思い出と一杯のコーヒー
一章
こんな言葉を知っているだろうか。
――なにも後悔することがなければ、人生はとても空虚なものになるだろう――
これは画家のゴッホが述べたものを日本語訳したもの。一体どうしてゴッホの名言なんか持ってきたのかと問われれば、簡単に説明することができる。
わたしがゴッホを好きだから、なんて高尚なことを述べることができるほどわたしは生きていない。高校生にゴッホの良さはそうそう理解できるものではないと思う。ゴッホの良さどころか、絵の良さがわからないのだから。
話が逸れてしまった。わたしがゴッホの名言を持ち出した理由、それはわたしの父がゴッホの絵を好きだから。そして、その言葉が父の遺した言葉だから。
わたし、海藤 五十鈴は先日、父の海藤 文雄を亡くした。高校生で父を亡くすとは思いもよらなかった。事故死だった。
出張中にトラックに轢かれたそうで、わたしは父が亡くなってから三日後に、父の姿を見ることとなった。
わたしは父が嫌いだった。母とはわたしが小学生の頃に離婚。一人娘のわたしだったが、経済力等の面を加味して父に着いて行くこととなった。その頃はまだ、わたしも父のことが好きだった。勿論母も。だから泣き叫んだことを覚えている。なぜ離散するのかと。
そんなわたしを慰めたのは父だった。母はわたしを茫然と眺めるばかり。その目にわたしは感情を感じることができなかった。それからは父に着いてくることができて本当に良かったと思っている。
しかし、それからの父は変わってしまった。明るくて、力強かった父は消え、弱弱しい父となった。まだ暴力を振るわれた方がよかったかもしれない。
中学生に上がり、多感な時期となったわたしは父にあたった。お父さんがしっかりしていれば、お母さんはいなくなったりしなかった。片親なんていやだ、と。
母のいないわたしは家事をやらなければならなかった。しかし、友達はみんな放課後に「どこへ行こうか」「なにをしようか」と楽しそうに話している。わたしは家事があるからいけない。どんどん友達はわたしから離れていく。そんな状況が耐えられなかった。
わたしは家事を放棄した。夜遅くに帰るようになった。父と顔を合わせないように。
ある晩、たまたま父が起きていた。食器を洗って、わたしの分の食事にラップをかけているところを目撃した。その小さく丸まった背中に苛立ちを覚え、怒鳴りつけて料理の盛ってある皿を床に叩き付けた。
それでも父は怒ることもなく、すまない、すまない、と謝るばかり。わたしはそんな父に呆れたのを覚えている。きっと泣き叫ぶわたしを見つめた、最後に見た母の目と同じ目をしていただろう。
畏怖と恐怖、恨みをもった母と同じ目をする自分に嫌悪を抱き、自殺することも考えたことがある。しかしわたしにそんな覚悟はなく、なるべく父と顔を合わせないようにする生活が続いた。
高校にあがる少し前、とても印象に残る会話をした。
その日は珍しく父が酔っぱらっていた。まあ姿を見ること自体久方振りだったので、その間のことは知らないが。
中身の少し入ったビール缶を片手に握りながら、父はつっぷして寝ていた。
「邪魔」
わたしはそう言い捨てて自室へ戻ろうとした。しかし、父に呼び止められた。
「ちょっと来なさい」
いつもなら、すまない、だとか、ごめんな、と謝罪するばかりの父が、珍しく語気を荒げてわたしを呼んだ。
そんな父に驚き、わたしは大人しく近づいた。その時、父の柔らかい笑みが目に入った。
「色々心配したが、お前も大きくなったな。それでもまだ中学生だ。お前が早く大きくなって一緒に酒が飲めるようになって、男も連れてきて、その子も一緒に酒を飲むのが父さんの楽しみなんだ」
そこでわたしは思い出す。ゴミ箱にもどこにもお酒のゴミがないことを。そして、離婚する前、父はいつも家でお酒を飲んでいたことを。
父は自分の好きなものを絶ち、男手ひとつでわたしを育ててくれたこと。
それに気づくのにわたしは四年の月日を費やした。気づくのは一瞬。しかしその行為は誰に気づかれることもなく四年間続けられてきた。
わたしは父に今までなんてことをしてしまったのだろう、と後悔した。それからのわたしは百八十度、とはいかなくとも一度ずつでも自分を変える努力をした。
