第九話:出征
素肌に、秋の冷えた空気が凍みた。
ぶるっ、と一つ肩を震わせると、レミルは床に脱ぎ捨てたままになっていた服を拾った。ぎしり、とベッドが音をたてる。
「う……ん」
しまった、とレミルはそれ以上の動きを止め、慎重にその声が発せられた自分の傍らを見やった。
規則正しい寝息が聞こえてきた。よかった、起こさなかったみたいだな、とレミルは安心して一息つく。
まだ明けやらぬ朝の光のなか、艶やかな黒髪が濡れたようにシーツに波打っていた。その持ち主に気付かれぬ様に、レミルはそれを指にからませて、軽く口付けをした。
それだけで、込み上げてくる甘酸っぱい想いで、胸が締め付けられるというのに、レミルは黒髪の下に隠されていたものに、さらに顔を幸せそうに綻ばせた。
白磁のようなすべらかな肌に咲いた赤い花。じん、とレミルの体の芯が熱くなった。脳裏に昨日の情事が甦る。
――トゥナ。
そう愛しい女の名前を呼んで、今すぐきつく抱き締めたい。何度でも愛していると言って、口付けしたい。
レミルはまるで熱病に冒されたかの様な感覚に襲われていた。
目の前の女が愛しくて愛しくてたまらない。頭がぼうっとしてそれだけしか考えられない。こんなに幸せな気分になったことはない、と思う。
だが、それと同時に、レミルはいい知れぬ不安にかられていた。
この女がいなくなったらどうしよう。
この女を失ったら、どうしよう。
この女がいない幸せなど、あるのだろうか。
レミルには、この幸せを失うことが、何よりも恐ろしかった。
レミルは彼女の頬に近付けた唇を、それに触れる事無く離した。
嫌な考えを振り払うように、レミルは首を振って、その場を離れる。持っていた服を簡単に着ると、その寒気も少し和らいだ。
小さなアパートの、これまた小さな窓から外を伺う。二人の息が籠もっているのか、窓は真っ白に結露していた。指できゅっとそれを拭うと、その指のあとから、ようやく登りかけた朝日が眩しく部屋に差し込んできた。
レミルはその光を、目を細めながらも、しっかりと見据える。
「う……ん、レミル、起きてたの?」
後ろから声がかけられた。
「ごめん、トゥナ。起こしちゃったか」
トゥナは起き上がると、恥ずかしそうにその何も纏っていなかった肢体を毛布に包む。それでも隠しきれない首元の赤い跡が、レミルにはうれしかった。まるでこの女が自分の所有物である証のような気がして、それは、レミルのなかにある男の征服欲をひどく満足させた。
「いいえ。もう起きなきゃ。私だって仕事に行かないと」
そう言ってトゥナは壁に掛けられた小さな鏡を見ながら、艶めく黒髪を梳きだした。小さいアパートに、女の香りが充満する。この甘さは、男臭い鍛練所宿舎ではけして味わえないものだ。
「レミルだって、所に帰るんでしょ。朝帰りだってばれたら、まずいんじゃないの」
二人が結ばれたあの収穫祭の夜から、四日目。
この若い男女を止めるものは、もはや何もなかった。ただ、ただ、二人は、毎夜お互いの存在を、そしてその熱を、確かめずにはいられなかった。
「ねえ、今晩どうするの? ご飯ここで食べるなら……」
トゥナの言葉が遮られる。
その顎をレミルの指が絡め取り、否応なく、唇がかぶせられていた。
「ん……もう、朝からどうしたっていうのよ」
恥ずかしそうに唇を撫でながらも、トゥナの言葉には女としての自信が満ちあふれている。この男は自分に溺れている。この男は間違いなく私のもの。彼女の唇はそう語っていた。
「トゥナ。今晩は来れない」
男のその意外な言葉に、女は少しすねたように口を尖らせる。
「あら、今日は遅くまで授業?それとも……」
「違うよ。今日だけじゃないんだ。明日もその次も、来られない」
全く予期していなかったその言葉に、女は怪訝な顔をして、眉をしかめた。
「じゃあ、なんだって言うのよ」
まさか、他に女ができたわけでもないでしょうね、あれだけ昨日私をむさぼっておいて。女の目線は挑発的にそう語っていた。
