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月下狂人  作者: クラン
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プロローグ ~夏への戸口~

 十六歳の夏、僕たちは憂鬱と月の光にべっとりと染められていた。線香の匂い、銀紙の月、波の唸り、(うず)くような痛み。そんなあれこれが(いく)つも積み重なっている僕たちは、当然の(ごと)厭世的(えんせいてき)だった。




 坊さんの読経が永遠に続くような気がして、僕は酷く退屈だった。木魚のリズムと線香の匂い。押し殺したような啜り泣き。うんざりだ。


 六月の終わりに同級生が死んだ。学校からの帰り道、トラックに轢かれたらしい。詳しいことは分からないが、即死だったと聞いている。

 神妙な面持ちで訃報(ふほう)を告げる教師と、奇妙に静まりかえった教室は新鮮だった。不良気取りも、ファッショナブルな女子も、スポーツマンも、誰も口を開かなかった。死んだ生徒が、いわゆる不人気な子だったというのも関係しているのだろうか。教室の隅っこで本を読んでいるような生徒だった。その子の唯一の友達と言っていい女子は、唇を結んで俯いていた。


 葬儀は丁度教室くらいの小ぶりな部屋で()り行われた。ささやかな花祭壇と供物、座り心地の良い椅子、清潔な白壁。

 読経に飽きた僕は、横目で彼女を眺めていた。無表情には二種類あると思う。決然とした、揺るぎない無関心の表れとしての無表情と、どことなく不安定で(もろ)い、指先で触れただけでばらばらに崩れてしまいそうな無表情。彼女は後者だった。何か(こら)えているんだ。きっと、彼女自身も正確に把握しきれていない様々な感情を。


 そのうちに焼香の順番が回ってきた。


 遺影を前にすると、なんだか妙な気分になった。大して接点のないクラスメイトなのに、(いた)む気がどこからか湧いてくる。僕は形式的に焼香を終えて、歩調に気を付けながら自席に戻った。まじまじとは見なかったが、遺影として使われた真正面からの笑顔は全く知らない人のように思えた。

 彼女は焼香中も終始無表情だった。その胸の内に何が隠されているかは不明だが、弔意(ちょうい)と表現するにはあまりにまとまりを欠いた煩悶(はんもん)があるに違いない。それを覗いてみたい気もするが、(かえ)って分からないまま閉じ込めてあれこれと想像するほうが良い気もした。しかしそれは、考えるだけ虚しくなる。僕と彼女の間には埋めがたい距離があるのだ。少なくとも、僕はそう認識している。


 高校入学当初、僕と彼女の席が隣り合っており、他愛のない会話を幾つか交わしただけの間柄(あいだがら)だ。次の月には席替えがあり、それきり挨拶もしなくなってしまった。そんな関係。距離を縮める方法も勇気も、僕にはない。




 葬式後の数日間は、クラス中が水の底に沈んでいるみたいだった。どこかで誰かが喋っても(いびつ)に反響し、あぶくとなって消えていく。表情も動きも、みんなぎこちなかった。それもそうだと思う。座る人間の消えた席、透明の花瓶、一輪の菊。ステレオタイプな異物が教室を支配していた。誰もが違和感とその正体に気がついているのに、あくまでも気にしないように振る舞っている。


 そんな雰囲気も、日が()つにつれ薄まっていった。七月の半ばには連休の話題が臆面なく繰り広げられるようになり、普段通りといって差し支えない空気感になった。窓際の一席と、彼女を除いて。

 幾ら時間が経っても彼女の無表情は変わらなかった。以前から表情豊かというわけではなかったが、それまでの月並みな感情を()ぎ取られ、空虚の一歩手前でなんとか形態を(たも)っているような印象だった。


 彼女は決まって昼休みに、花瓶の水を代える。はじめはクラスメイトもいたわるような視線を向けていたが、二週間が経過しても繰り返される習慣にやがて目を背けるようになった。いつしか彼女は『いたわるべき存在』から『触れてはいけない存在』にシフトしてしまったようだった。


