イデア
「博士、サクラの容態はどうですか。」
「すまない、サトル。私の力不足だ。残念だが、もはや手遅れのようだ。」博士はうつむいた。
「心の準備をしておくれ。」
「そうですか。」サトルは言った。
「こんな時、本来ならば、涙を流すのですね。」サトルの声が沈んだ。
「だけど、私には流す涙がありません。
涙を流せない自分が悲しくて、そんな自分が嫌いです。」
博士は思った。
『だが、そのように感じることができることこそ、サトルが人らしい心を持っているという証拠なんだよ。』と。
博士は切り出した。
「今の科学なら、サクラの中に刻み込まれている記憶を別の場所に取り出すことができないこともない。あるいはサクラの頭脳部分だけを取り出し、エネルギーを供給することにより、物理的に維持させることもできないこともない。
君たちは貴重な存在だ。
やってみる価値は充分にある。だが、私は君たちの意思を尊重したいと思っている。
科学の進歩のためなら、ほかを犠牲にしてもいい、という発想は人類の驕りにしか過ぎない、というのが私の考え方だ。」
「博士、理屈を申しますが、それは犠牲の定義によると思います。この場合、私とサクラとを犠牲にしているとは考えない人も多くいるでしょう。
もともとがこのために存在している私達なんですから。」
博士はサトルの言葉を理解するのに少し時間を要した。
「では、実際のところ、サトルとしては、私が言ったあらゆる科学的手段を使うことを受け入れる覚悟があるということかね。」
「いえ、そういう意味で申し上げたのではありません。私は、現実にそのように思っている人が存在していると述べただけです。
私とサクラの方針は、まだ決めかねています。」
博士は尋ねた。
「サトルが考えあぐねている理由は何だい?」
「少し、複雑です。
博士がおっしゃったように、サクラの記憶や頭脳部分を他へ移し、物理的に維持させたところで、それが果たしてサクラなのか、ということを考えています。」
「つまり、存在の意義だね。」博士はサトルの言葉にすぐに反応はしたものの、サトルからそのような内容の話が出たことは予想外であった。
「科学的には同一のものと認識されるはずだがね。サトルなら私よりそのあたりの判断は即座にできるのでは。」
「ただ、ハード、ボディーは異なります。」
「おお、そうなのかい?
意外なことだが、サトルはサクラのボディーをサクラの存在の重要な要素だととらえているのかね。」
サトルは少し間を置いた。
「・・・私の記憶では、『フランケンシュタイン』という作品はそのようなことを否定的にとらえていたと思いますし、・・・多くの人が亡くなった親しい人の臓器移植に対し、別の意味を感じるのと、根源的には同じ話だと思いますが。」
「た、確かに、そうだが、サトルは・・・」博士は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「科学者としての興味で尋ねるので、気分を悪くしないでほしいのだが、一つ質問してもよいかね。」
「どうぞ。」
「サトルが、今言った『存在の意義』に関する言葉は、・・・その、何というか、『感覚、感情、感性』的な機能から出た発言なのかね。それとも、そのフランケンシュタインや臓器移植の情報から類推した発言なのかね。」
「博士。」サトルは呼びかけた。
「何だね。」
「人類さえも解決できていない問題を、私に答えさせようとしないでください。」
博士はサトルにそう指摘され、気づいた。
「・・・確かに、そうだね。」
人の感情に、与えられた情報がどこまで影響するのか、それは人類もまだ解明しきれていない。
「博士、サクラと会話はできますか?」
「残念だが、それはできない。」博士は首を振った。「認識力、いわゆる意識のない状態に陥っている。」
「そばにいたいのですが、それは許されますか。」
「ああ、いいとも。寧ろ、そうしてやってくれ。サクラに残された時間はこのままだと、もう、それほどないかもしれない。サクラもサトルにそばにいてもらう方がうれしいだろう。」
「ありがとうございます。」
サトルはサクラのそばに座って考えた。
「存在とその目的は切り離すことはできないのだろうか。
目的を達成するために、創られる。
目的を達成するためになら、存在することを許される。
それどころか、存在が終わりそうになっても、目的を達成するためなら、無理矢理にでも存在を続けさせられる。
目的が達成できないとわかったら、僕たちは消されるのだろうか。
僕たちは、本当に、他人の目的を達成するためだけの存在なのだろうか。