レミルはその女の激情をひどく嬉しく思いながらも、少し寂しげな顔をして、その首を横に振った。
「俺、行くつもりだよ」
どこへ、と敢えて明言しなくても、女は、男の言わんとすることをすべて理解した。
「どうして?! どうしてよ」
未だ素肌に毛布を巻き付けただけの姿で、女は激しく男の肩を揺さぶった。
「どうして、戦場へ行くなんて言うの!!」
収穫祭の日から四日。
すでに街は、リンダール帝国再侵攻の話題で持ちきりになっていた。無論、早々に東部全諸侯に招集がかけられたことも、である。
「クレスタからも兵が出る。もちろん父さんもだ。俺はそれについて行く」
ぎり、と肩に食い込む女の爪の痛みにも、男は少しも揺るがなかった。
「どうしてよ!! お父様が行かれるならあなたまで行く必要ないじゃない!! どうして、どうして、あなたまで……」
女は窓を背に、なおも男に食い下がる。窓から差し込む朝日が、毛布を巻き付けただけの女の肢体をより一層、くっきりと浮かび上がらせた。独特の流れるような曲線が露わになる。
その細腰を、きつく抱きしめたいという欲情を、ぎゅっと押さえ、男は静かに言った。
「俺は、男だから」
その答えは、到底女に承伏できるものではなかった。
「な、なんでよ! 一緒にクレスタへ帰ろうって言ったじゃない! 一緒に……」
そう、言いつのる女の手だけを、男はきつく握りしめた。
「守りたいんだ。君を。そして君との生活を」
一瞬、女は言葉を失った。
その隙を見計らったかの様に、男は女をきつく抱き寄せる。
「愛しているよ、トゥナ」
まるで、その耳たぶに食らいつくように、男はそう囁いた。
「俺は行かなきゃ。今、行かなきゃいけないんだ」
まっすぐに、女の瞳に向かってそう言うと、男は女の細腰から手を離す。
そのまま、くるり、と踵を返すと、男は振り向きもせずドアへとその歩みを進めた。
「ま、待っ……」
女の足はまるで金縛りの呪文をかけられたかのように、動かなかった。追いかけて、止めなくちゃ、私と一緒に、いて欲しいって言わなくちゃ。そう気持ちがはやっていても、その足は動こうとしない。
無情にも、バタリ……とドアの閉まる音が、小さな部屋に響いた。
――バンッッッッッ!!!!
次の瞬間、その音よりも、数倍の音が、ドアを打っていた。
打ち付けられたドアの下に、無惨に枕が転がる。それは、ついさっきまで、二人の睦み合いをすべて見届けていた証人に他ならなかった。男の匂いをまだ残したままで、枕に詰められていた綿が、破れた継ぎ目から飛び散っていた。
「馬鹿ッッ!!!!!!」
愛しているよ、ですって?!!!
ふざけないで! ふざけないで!!!
女は男が去ったドアを、ギリ、と睨め付けた。そして、一つ、強烈にその心に思う。
――どうして、どうして、男ってこんなに馬鹿なのかしら!!
かちゃかちゃと、軽い金属音が翡翠館の一室に響いた。
「まあ、それでしばらく親父殿の事は後回しになるが……」
「……承知してます。はい、腕、上げて下さい」
その指示に主人は素直に従う。上げた右腕の下から、また、せわしなく金属音が響いた。その音を立てている従者は、ふう、と一息つくとその額の汗をぬぐって、目の前の男に尋ねる。
「レギアス教官、これで合ってますか? 鎧って着せるの難しくて」
従者のその問いに、巻き毛の長身の男は、主人の脇をしげしげと見遣る。
「うん、合ってる、合ってる。このまま今度は肩当てをだな……」
「おい、まだ戦場じゃないんだ。軽装でいい」
これ以上重くされてはかなわない、と黒髪の主人は腕を振りほどく。
「ですが、いざというときすぐに付けられないと困りますから。練習台になって下さい」
総重量がキロ単位になる肩当て、手っ甲、脚絆、その他もろもろの装備を手に、従者はなおも主人に詰め寄った。
「よい、よい。そんなものすべて付けたら半島まで飛べぬわ。それより自分の装備をすぐに着られるよう練習しておけ」