 彼女はあちら側(・・・・)にいて、クラスメイトは日常の側にいる。両者は分断され、交わることはない。その境界を自由に行き来できるのはひとりだけだった。名前は壬生(みぶ)。身長は女子にしては高く、痩せ型。濃いブラウンのショートヘア。スカートは膝上10㎝程度。よく校則違反で教師に引っ張って行かれるが反省している様子はない。実にあっけらかんとしている。そいつは花瓶を持った彼女に平気で話しかけ、クラスメイトたちからも忌避(きひ)されるでもなくコミュニケーションをとっている。「次、移動教室だから一緒に行こうよ」だの「駅前に美味しいコロッケが売ってる」だとか、あくまでも平凡な話題を、あちらとこちらの(へだ)てなくやってのけているのだ。


 正直、羨ましいとは思う。そこまで身軽に、こだわりなく接することができればどんなに楽だろう。

 



 彼女の習慣は夏休みの前日まで、律儀(りちぎ)に続けられた。彼女の側、日常の側、そして例外である壬生(みぶ)。この三つの関係性は何ひとつ変化がなかった。


 夏休み前の最後のホームルームが終わると、浮ついた嬌声(きょうせい)(はじ)けた。その中にいても、彼女だけは無表情のままだった。微動だにしないその姿は、以前よりも崩壊に向かっているように見えて、なんだか息苦しくなってくる。


 帰宅途中、僕は机の中に教科書類を一式入れたままだったことに気が付いた。これでは夏休み中の課題に差し(さわ)る、急いで戻らなければ。と思いながらも本心では放課後のあの席がどうなっているのか知りたくて(たま)らなかった。花瓶は、菊は、席は、どうなっているのか。彼女がそれをどうしたのか。


 教室に戻ろうとした僕は、咄嗟(とっさ)に扉の影に隠れた。いたのだ、彼女が。それも、あの席に座り、花瓶と菊もそのままだった。扉のガラス越しに、そっと覗き込む。彼女ともうひとり、壬生(みぶ)が教室にいた。彼女とは例の机越しに何か囁き合っているようだった。僕はしゃがみこんで、耳だけに意識を集中する。

 耳を澄ましても、囁き声が断片的に届くだけで言葉としては聴き取れなかった。自分の鼓動がやけに大きく、二人の会話を邪魔しているみたいだ。


 耳だけでは不十分なので、中腰になってもう一度ガラス越しに彼女たちを覗き込んだ。随分親密な調子で話し込んでいる様子だった。彼女はこちらに背中を向けているので表情は分からなかったが、壬生のほうは微笑混じりである。


 不意に、その微笑が消えた。そして壬生は花瓶を持ちあげる。微動だにしない彼女の頭の上で、中の水をぶちまけた。

 水滴が散り、菊が床へと落ちていく。からっぽの花瓶を机に置く鈍い音が響く。一瞬の事で、何も判断が付かなかった。一体何故このような事になっているのか全く理解ができない。


「死んで良かったんじゃない?」


 その声がはっきりと僕の耳に届いた瞬間、皮膚に熱が走り、身体は無意識的に動いていた。


 扉の音が強烈に響く。二人は同時に、僕へ視線を向けた。壬生はぎょっと目を見開いていたが、彼女は無表情だった。


「なにやってんだ」


 怒鳴るように叫んだつもりだったが、出てきた声は随分かすれていた。慣れない事はするものではない。後悔先に立たず。怒りに駆られながらも頭はクリアだった。


「どうかしたの、天田(あまだ)。忘れ物?」


 壬生の声はよく通る。滑舌がよく、声量も大きい。どうしても気圧(けお)されてしまう。


 彼女の髪から雫が落ちた。その無表情の眼の奥で、確実に何かが瓦解(がかい)しつつある。僕の頭の中で、どろりと液体が(あふ)れ出す感覚があった。

 僕は壬生に駆けより、そのままのスピードで肩を掴んで押し倒した。そして馬乗りになって、拳を振り上げる。


 結論から言うと、その拳を振り下ろすことはできなかった。振り上げた僕の腕を、何故か彼女の両手が掴んでいたのだ。どうして、という言葉すら出て来ないほどに僕は混乱していた。何で壬生を守る必要があるのだ。こいつが君に何をして、どんな言葉をぶつけたか理解しているのか。


「暴力はんたーい」


 仰向けの状態で、気だるげに壬生は言う。妙な表情だった。口元や眉間、鼻や頬の筋肉は普段と変わらない壬生なのだが、目元だけが違っていた。ぞっとするほど冷たく、無感情な目付き。ただただ不快のみを表現するような、そんな眼差し。