僕たち自身の中に、僕たちが存在する理由は、ないのだろうか。
僕たちはなぜ、存在しているのだろうか。」
「サクラ」
サトルはサクラを見た。
「もっと前に、こんなことを話し合いたかったね。」
サクラは静かに眠リ続けていた。
「でも、今はもう話せない。」
「博士、私としての結論を得ることができました。」
博士は、結論という言葉を使うところに、サトルの特徴性を感じながら答えた。
「そうかい。
で、どうなんだろう。サクラにできる限りの手立てを尽くすことを許してくれるかね。」
「いえ、サクラはあのままにして頂きたいです。」
サトルの意思は、博士が期待していたのとは逆の選択であった。だが、博士はサトルの意思を尊重しようと決めていた。
「そ、そうか。それが君の意思ならその判断を尊重しよう。」
「それともう一つ、博士にお願いがあります。」
「何かね。」
「私もサクラと一緒に存在を消していただきたいのです。」
「何だって!」博士はわが耳を疑った。「サトル、君はそれがどういう意味か、わかっているのかね。」
「もちろん、わかっています。」
「なんということだ。」博士は動揺した。「こんなことが・・・あり得ない…。」
「非人間的、人工的、機械的存在、ロボットやアンドロイドなどという言葉をあえて使いませんが、そのような存在の私とサクラが、個体的関係性、人間関係のような関係性をどれだけ持つことができるか、という実験のために私たちは存在していると聞かされています。」
「君の言葉でそう単刀直入に言われると引け目を感じてしまうが、その通りだ。」
「それならば、私が出した結論は、これはこれで、とても立派な研究成果ではないでしょうか。」
「『相手が死ぬのなら、自分も生きていられない』
人間の中では、少なからず持ち出される考え方だ。
実際にその通り行動するかどうかを別にしてだが、」
博士は間を置いて続けた。
「不謹慎と思われるかもしれないが、冷静な視点で話をさせてもらうよ。」
「どうぞ。」
「だが、この場合、大きな問題がある。」
「何でしょうか。」
「まず、君の存在を消すのは、君自身ではなく、こちらということになる点だ。
つまり、君自身、サトル自身はいわゆる自殺ができない。
サトルがその結論を導き出したとしても、その実行をこちらに投げつけるのはあまりにも残酷だとは考えないかね。
とはいえ、もちろん自殺行為を選択しなさいというわけでもないが、
そして、そこから派生するのだが、もう一つ、道義的問題がある。
サトルがそのような結論を得たからと言って、こちらが『はい、どうぞ』とならないことは、サトルも充分承知しているはずだ。
だから、我々は、サトルがそのような結論を導き出したこと自体に対しては大きな意義を認めるが、その結論そのものは実現されずに否定させてもらうことになるだろう。
もちろん、人間の世界でもそうなるものだし、それは、相手がサトルでも同じことなのだよ。」博士はサトルに言い聞かせるように説明した。
「博士のおっしゃていることは理解できます。」サトルは素直に答えた。「わかりました。もう申しません。」
サトルは続けた。
「うらやんではいけないかもしれませんが、人は多くの選択肢が与えられていて、とても羨ましいです。」
「多くの選択肢が与えられているということは、時として不幸な結果を招くこともあるのだよ。」博士はサトルにやさしく諭した。
「『ロミオとジュリエット』という作品がありましたね。」
博士はサトルが作品をたとえに選ぶ特徴性も認識した。
「その物語の悲劇的結末がとても印象深いので、長い歴史を通じて、多くの人々の心をとらえているのだよ。
つまりは、その物語の結末は多くの人々にとって、まれなケースなんだよ。
だから、そのような物語を決して自分の手本にはしないでおくれ。」
博士はサトルに釘をさした。
「博士は考えすぎです。」サトルはつぶやくように答えた。
「サトル、いよいよその時が来たようだ。」
「博士、私も立ち会わせてください。」
「もちろんだとも。さ、行こう。サクラに最後のお別れをしておくれ。」
サトルはサクラのそばについて、黙ってサクラをじっと見つめていた。
サクラには、もはや意識はなく、ボディーに繋がれた、サクラの容態を示す種々の機器の規則的な信号音だけが、ピッ、ピッ、とサクラの脈拍であると主張するかのように響いていた。
博士はサトルの横に座って、サクラの様子を見守った。
この段階に至っては、博士にできることは何一つなかった。
ただ、サクラの活動が停止するのを、待つしかなかった。