父に酷い言葉を言わない。家事の手伝いをする。早く帰る。友達づきあいを考える。
やれることをこつこつと、と考えていた。その矢先である。
まだ父とはうまく話せないものの、ぎこちないながら「いってらっしゃい」くらいは言えるようになっていた、高校が始まって三週間ほど経った頃。父の転勤が決まった。
顔には一切出さず「あっそ」と素っ気なく返事したが、内心始まったばかりの高校生活に緊張しているわたしにとって、それは動揺するには充分な出来事だった。
そして、父が転勤して二ヶ月後。今日から二週間前。父は亡くなった。
謝ることができなかった。感謝の言葉を伝えることができなかった。父の夢が叶うことはなくなった。
それらの想いが入り乱れ、わたしは茫然自失、虚空を覗くようになった。
涙は枯れ果て、なにもする気が起こらない。それでも父の葬式だけはどうにか出したかった。親戚に頼り、なんとか式は執り行われ、父を送り出すことができた。
そこでわたしは生きる意味を失ったように思ったのだ。自分はなにを目標に生きればよいのだろう。父に恩返しすることは、もうできないのだ。
父がゴッホの絵画が好きなことを知ったのは『あの日』の後。たまたま、偶然知ったのだ。父になにが好きかと問うたときに教えてもらった。
そのときに、先ほどの言葉『なにも後悔することがなければ、人生はとても空虚なものになるだろう』も一緒に添えて。
きっとわたしの心中を察して送ってくれた言葉なのだろう。しかし、今ではその言葉を憎む。
後悔さえなければ、わたしは人生を歩めただろう、と。
ふと街に出た。数日振りの外の空気はわたしの肺を満たす。そして吐き出される。吐き出された息は、都会の空気なんかよりよっぽど重たく暗いものだろう。
父を送り出して、生きる意味をなくしたわたしは死に場所を探した。どこか楽に死ねる場所はないかと。誰にも見つからずに死にたいと望んだ。こんな恥じだらけの人生を歩んだのだ。誰にも見つけてもらいたくない。
後悔なんて概念がなければ、わたしは今どうしていただろう。
ない未来を考えても仕方がない。わたしは死に場所を探す。
車が横を通る中、わたしは細い路地に出くわした。こんな場所に路地などあっただろうか。以前、夜中に出歩いて遊んでいた頃、この辺にもよく足を延ばしていたというのに。
もしかしたらこの先に誰もいない地が広がっているかもしれない。
誰にも見つからない場所があるかもしれない。
この先に行けばきっと。
そんなどうしようもない考えが頭に浮かぶ。そしてわたしは路地に足を踏み入れた。
路地を進む。周りの民家から生活感を感じることはなく、町工場の横を通ってもなんの音もしない。こんな平日の昼間になぜか。そんな疑問が浮かぶと同時に、先ほどの考えが強くなる。この先に行けばきっと。
幾度曲がっただろうか。
人はいなくとも猫がいた。ブチ模様の猫がわたしの前に姿を現す。ついてこいと言わんばかりに尻尾を揺らし、わたしの前を歩き始めた。
わたしも大人しく着いて行く。どこまでも、どこまでも。
もうここがどこなのかわからない。随分進んだはずなのに、日が傾くことはない。どれだけ歩いたのだろう、と父の形見である懐中時計を確認するも、壊れてしまったのか止まっている。ゆすっても動かない。リューズは接着剤で止めたかのように動かない。
まあいいか。これから死ぬのだから。
猫はこの路地に詳しいのか、すいすいと進んでいく。どこまで行くのだろう。不安はないが、不思議には思う。
猫が右へと曲がった。わたしも右に曲がる。
追っていた猫はいなくなっていた。代わりに目の前には小さな建物が。下町風情の続いていた風景に似つかわしくない、西洋風の古そうな小屋。その建物の前には木でできた看板が置かれている。
喫茶 cianalas――
なんと読むのだろう。しあならす? 英語は苦手だ。そもそも英語なのかもわからない。不気味、というほどではないものの、異様な雰囲気にのまれたわたしはなにかに導かれるように店内へ。
中は真っ暗で、人の気配も感じない。やっていないというのに、あの猫はここへ案内したのか。