 彼女の両手が外され、僕は何も言えずに立ち上がった。


 壬生は「サイアクなんですけど」とか「シャツ濡れたし」とか「どーしてくれんのよ」とかぶつぶつ吐きながら椅子に腰かける。その目付きは普段通りの、楽観的で身軽で不満の多い女子のそれに戻っていた。


「さて」と壬生は彼女を見つめて切り出した。「月岡(つきおか)さん、どうだった?」

「まだ少しだけ、動揺してます」

「それは、天田が乱入したから?」

「両方です。壬生さんの言葉も、天田くんがしたことも」

「そう、残念」


 僕は説明を求めるように壬生を見つめる。しかし、反応は返って来なかった。彼女に目線を移しても、それは人形を眺めるのと同じだった。僕ひとりが取り残されているような疎外感と、行き場を失った怒り。発散できない感情は頭をぐるぐると撹拌(かくはん)していくみたいだ。


「ところで天田は、どうしてここにいるの?」


 不意に壬生が聞く。随分と素っ気ない口調だった。


 僕は呼吸を整える。今度はちゃんと声を出せるように、と。


「教科書を忘れた。それで、戻ってきたらおまえがとんでもない事をしてるのを見て、許せなくなった」


 話すほどに不機嫌な口調になっていくのを感じて、僕は僕自身が嫌になる。こんな直情的な人間ではない(はず)だ。これじゃまるで子供じゃないか。


「とんでもない事って?」壬生は首を傾げる。


「花瓶の水をかけたろ。月岡さんに」


 彼女は無表情だった。しかし、瞳は細かく震えているようで、おや、と思った。

 壬生はというと、手の甲を顔まで持ち上げて爪を点検しながら「そうだよ」とだけ答えた。


「なんだそれ」と思わず漏れた。壬生の言動が何ひとつ理解できない。開き直っているとも違う感じだ。無関心。それが一番近い。


「どうでもいいんだけどさ、天田って正義感持ってたんだ。意外なんだけど」


 指摘されて少し恥ずかしくなった後、急激に虚しくなった。僕自身の中に正義感とやらがあるとは思えない。行動したのは確かだが、そこに意志があったとはいえないし、倫理(りんり)や道徳が身体に()み付いているわけでもない。あまり直視したくはなかったが、僕は壬生に嫉妬したのだと思う。こだわりなく彼女に接近し、他愛なく言葉を交わし、そうして傷つけるその姿に。


 俯いて、自分の右手の甲を見つめた。正義。なんだか暴力の匂いがする。きっとそれは、血と涙の味がするに違いない。直線的な信念と豊かな肉体、そんなイメージだ。考えるだに恐ろしい。僕から一番離れたものだ。

 壬生は何か考え込むように机に肘を付いていた。その両脚は(せわ)しなくぶらぶらと振り子運動をしている。誰も口を開かなかった。


 えくちゅん。


 僕は、いや、壬生も同じだったろうが、初めそれが彼女のくしゃみだとは思えなかった。厳粛で息苦しい沈黙を、彼女が可愛らしく破るとは。相変わらず無表情だったが、やや俯いているように見えた。


 壬生は、からからと鈴が転がるような笑い声を上げた。嫌味のない、さっぱりとした笑いかただ。僕は怒っていいのか、一緒になって笑っていいのか判断がつかず、ただ立ち尽くしていた。


 ひとしきり笑い、指で目尻を拭ってから壬生は「さあて、解散解散」と呟いて立ち上がった。


「いや、待てよ」

「なんだよ天田、かまってちゃんかよ」

「いや、謝れよ、月岡さんに」

「なんで?」


 こいつは狂っているのか。またぞろ、怒りがぶくぶくと沸騰しかける。壬生へと一歩踏み出したところで僕は彼女の声を聴いた。


「ごめんなさい。壬生さん、不快な思いをさせてごめんなさい」少し、震えた声だった。何が彼女にこんな台詞を喋らせているのか、皆目(かいもく)見当も付かなかった。ただ、脅されているような口調ではなかった。


「別に。てかさあ、そういう事言うと天田が誤解するだけじゃん。あたしも殴られたりしたくないし」

「……そうだね」


 やはり、僕だけが取り残されていた。僕の正義感とやらが誤解なのだとするとそれは(かえ)ってありがたい気もしたが、混乱の渦中(かちゅう)で放置されるのはあまり良い気分にはならない。


「だから、どういう事だよ。説明しろよ」


 壬生は考えるように唸ってから、愉快そうに口を(ゆが)めた。

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