の羽を互いに手入れし、くだらない話に花を咲かせる。洗濯をする横では、違う民族の幼子が水浴びをし、畑を耕す横では、少し年長の子供が種まきを手伝ってくれる。
その帝国での生活の小さな幸せの積み重ねこそが、何よりも愛おしく、そして、見捨てられた故郷を思うより、遙かに生きるという希望を与えてくれた、と。
「私はこの通り、子が産めませんでしたから、子を持つと言うことがどんなものかよく分からなかった。そして、女騎士達から預けられるリンダール人の子など、憎くてしょうがない。そう、思っていたのですけれどね……」
……やっぱり、変わりませんよ。
有翼人だろうと、元奴隷のリンダール人だろうと、他の民族だろうと。
子供は、どこにあっても子供です。
憎しみも、隔ても何もなく、私達を慕ってくれます。そして、私達にその瞳の奥に、未来を見せてくれます。まだ来ぬ、……しかし、いつかはやって来るであろう理想の未来を。
そう言葉を漏らす婦人の表情は、また、どこか自嘲の色を帯びていて。
「結局、女というものは、愚かで……そして、愚かであるが故に、したたかに生きることが出来るのですよ。もしかしたら、貴方には一生ご理解出来ない感情かもしれませんが――、許せない、という憎しみの気持ちだけでは、人は生きていけませんよ、旦那様。貴方様が帝国の成したことに憤り、姫様にご協力などできぬ、というお気持ちは、ようく分かります。されど……」
……憎しみだけで生きるのは、ただ、辛いだけですわ。
小さくそう言葉を結んで、目が、伏せられる。
「……旦那様。このようなお願い、するだけ大変失礼とは存じます。ですが、敢えて、お願い致します。どうぞ、姫様に……、いいえ、私達に協力して下さい。憎しみは一旦、追いやって、どうかこの大陸での有翼の民の未来の為に戦って下さい。どうか……」
「お願いです、旦那様。どうか……、どうか……」
「旦那様! 力を貸して下さい!」
マダム・シェリーのみならず、控えていたハーレムの女達、全てからの懇願。若い者も、子供達も、何か藁にでも縋るように、必死に、一人残らず下げられる頭。
それを受ける主人の眼差しは、この天幕に来たときと変わらぬ無感情なもので、一切返答をしようともしない。だが、女達にしてみれば、今の生活、そして、未来の自分たちの処遇を決めるという重要な事柄である。退くに退けぬとばかりに、誰もその頭を上げようともしない。
何を考えているか分からぬ無表情のままの主人。そして、もう言葉は不要とばかりに必死の懇願を続ける妾達。その両者の間に、永遠とも言える沈黙が流れる。
……じりじりっ。
蝋燭の光に寄ってきた虫が焼かれる嫌な音だけが、天幕の中に響く。
その暗い中で、主人は、今日見聞きした事柄の全てを熟考しているのだろうか。目を伏せ、一つ納得したように頷くと、ようやく、一言だけ女達に言葉を返していた。
「――嫌だね」
明確なる、拒否の言葉。
しかも、ただの拒絶と言うだけではない。今まで真摯に女達に向き合ってきた態度とは一変、この主人と来たら、一体何様のつもりなのか、足を組んでふんぞり返ってのこの言葉なのだから堪らない。
「だ、旦那様……?」
「聞こえなかった? 『嫌だ』って言ったんだ、『嫌だ』って」
思わず、呆気に取られてしまった女達からの問いかけに、またも不貞不貞しい声が返ってくる。これには、流石に頭に来たのであろう、ハーレムの女の一人、カーラがかつて罵った言葉を用いて、即座に反論する。
「な、何よ、あんたもやっぱりけだものよ! 前の男と変わりないじゃない! そうやって、自分で戦う事を拒否して、ハーレムの主人の座を楽しもうって、そう言うんでしょ! 見損なったわ、姫様が買っている男だから、もしかして、と思って期待してみれば、やっぱり男なんて信用出来ない!」
かつて男にその性を踏みにじられたというカーラの叫びに、居合わせた女達も同調するところがあったらしい。次々と口を開いて、主人の方へと詰め寄ってみせる。