しかしここで死ぬのはいいかもしれない。早速首を吊るための道具を探そうと思った矢先、ぼうっ、とサイドの地面が照らされた。ろうそくによって赤く照らされた絨毯は、鮮やかなワインレッドをしている。
これでものが探しやすくなった。わたしは先へ進む。
外観からは奥行十メートルほどだと思ったが、ゆうに二十メートルは進んだだろう。いや、距離感がつかめていないだけかもしれない。いくら進んでも先が見えず、自分がどれくらい進んだのかわからなくなった頃だった。
ふわっとコーヒーの香りがして、わたしは目を瞑る。ゆっくりと瞼を開くと、暖炉とロッキングチェア、それに木製のテーブルが置かれてた部屋が現れた。暖炉の上には銀の食器に銀の燭台。下は相変わらずの絨毯。
壁には絵画が飾られている。誰の作品かわからなかったが、下に作者と作品名が載っていた。どれもゴッホの作品だ。なにかの運命か。下らない。
それにしてもこの部屋は寒い。外は七月ということもあり、うだるように暑かったはずだ。それだというのに室内は風も通っていないのに寒い。
寒さに身を震わせた時だった。
ちりちり、ぱちぱちとなにかが弾けるような、燃えるような音が背後から聞こえてきた。
暖炉だ。暖炉に薪がくべられ、火が灯ったのだ。独りでに。
「誰かいるんですか? 」
わたしは問う。しかし、薪の燃える音がこの部屋の静寂さを物語るばかり。
なんだったのだろう、とわたしは首を傾げ、ロッキングチェアに腰掛ける。小さい頃、これに憧れていた。
小さい頃の願いを叶えるように座って顔を上げたときだった。
知らない男が、ぬっとわたしの顔を覗き込む。
「きゃっ」
と、年甲斐もなく叫んでしまった。男は背筋を伸ばすと執事のように頭を下げる。
「これは失礼いたしました」
小馬鹿にしたような態度が鼻に付く。それにしても綺麗な顔立ちだ。外人だと思ったがその流暢に話す日本語が、彼がハーフなのではないかと疑わせる。
「あなたは? 」
わたしは彼に名を聞いた。父が亡くなってからわたしは人から興味をなくした。そのわたしが名前を聞く。おかしなものだ。
「名乗るほどでもありません。ですが、もし名前がなければ呼びづらいと仰るのであれば……アーバン、とでもお呼びください」
彼は再び頭を下げる。その洗練された動きは、人生の経験の浅いわたしでもわかるほど流麗なものだった。思わず見入ってしまう。
そんなわたしの顔を見て彼はくすりっと笑った。
「なにか私の顔に付いていますか? 」
「ああ、いえ、そんなことは」
思わずたじろぐ。照れたわけではない。あいにくそんな感情は持ち合わせていない。父の死と共に様々な感情を捨て去った。そのうちの一つ。
ではなぜか。彼の目が金色だったから。あまりに綺麗で美しく、全てを見透かすようなその瞳を見ることはわたしにとって苦痛だった。
アーバンは落ち着いた口調で話す。
「ご注文はいかがなさいますか? お客様」
注文? と言われても……。ああ、入り口に『喫茶』と書かれていたな。しかし、メニューもなしに注文を聞かれても――
「当店にメニューはございません。もし、決まらないようでありましたらお勧めをお持ちします」
わたしの心を読むかのように話す彼は、得意げな笑顔を見せた。そしてわたしの後ろへと進み、奥に消えていく。
そう言えば、財布を持ってきていない。
「あの、お財布を持って来ていないのですが」
振り返って大きめの声で言うものの、姿も返事もない。持ってきたときに言えばいいか。
そう考え、振り向いた時には彼の姿が目の前にあった。なんなんだ一体。
「お代は大丈夫です。お勧めをお持ちしました」
さっきから奇妙なことが起こり過ぎてもう反応することも面倒になってきた。わたしは出されたものを覗く。
たっぷりの生クリームがカップの上を占領し、下が覗けない。しかし、小さな隙間からは湯気が立っていた。横にはクリームを混ぜるためだろうか? 木製のスプーンも用意されていた。
「これは? 」
わたしの問いにアーバンは一際低い声で、私たち意外に誰がいるわけでもないというのに小さく私の耳元で囁いた。
「お客様のような、若い女性に大人気のウインナ・コーヒーでございます」
ウインナ・コーヒー? ウインナー? どこにあるというのだ、ウインナーは?