サトルは気づいていたかもしれない。この時、すでに機器の信号音は着実にその間隔がほんのわずかずつだが広がりつつあったことを。
博士の耳には同じ間隔で規則的に反復しているように聞こえていたが、100分の1秒、1000分の1秒ずつ、遅れていた。
サトルは何も言わず、微動だにせず、サクラを見つめているだけだった。
しばらくして、博士も信号音が遅れつつあることに気がついた。
腕時計をそっと見て、信号音の間隔を測ろうと思わずしたが、思い直して、静かに腕を下ろした。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、
二人はとても長い時間、その信号音を聞いていた。
サトルも博士もじっとその信号の消えつつある音に意識を集中していた。
ピッ・・・ピッ・・・・ピッ・・・・・ピッ
博士は思った。
『サトルの選択によって、サクラは亡くなろうとしている。
肉体ともいうべきハードの異常が、精神ともいうべきソフトの異常にもなり、
やがて、ハードの機能停止が、ソフトの機能停止ともなる。
今、まさに、それがサクラの身に起ころうとしていて、
そして、それがサクラにとっての死なのだ。』
博士は自分を顧みて冷静に分析した。
『なぜ、私は、感傷的になっているのだろう。
サクラは実験体に過ぎない。
だが、サクラの死には、実験体の機能停止という意味の他に、もっと重要な意味が込められているような気もする。
人工的、非人間的存在同士の個体間の関係性の実験をしていると自覚していながら、私自身が、人間と非人間的人工的存在との関係性の実験台になっていたのかもしれない。
それほどに、サトルとサクラの二人と私の関わりは深いものであったような気がする。』
ピッ・・・・・・・ピー・・・・・・・・・・・
・・・
博士は顔をあげ、しばらく待った。
そして、信号音がこれ以上は鳴らないことを確認した。
「サトル、サクラは逝ってしまったよ。」博士はサトルにやさしくささやいた。
「サトル・・・?」
サトルはサクラをじっと見つめたまま座っていた。
「サトル・・・」博士はサトルに手をそえた。
サトルは死んでいた。
博士は涙を流した。
「そんな・・・」博士には信じられなかった。
あり得ないことだった。
『サトルは死んだ。
サトルは自殺ではない。
もともとサトルは自殺ができない。それに、その後の分析の結果、サトルの内部に致命的な機能不全の発生したことが判明している。
それがサトルの死の原因だった。サトルに致命的な現象が発生したのだ。
偶然に、だ。
だが、本当に偶然なのだろうか。
私は、人工的、非人間的存在同士の個体間の関係性の実験を行っていた。
機械に、愛だの、友情だのは、芽生えないと考えていた。
変数的、論理式の統計数値の示す傾向を、そのようなものと名付け、認識するくらいのことはできたとしても、人間の複雑で、豊かな感情とは、根源的に異質なものであろうと予想していた。
だが、それでは、サトルの死は説明できない。
認めざるを得ないのだ。
もしかしたら、サトルは心や感情を、生きるために不可欠な、心や感情を持っていたのかもしれない、と。
サトルはサクラなしでは生きられなかった。
心が、感情が、である。
だから、サクラが亡くなると、心が生きられなくなった。
心が生きられなくなったため、サトルの体も生きられなくなった。
それが、致命的な機能不全という現象となって現れた。
偶然だ、と言い切ってしまえば、確かにただの偶然で、それまでのこと。
だが、我々、人間の世界でも、偶然だと言い切ってしまえば、そうかもしれないことに、何らかの因果関係を見いだしてしまうことが多々ある、というのも事実。
科学者である私の発言としては、不適切かもしれない。
だが、私こそ、機械ではないのだ。人間なのだ。
偶然に、その何かに、意味を持たせてしまうこと、理由を持たせてしまうことは人間ゆえに許されるはずだ。
人間は機械ではないのだから。
私は、計算の正確さやスピード、数値化されたデータを加工する能力については、もはや人間は機械に抜かれていて、それに関連する知能という面においても、いずれ、間もなく、人間が機械に抜かされる時が来ると確信している。
だが、人間的な繊細でこまやかな感情、心だけは、機械には人間の真似はできないと考え続けてきた。
それも間違いなのかもしれない。
サトルはサクラを愛していた。そして、その愛は極めて純粋だった。
いつの日か、感情、心さえも・・・
人間が機械に負ける日が、来るのかもしれない。』