「カーラ! ええ、そうね、貴女の言うとおりだわ。いいわ、姫様に言って、この男も払い下げか殺処分にして貰いましょう! ね、みんな!!」
「……そ、そうよ。私達、男達に虐げられてから、紅玉騎士団の騎士に戦闘訓練受けてるんですからね! もう男の言いなりにはならないわ! みんな、この男、簀巻きにして姫様の所に放り出しましょう!」
だが、そう息巻いて、拘束用の縄を次々と取りだして見せる同胞の女達を前に、金髪の主人は、眉一つ動かせることもしない。ただ、変わらぬ態度で、以前より短くなった金髪をいじって見せると、一つ、意外な問いを口にしていた。
「……ああ、そう言えば、彼女、ここにいるんだろ? ちょっと、連れてきてくれないか」
突然の、訳の分からぬ問いかけ。それに、激高していた女達の手が、一瞬で止まる。
「か、彼女? い、一体、誰のことです?」
猛る若い女を制して、マダム・シェリーがそう問いを返せば、主人はまたその艶めく金髪をさらりと撫でて、答えを紡いだ。
「ええと、……何て名前だったかな。忘れてしまったけど、……ほら、僕がベイルーンであの雌蟷螂に捕まったときに、一緒に連れてこられた女奴隷が居ただろう? あの後、確か、主人である市長がぶっ飛ばされて、行く当てが無くなった彼女もこのハーレムで庇護されていたはずだけれど……」
「は、はあ……。新入りのサーシャのことでございますか? 確かに、彼女はおりますけれども……」
「うん、それそれ。ちょっと、連れてきて」
一体、たまたま立ち寄った交易都市で、一緒に捕まった女奴隷に何の用事があるのか。分からぬままにマダムは、他の天幕で食事の用意を手伝っていた元女奴隷を連れて、主人のいる天幕へ戻った。すると、連れてきたサーシャの方は、久しぶりに恩人に会えたのが嬉しいのか、満面の笑みを浮かべて、即座に主人の元へと駆け寄っていた。
「リュート様! ああ、良かった、またお会い出来て! 私だけこのハーレムに預けられて、将軍様にリュート様が連れて行かれた時は、もう、どうしようかと思いましたけれど! ずっと、恩返しをしなくてはと思っていても、あの後、ちっともお会い出来なくて、まさかと案じておりました。でも、驚きましたわ。こんなハーレムのご主人様であるだけでなく、帝妹様の旦那様であられたなんて……」
そう畏れ多さを滲ませる台詞を吐きながらも、元女奴隷サーシャの頬が、恋する女特有の桃色に染まっているのは、誰の目にも明白のことだった。虐げられていた自分を、鮮やかに救って見せた出来事をその脳裏に思い出しているのであろう、その目はうっとりと、心酔の目つきに変わっている。
一方、その眼差しを向けられる主人の方はと言うと、相変わらず何を考えているのか分からぬ無表情のままで、入り口に控えている女騎士ジェックの方を見遣った。そして挨拶もそこそこに、元奴隷サーシャに向けて、ジェックには分からぬ故郷の言葉、クラース語で意外な問いを発していた。
「サーシャ。君は、ここの暮らしに満足している?」
「……えっ。……ええと、……はい、そうですね。市長の奴隷でいた頃よりは、ずっと……。はい、……リュート様もいらっしゃいますし……」
突然の母国語での問いに、何を答えていいのやら、分からぬままに、サーシャがそう同じクラース語で答えを返すと、主人はさらに無表情に問うてきた。
「ふーん。じゃあ、そのいい暮らしを楽しんでいるところ悪いんだけどさ。その市長の奴隷から助け出した恩、とりあえず、今、僕に返してくれる?」
……恩を返せ、とは一体何のつもりなのか。
同胞なら助けて当たり前。それを笠に着て女に何をさせるつもりなのか、と居合わせたハーレムの女達から、針のように鋭い視線が主人に送られる。一方で、恩返しを強要された元奴隷サーシャの方は、頬を染めて困ったように、もじもじと俯いて見せた。
