8.十文字死す
聖ビーマ学園の旧校舎は、今から100年以上前に建てられた木造4階地下1階からなる古びた木造建造物で、雨風にさらされ続けたそれは息を吹き掛ければ今にも崩れそうなほど脆く、廊下や天井、壁に至るまでがすっかり朽ち果て人一人の重量さえ耐えられるものか怪しいまさに廃墟だった。
旧校舎が建てられた頃はまだ日本に魔法なる技術が確立される前で、全てが人力によって造られた現存する最古の建造物として、皮肉にも魔法の力を大いに借りて劣化度合いそのままに維持保存されていた。
「ね、ねぇ……、帰ろうよぉ……。危ないしバレたら怒られるし、絶対怪しいよぉ」
俺の後をつけて旧校舎へと忍び込んだ鎌倉リリーナは、弱々しくそう呟いた。
「帰るなら一人で帰れ、このヘタレストーカー予備軍」
俺は言い返すと、ひたすら階段を探した。
リリーナ・リリィの言う通り、この旧校舎は常時施錠されており、放課後になれば警備員が不定期に巡回を始める。
そもそも旧校舎があるこの区画は厳重立入制限区域であり、もし誰かに見つかってしまえば停学処分は免れないだろう。
そして更に奇妙なことに、校舎入り口には施錠の『せ』の字もなく、ここに来るまでに一切の教職員、警備員の姿を確認出来なかったのだ。
「……まるで俺を誘っているようだな」
「ぜっっったい罠だって! いつ引き返すか? 今でしょ!」
そんなやり取りを繰り返しながら校舎の屋上を目指す。
旧校舎の造りはさほど複雑ではなく、それから数分後には屋上へたどり着いた。俺は金魚の糞を手で制すると、息を吐く。
「ここから先は、選ばれた者だけが入れる聖域だ……。非モテ無駄金髪のお前は速やかに帰宅して、ベッドでおねんねしな」
「くっ……、あ、あんたを呼び出した物好きの顔を見るまで、帰るに帰れないのよ!」
俺はフン、と鼻を鳴らすと、扉を開ける。
「遅くなってすまない。幼子をあやしながらの移動でござ……」
瞬間、俺は目を見開いた。
「え……? 誰も、いないじゃん」
俺に惚れラヴレターを下駄箱にいれたシャイなキューティーがオクジョーでタイキーしていると、そう、思ッテ、イタ、ノ、ニ……。
怒りで裏モードへと突入しそうになる俺をよそに、リリーナは屋上の中央へと足を進める。
「あっ、紙が落ちてる。なになに……? 『職員室に来てください』何これ、待ち合わせ場所の変更?」
「……ククッ、なるほどな……。どこまでもシャイな子猫ちゃんだぜ。待ってろマイハニー!」
おかしい……。
そう疑問を抱くのは至極当然のことで、むしろ遅いぐらいだったらしい。
「『調理室に来てください』また変更? ずいぶん照れ屋さんなのね、この差出人」
「職員室の次は1年D組の教室、次は東階段2階の踊り場、音楽室と来て今度は調理室か」
まるでたらい回しだ。きっと調理室にも同様の紙が置かれているに違いない。
俺は職員が管理しているであろう状態のよいピアノに向かうと、白鍵を叩く。
音楽はいい。音楽は心を潤してくれる。リリンの生み出した文化の極みだ。
しっとりとした音色が響き、主のいなくなった他の楽器たちも、壁に飾られた偉人たちの肖像画も、目がカメラの役割を果たす猫型召喚魔獣でさえも、音楽室すべての観客たちが聞き惚けているようようだ。
「うわっ、あんたの演奏センス、無さすぎ……」
約一名を除いて。
しびれを切らしたリリーナ・リリィは「もう無理、先帰る」と告げると両の手を床について何やら唱え出した。
「おいおい、降霊術でも見せてくれるのか」
俺は演奏を止めると、絶望的に音楽の教養がないリリーナに問いかけた。
「ただいまから呼び戻す魂はこの学園の創設者にして聖豪の唄い手と称されたメメント・メリモリー氏で……、って違うし! また来た道を戻るのも嫌だから、空間転移魔法で……って、何で魔法が使えないの?!」
メメント・メリモリー氏の降霊に失敗したリリーナ・リリィは慌てふためきながら何度も同じ動作を繰り返すが、結局彼女がかの大魔法使いを呼び戻すには至らず、意気消沈した様子で体育座りを決め込むのだった。
「ど、どうして……? もしかして私たち、ここから出られないんじゃ……!」
「俺は魔法が使えないから分からねぇが、どうやら俺たちは何者かの罠にまんまと引っ掛かったらしいな」
天才的直感でそう悟った俺は、踵を返して、音楽室を後にした。「ちょっと待ってよ!」と慌てて着いてくるリリーナは、声を荒げながら尋ねる。
「これからどうするつもり!? 魔法も使えない、この時間じゃ誰も助けに来ない……。私たち、ここに閉じ込められちゃったんだよ!」
「やれやれ、ただでさえ容量の少ない脳を自らの炎で焼いてしまったのか? このA(あまりにも)F(ふざけた事ばかり言って十文字十一郎様の手を煩わせる低能で幼稚、ひいては冷静さを欠いて物事を正常に思考する能力が著しく低下した哀れな)O(女)め」
「なっ……、……ふふ、いいわ。ならそのA(圧倒的な)F(不条理でも乗り越えてきた凄腕魔法使い。見るものを魅了するその姿はまさしく灼熱の天女、炎を愛し炎に愛された)O(女)、その名もリリーナ・リリィがあんたの考えをそっくりそのまま代弁してあげるわ! ずばり、旧校舎まるごと焼き付くして脱出作戦ね?! 刮目しなさい、キモロンゲ侍! これが私の最高火力魔法、『焼キ尽クス者』!!」
リリーナは何やら呪文らしきものを唱えると、両手を前方に、盛大に振りかざした。
「……ふっ、魔力切れのようね」
さすがの俺も絶句し、言葉も出ない。いっそこのA(アホ)F(不思議ちゃん)O(女)を置いて一人帰宅しようかとも考えたが、これまで以上に鬱陶しい付きまといをされたくもないので、アホーホ・アホォにも分かるように説明をしてあげた。
「一体いつから―――ここに閉じ込められたと錯覚していた?」
「……なん……、だと……?」
今度は私の番! とでも言わんばかりに驚愕するリリーナを今度こそ俺は構うことなく、旧校舎の玄関を開け開いた。眼前に広がるのはいつも通りの夜空。
月が綺麗だ……。俺はホロリと涙を流す。もう恋なんてしない、そう誓った春の宵だった。
「な、なーんだ。閉じ込められていた訳じゃなかったのね、じゃあただのイタズラ?」
リリーナ・リリィは安堵したようにため息をつくが、すぐにその顔を強ばらせた。
それは、異質な雰囲気を放っていた。神秘的な月の光を浴びて、旧校舎の中庭にポツンとあった。
来るときはなかったはずの、1組の机と椅子。表面には削られた痕があり、ある文章が読み取れた。
『ガッコウをヤメロ でないとコロス』
眉間にシワを寄せ、嫌悪感を露にするリリーナに、俺は言った。
「俺の机だ……」
俺は1週間、学校を休んだ。