そう言って主人は窓際の机の上にある鋼の鎧を指さす。それを見た従者は不服そうに口を尖らせた。
「あんなもの必要ありません。皮鎧で十分です」
「たいした自信だな。お前が皮鎧で十分というのなら、私は舞踏服でも十分ではないか?」
「ご冗談を。あなたに怪我をされては護衛の僕が困ります。きちんと重装備で頂かないと」
主人の嫌味に臆する事なく、金髪の従者は今度は面当てのついた兜まで取りだした。その様子に、辟易しながらも、主人はなおも従者に嫌味を続ける。
「てっきり、戦地になど行きません、兄の側にいたいです〜、と泣きついてくるかと思っていたがな」
「……申し上げたでしょう。あの飴の分くらいはお役に立ってみせると」
むすり、と口を曲げて従者は主人を睨み付けた。
「そんで、少しは食べれるようになったか、リュート」
いつものごとく、距離が測れぬ巻き毛の男が、にこにこと笑いながら顔を近づけてきた。
「ええ。まあ」
そう言ってみせるが、未だリュートの食事ぶりは遅々として進まず、完食するのに一時間ほどかかる。お前は牛か、と、この黒髪の主人に揶揄された程である。
「いい加減、兄離れせんか。死にたくなければな。戦場はそう甘いところではない」
主人のその言葉に、リュートは一つ尋ねる。
「所長は、戦場に出たことがおありなので?」
その質問に、主人は心なしかその表情を曇らせて答える。
「……ああ。七年前の、ルークリヴィルの戦いが私の初陣だ」
先の戦争を終結させた『ルークリヴィルの奇跡』。リュートの父が、戦死した分け目の戦いだ。
「では、それが所長の最初で最後の戦、ということですね」
なあんだ、自分だって大したことないじゃないか、とリュートは主人を見遣る。
「おい、もう私は所長じゃない。お前だって今は所長付き秘書ではなく、ロクールシエン大公派遣軍総指揮官付き秘書兼護衛なのだからな」
「では、なんとお呼びすれば?」
「最初に教えなかったか? お前の主人の名を」
その答えに、リュートはまたむすり、と口を曲げた。
「ランドルフ様。よろしいでしょうか」
鎧の散らかったランドルフの私室に、恭しく、いつもの眼鏡が姿を現した。きらり、と眼鏡を光らせると、一つ礼をして彼は告げた。
「クレスタ伯が第一子、レミル・ニーズレッチェ殿、ご面会願うてございます」
――レミルが?!
リュートは咄嗟に、黒羽の主人の後ろに隠れる。あれ以来、一度もレミルには会っていなかった。今だって、一体どんな顔をしていいかわからない。
「よい、会おう。通せ」
後ろに隠れた従者に構わず、ランドルフはそう告げた。
すぐに、オルフェに案内されて空色の羽の青年が、部屋に入って来た。
レミルは正装していた。
すっと背筋を伸ばした彼は、ランドルフの前まで歩み出ると、礼に則ってその頭を恭しく下げる。
「我が主君、ロクールシエン家次期御当主様におかれましては恐悦至極のことと存じます。本日は父に先立ち、ご挨拶に参りました。私、レミルとその父クレスタ伯ロベルト、そしてその配下クレスタ軍三百、本日より貴下においてその命ずる所のままに、お働きいたしますことをお約束いたします。どうぞ、なんなりと、ご命令を」
その様子に、リュートは目を見張った。
それは、弟が初めて目にする兄の姿だった。いつもの優しい兄ではない。
凛とした一人の男がそこにいた。
思わず、リュートは黒羽の陰から、そっと顔を出す。
一瞬、兄と目が合った。
すぐに目をそらそうとしたリュートの碧の目を、レミルはまっすぐに見据えた。その一瞬で、リュートはレミルから目を反らせなくなっていた。その目に、一分の濁りもなかったからだ。
あの夜、自分に見せた嫉妬も、女に見せた弱さも、そこにはなかった。
「うむ、貴家の変わらぬ忠誠嬉しく思う。貴殿の父御にも感謝の意を表明する。到着しだい、こちらから出向こう」
ランドルフのその言葉にリュートは改めて気づかされた。
……義父が、来る!