「え……、あ、あの、恩返し、と申しましても……。私、持っているものと言ったら、この身一つくらいしか……。い、いえ、その、嫌だ、と言うんじゃないんですのよ? あの……、リュート様がどうしても、と言うのでしたら、私の身体くらいいつでも……」
この国に来て、初めてであった頼れる同胞の男。しかも、見たことのないほどの美形で、王家の血筋だという男に、この身を救われたのだから、サーシャは一度の夜伽くらい求められても当然、むしろ、この方に愛されるのだったら本望、とさらに頬を染めて、覚悟を決めていた。だが、その桃色の頬とは一変、当の思い人からは、あっさりと酷い言葉が返ってくる。
「うん、じゃあ、とりあえず、売ってきてくれる? それ」
そう言って主人が指し示したのは、女奴隷サーシャのふくよかな胸だった。
これには、居合わせた女達が堪らず――。
「な、何よ、この鬼畜! 助けた礼に、サーシャに身体を売れとか、信じられない! 今すぐ簀巻きにしてやるわ!」
「サーシャ! いくら助けられたからって、こんな男の言うこと、聞くことなんかないわ! 私達女が守ってあげる! 男なんかに頼らず、女は女同士、自立して生きるべきよ!!」
きんきんとした女達から浴びせられる怒声と、向けられる縄に、流石に主人の方も辟易したのであろう。うざったげに女達を払いのけると、さらに、サーシャの胸元に手を伸ばして見せた。すると、その胸の谷間には、きらりと輝く上等の首飾りの姿。
「誰が売春しろとか言った。僕が売れと言ったのは、これ。サーシャはあの市長から、この装飾品貰ったんだろ? あんな市長からの贈り物に、未練はないよな? だから、これ売って旅費にしろって言ってるんだ」
「……りょ、旅費? 一体、どこまでの……」
確かに、言う通り、サーシャはあの交易都市でこの男に助けられた時にも、愛玩奴隷として、それなりの身なりや装飾品が与えられていた。それを売ることについて、何の躊躇いも無いことは事実である。だが、それにしても、この男の真意が読めない。思わず、そう問いを返していたのだが、男からは、あっけらかんとした答えが返ってくる。
「決まってるだろ、ここから交易都市ベイルーンまでの、だ。僕の虎の子は雌蟷螂に没収されてしまったからな。その装飾品、ここの女騎士辺りに売れるだろ。サーシャ、その金を元に、君、ちょっとベイルーンに帰ってくれないか」
この元奴隷の女サーシャにとって、あの、かつて虐げられていた都市に戻れとは、あんまりである。これには、流石のサーシャも堪らずに、反論を試みる。
「ど、どうしてですか? わ、私、リュート様のお側に居たいです。いくらあの悪徳市長が将軍様の手で罷免されたからって……」
「いいから、行ってくれ。そして、連れてこい」
有無を言わせぬ主人からの返答。これに、サーシャがさらにその真意を問おうと顔を上げれば、そこには、今まで見たことがないほどに忌々しげに眉根を寄せて、短くなった金髪をいじる主人の姿。
「……とりあえず、あのチビ助にこの金髪、持ち逃げしたツケを払わせる。いいから連れてこい、あの闇商人、ヒルディンをな」
今、どうしてこの場で、あの小人族の闇商人が必要なのか。
誰もが分からぬままに、主人の顔を見遣るしか出来ない。そんな中、主人は女達からの視線など、毛ほども気にする様子もなく、座っていた椅子から腰を上げると、一人、悠々と天幕の中を歩いて、出口へと向かった。だが、そこには、彼の前に立ちふさがるように、天幕の出入り口に佇む女騎士、ジェックの姿。
かつてこの大陸の西で暮らした、神を信じぬ戦闘民族の末裔というその女騎士は、男であるリュートよりも頑健な身体で、彼の身を天幕の中へと押しとどめた。まるで、男奴隷風情が姫様の頼みを蹴って、ここから出ようなんぞ言語道断、とでも言いたげなその態度。どうやら、いつぞやの交易都市でのこの男の逃亡劇が、彼女に、警戒心をより抱かせているらしい。有無を言わせず、太い腕で彼の行く道を遮って来る。