「ウインナ・コーヒーとは、ヨーロッパはオーストリアに存在する、ウィーンという地方の飲み物で、ウインナとはウィーン風の、という意味です。お望みでしたらウインナーもお持ちいたしましょうか? 」
また心を透かし見られたかのようなセリフだ。
「結構です。それで、これは一体どう飲むのが正しいのですか? 」
わたしの素直な疑問もどうせバカにしたように返されるのだろう、と思ったが案外丁寧に答えてくれる。
「そうですね。コーヒーは好きなように嗜むのが一番ですが、一般的にウインナ・コーヒーはクリームとカップの隙間からコーヒーを啜るように飲みます。そしてスプーンでクリームをすくい、一口。そうやって苦みと甘味を堪能します。コーヒーは下の方にザラメが溶けていますので、最後は独特の香ばしさとクリームとは違った甘味を感じて楽しんでいただければと」
彼は飲み方をわたしに教えると、「それではごゆっくり」と再びどこかへ消えてしまった。
わたしは言われた通りに、隙間から恐る恐るコーヒーを啜る。苦みが口に広がる。
途端に、頭に映像が浮かんだ。父と母の三人での暮らしの映像が。両親が口論している。なぜこんなものが浮かぶのだろう。
そんな疑問が浮かんでいるのに、わたしは次の工程に移る。ふわふわな生クリームを一口。
次に浮かんだのは、幸せそうに笑う一家の映像。
続いてコーヒーを啜る。
離婚したときの映像。やはりわたしは泣きじゃくっていた。
わたしは繰り返す。口に苦みと甘みが広がり続ける。その度に、楽しかった記憶、嬉しかった記憶、悲しかった記憶、悔しかった記憶が呼び起こされる。
次、次、とウインナ・コーヒーを味わっていると、生クリームがなくなってしまった。きっとこれはわたしの幸せな記憶が潰えた、ということなのだろう。
気付いた時には、次の一口を飲むことが怖くなっていた。わたしはためらう。
「あなたは、死に場所を探していたというのに、恐怖するのですか? 」
どこからか聞こえてきた声。それはアーバンのもの。しかし、辺りを見回すもどこにもその姿は見えない。
そうだ。わたしは死に場所を選んでいたのだ。ならばなにも臆することはない。そう思い、カップの底に指先ほどの深さを残したコーヒーを一口に飲み干す。
ザラメ独特の甘み。ほんの少しのクリームの溶けだした甘み。そして、コーヒーの苦みと香ばしさが鼻を抜けたときだった。
ほろ苦さのなかに、ふんわりとした甘ったるさを見出す。それは、父の夢の話を聞いてからの、わたしの記憶だ。
素直になろうと必死だった。
父の自慢の娘になれるように努力した。
父に心配かけてはならないと考えた。
その行動は照れくさかった。でも気付いてほしかった。わたしの、素直に伝えたかった父への想いを。
――ありがとう、五十鈴。一人にしてごめんな。でも、自分のために、生きるんだぞ――
父の声が聞こえた気がした。
そしてなにかに揺らされる。
「お客様、目を覚ましてください」
アーバンの声がする。わたしはゆっくりと目を開いた。
「あれ、わたし……」
気付いたら眠っていたようだ。そこで、持っていたカップはどうなったか、と確認すると、眠ってしまう前と同様にテーブルの上に鎮座していた。中身は空。
「お客様。よく眠られていたようですが」
彼は相変わらずの笑みで、わたしの目を見る。
確か最初あの目を見たときは、嫌悪感を抱いたはずだったが。今ではどこまでも吸い寄せられそうな気がした。