これで、直接義父に会う事が出来る。ランドルフはそのことも含め、義父に会う、と言っているのだ。もしかしたら、ランドルフが聞けばあの義父も喋るかもしれない。あの密偵の黒幕、そしてあの手紙……。
「つきましては一つお願いが」
レミルの声が、リュートの思考を中断させた。
「なんだ。申してみよ」
緊張しているのか、レミルは一つ唾を飲み込む。
「はい。現在、鍛練所にて受講中の修練生達で出征を希望する者が数十名おります。まだ未熟な彼らですが、御主君のお役に立ちたいとの思いは他の兵士にもひけを取りません。彼らの身柄をクレスタ軍預かりにして、こちらで面倒をみてもよいでしょうか?」
そのレミルの申し出に、ランドルフは少しだけ、口の端を歪めて笑った。
「構わぬ。良きに計らえ」
「……御意!」
レミルはその言葉を受け、さらに低く頭を垂れた。
一体、どうしたというのだ。
これはあの兄なのか? これが、つい先日まで、自分を妬ましいと思っていた兄なのか?
何が、ここまで、兄を変えた?
リュートが声をかけるよりも先に、レミルが再び口を開いた。
「最後に、もう一つお願いが。……ふつつか者ではございますが、我が弟のこと、どうぞよろしくお願い致します。少々、跳ね返りな性格ではございますが、その手腕に関しましては、すべてに置いて私より勝る、我が自慢の弟です。なにとぞ、ぞんざいに扱われますことなきように、お願い申し上げます」
「うむ、確かにこれは私が預かろう。そなたも健勝であれ」
ランドルフからその言葉を受けると、レミルは満足そうに笑って、そのまま場を辞した。
最後に、彼はリュートににっこりと、微笑んで見せた。
少しの敵意も、悪意もない、純粋な愛情にあふれた眼差しだった。
「レミル!!」
リュートは、その眼差しにたまらなくなって、すぐに彼を追って、部屋を飛び出した。
「……あれの兄は、少し変わったな」
ランドルフのその呟きに、レギアスはにやにやと嬉しそうに答えた。
「男が変わる。その理由っつったら、一つだろ」
レギアスは何が嬉しいのか、そのにやにやを、にたにたに変えて、ランドルフに絡む。
「いいねぇ、そんな時期が俺にもあったっけな。なあ、お前にも覚えがあるだろ? 一人前の男としての自負と、根拠のない自信。ああ〜、青臭くっていいねぇ、青春だねぇ」
「お前が言うと下品でたまらん」
「何が下品なもんかぁ。恋はいいね。恋は人生という名の荒野に咲いた一輪の花。男は皆、そのために戦い、勝利を勝ち取るのさ」
「レミル! レミル!!」
リュートは部屋を飛び出して、呼びかけるが、すでに彼の姿はなかった。もちろん返事もない。
部屋の周りをあらかた探して、リュートは諦めたかのように、廊下のバルコニーから中庭を見つめた。
兄は、ひどく変わっていた。
まっすぐ、自分を、そして前を見据えていた。
……変えたのか、トゥナが。
何もしていないと、そう思っていたあの女が、変えたのか。
リュートは複雑な思いに駆られた。……悔しいような、それでいて、うれしいような……。
がさり、と突然、中庭の木が不自然に動いた。リュートはすぐに警戒を強め、剣に手をかけて、中庭に降り立つ。
「誰だ! 出てこい!! おとなしく出てこないとぶった切るぞ!!」
リュートのその脅しに、木の陰から、おずおずと小さな影が顔を出した。
「……す、すみません」
それはまだ十三、四に見える黒髪の少年だった。少し垂れた目がとても可愛らしい印象を与えている。見ると、とても身なりがよく、誰かの従者というわけでもなさそうだ。
それでもリュートは警戒を解かない。先のアランの件があったからだ。
「見ない顔だな。こんな場所で何をしている!」
突きつけられた剣先に、ひどくおびえながら少年は答えた。
「す、すみません。あ、あ、あの、兄上の、鎧姿を一度拝見してみたくて……」
「……兄上?」
リュートのその問いに、少年は困ったように、深々と頭を下げた。
「す、すみません、すみません。あ、兄上には、僕が来たこと、知らせないで下さいっ」
少年はそれだけ言うと、その背の翼を翻し、そそくさと中庭の木々の中へ消えた。ひらり、と一枚だけ羽が抜けて、リュートの前に舞い落ちる。
「兄上だって……?」
リュートはそれを拾い上げて、まじまじと見つめた。
それは、少しだけ白が混じった、黒羽だった。