それに対し、止められた男の方は、背の高い彼女を見上げるように睨め付けて、リンダール語で嘲るように言葉を返した。
「……女。確か、ジェックだったか。……止めるなよ、僕はお前のご主人様の旦那様だぞ?」
それでも女騎士の手は、退く気配はない。のみならず、男の態度に、不審げな面持ちで、問いただすような視線を送ってきている。
「何だ。さっきの女達との会話が気になるのか? なぁに、気にするな。ちょっと、僕の可愛いハーレムの女達に愛の言葉を囁いていただけだ。……何なら、お前にも囁いてやろうか?」
この台詞には、堪らず、女騎士が即座に、馬鹿にするな、とばかりに、彼女のお気に入りの得物である戦斧へと手を伸ばす。だが、当の男の方はと言うと、女の傷の付いた喉元へと手を当てて、さらに嘲笑混じりに言葉を返してみせた。
「僕の行動について、お前の主人に報告したければしたらいい。……と言っても、この喉じゃ、喋れないだろうけどな」
その言葉は、どうやらこの女騎士の逆鱗に触れるものだったらしい。それ以上言うな、とばかりに、戦斧を男の頭蓋にぴたりと突きつける。
しかし、男の方はその得物に少しも揺るぐ様子は見せず、さらに、女の痛々しい喉を指で、するり、と撫で上げると。
それに怯んだ女の隙を突いて、さらに首に腕を回して。
「可哀想にな。お前だって女なのに。……こんな傷、付けられて」
そう言って、おもむろに首に唇を寄せると。
躊躇いもなく、その首に付けられた傷跡を、……ぺろり、と舐めて見せた。
この行為には、流石の最強の女騎士も堪らず――。
「――――――っっ!!」
驚きのあまり、声に成らぬ声を出して、顔を真っ赤に染めやるしかできない。当然、突きつけていた得物からも、へたり、と力が抜けて。
「退け、ジェック。退かないと、もっと凄いことするぞ。困るだろ? ご主人の夫と、あらぬ仲が騒ぎ立てられたら。うん? 忠誠心ご立派な女騎士さん」
囁かれた言葉に、思わず、へなへなとその場に腰を抜かしてしまった。
「……そうそう。いい子だね、ジェックは」
またも届く、甘い悪魔の囁き。
彼女にしてみれば、それは。
「ジェック?! ちょ、ちょっと、どうしたの? 旦那様に何言われたの?」
その、有翼の民の女からの心配する言葉すら耳に届かぬ程に衝撃的で。まるで、体中の血液が、一気に顔まで駆け上がってきたかのような、そんな心地を覚える。とにかく、動悸が、止まらない。
何しろ、忌むべき混血として、虐げと戦いの内に生きて来た彼女にとって、初めての、男からの言葉だ。
……『可哀想に』。『女なのに』。『いい子だね』。
女として、扱われた。それは、今まで屈辱にしかならないと思ってきたのに。
どうして、こんなに。
異民族の、しかも主人の夫からの囁きに、どうしてこんなに心が、ざわめくのか。
女騎士ジェックには、理解出来ない。
ただ、何故か、怒りの炎を灯したように輝く男の碧の瞳から、どうしようもなく目が離せなくて。
思わず、去りゆく男の横顔を縋るように追ってしまう。
だが、そんなジェックの視線とは裏腹に、男の歩みは止まることなく、後ろから、有翼の女達の引き留めの声がかけられる。
「ちょ、ちょっと、旦那様?! ど、どちらへ行かれるんです? 私達との話はまだ……」
「必要ない。逃げるつもりはないから、安心しろ。僕の決定は、追って連絡する」
「な、何ですか。そんな勝手に……」
天幕の入り口に掛かっている幕を捲って、外へ出て行かんとする主人を何とか引き留めようと、さらに有翼の女達が追いすがるが、彼の足は止まろうとはしなかった。ただ、……君たちに悪いようにするつもりはない、と言い残すと、妾である彼女達に、一言、行き先を告げて見せる。
「……ちょっと、夜這いしてくるだけだ。本妻のところにな」