それに身体も軽い。ここのところ眠れない日々が続き、常に身体がだるかった。
おまけに心もほんの少し、軽くなっていた。夢だとわかっていても、父のあの言葉が聞けただけでわたしは嬉しかった。
「ごめんなさい。でも、とってもスッキリしたわ」
「随分と、明るい表情になられましたね。折角の美しいお顔なのですから。暗い顔はあなたに似合わない」
彼は平然とそんなロマンチックなことを言ってのけた。でも、あまりにも美しいその顔に大変合っている言葉だ。
気恥ずかしくなってわたしは顔を背けた。
「ありがとう、ございます」
気恥ずかしい? これも久しぶりに抱いた感情だ。なぜだろう。これもあの夢のおかげだろうか。あれだけ悲しんでいたというのに、なんと単調なのだろう。人間とは。それともわたしだけだろうか。
「努力した人間は、報われるべきです。それが、どんなに中途半端な結果におわってしまったとしても」
その言葉は、わたしに響いた。
その後、わたしはすぐに席を立った。たった一杯のコーヒーで何時間も居座るなど、失礼な気がしたからだ。眠っていたくせに言えたことではないが。
アーバンはわたしを店の玄関まで案内してくれた。来た時には気づかなかったが、あの長い廊下にも絵画が飾られていた。こちらは作品名も作者の名もない。しかしどれも人物画で、泣いている人、怒っている人、そして幸せそうに笑っている人が描かれている。
「お代は本当にいいのですか? 」
わたしは振り返って尋ねた。
「ええ。お客様の幸せが、私の幸せですので」
それではお言葉に甘えて。わたしは玄関戸を開けた。扉を閉めるときに、アーバンは咄嗟にわたしに声をかける。
「お客様! 申し訳ありませんが、扉を閉めて三歩進んだら絶対に表の通りに出るまで振り返らないでください。わかりましたね? 」
わたしはなんのことやら、と頭にクエスチョンマークを浮かべるばかりだが、ここまで親切にしてもらったというのにそれに背く理由もない。
「わかりました。ありがとうございます」
わたしは笑顔でそう言った。そしてゆっくり扉を閉める。
「もう会わないことを祈って」
ガチャリ、と扉の閉まる音と共になにか言葉が聞こえたが、すぐに内から鍵の掛かる音がした。
わたしは言われた通りに振り向かずに進む。来た時は幾重にも曲がって散々歩いたはずなのに、帰りは真っ直ぐ一本道があるだけだ。それも、十歩も歩いたら路地から抜けられそうだ。
大通りに出る。そこは、最初に迷い込んだときと同じ場所。時計を見ると、それは確かに時を刻んでいた。時刻は迷い込む寸前と五分ほどしか違わない。まさか一日あそこにいたのだろうか。
通行人に聞いてみると、日にちは変わっていない。たった五分であれだけのことが起こるなんてありえない。
わたしは思い出す。大通りに出るまでは振り返らないように、と言われたことを。だから振り返る。もう大通りに出たのだ。
しかし、後ろにあったのは電柱と壁。路地など存在しない。
「なんだったんだろう」
思わず口から出ていた。
アーバンという男。ウインナ・コーヒー。甦る記憶。父の言葉。
鮮明に思い出すことができるというのに、そこにはなにもなかったかのようだ。
久しぶりに怖いと思った。しかし、それ以上に、わたしの胸は感謝と喜びで膨らんでいるのだった。
読んでいただきありがとうございます。コーヒーの飲み方は人それぞれ。なにを思って飲むのかも人それぞれです。