第五話 ママチャリは過去解説の前に限界を超えて加速する
アパートから出た俺は、中学校からの俺の相棒たる銀色のママチャリに乗り込み、スマホの地図アプリで踏み切りまでの道のりをミカエル達に教えた。
服を着た彼女らは、黙ってさえいれば粒ぞろいの美人だった。
囲まれて悪い気分じゃない。
「ここから歩けば十五分、自転車かっ飛ばせば七、八分ってところだ」
「その時間があれば、キミの幼馴染を拉致した犯人は逃げてしまうだろうね」
ガブリエルの言うことはもっともだ。
俺は血の聖書と携え、背中に木刀を背負い、頭にチャリ用ヘルメットを被っていた。
木刀を角材に替えれば、昔懐かし大学紛争スタイルである。
不審者とも言う。
「一分で行きましょう」
ミカエルは俺と真正面に向かいあった。
俺の反論を許さず、矢継ぎ早に、
「では我が主、さっそく血の聖書で天使憑依の儀を発動させてください!」
「おうよ!」
俺はミカエルに返事をしてから気付いた。
やり方分かんねえよ。
俺の気持ちを読まれたのか、ラファエルから肩を叩かれた。
「天堂さん、あなたならすべて分かるはずよ」
「知らないものは知らない」
「ほら、思い出して。何度も繰り返したことじゃない」
何度も。
何度も何度も。
俺はダメ元で思考を巡らす。
『金曜ロードショー観てからずーっと気になってたんだけど』
『なんだよ』
『キングスクロス駅、九と四分の三番線って言うじゃない』
『魔法学校のやつだな』
『横に整数がくっつく分数のあの形、特別な名前があったでしょ』
『あったな』
『なんて言ったっけ』
『小学校で習ったけど、使わないからとっくに忘れたよ』
――帯分数。
俺はナツキと数日前に交わした会話を思い出していた。
そう、帯分数だ。
日常生活はおろか、その後の教科書にすら出て来なかった可哀想なやつ。
今度ナツキに教えてやろう。
そういうものを思い出す感覚に、近かった。
俺は血の聖書の六百六十六ページを一発で開いた。
もっとも手垢のこびりついたページだ。
印刷ではないだろう。
ページいっぱいに、黒ずんだ赤銅色の線で意味不明な文字列、図形、数式がびっしりと書き込まれている。
「“零番から六番のセフィラより”」
俺はそのページに手を置き、
「“我が前にミカエル、東座より来たれ”」
知らない呪文を唱えた。
「“憑依せよ”!」
《“御心のままに”》
ミカエルの口から、静かな声がこぼれて、脳に響いた。
そして。
俺の視界からミカエルが消えた。
「ミカエル!?」
「あらあら」
見ると、ラファエルがミカエルの身体を支えていた。
目を閉じ、眠ってしまったようになっている。
《さすがは我が主、大成功です!》
そして更に驚いたことに、俺の真横にミカエルが立っていた。
ミカエルが増えた。
しかも増えたミカエルは、ほんの少し透けていて、後ろの景色がよく見えた。
俺は三回ぐらい、気絶したミカエルと横にいてはしゃぐミカエルを見比べて、
「ミカエルが……幽霊になった……」
《違います! 精神体と呼んでください!》
全世界の男子諸君、ミカエルの全裸を期待していたか?
残念だがバッチリ服を着ている。
どうやら倒れる直前の服装が反映されるらしい。
「守護天使と下等な浮遊霊をいっしょにするとは不敬だな」
ウリエルが透けている方のミカエルを指さした。
「ミカエルは血の聖書に刻まれた術式により、精神体となって貴様に憑依したのだ」
「ウリエルさん、丁寧な解説をどーも。身体の方はどうすんの」
「私たちが責任をもってお預かりするわ」
「ちなみに精神体を見たり、会話したりできるのはボクらと憑依主ぐらいだから気をつけてね」
「傍から見たら独り言繰ってる怪しいヒトなのね、俺」
ということは、ミカエルたちが風呂に入る直前に憑依させれば全裸の霊が――
ウリエルからの視線が怖いので、これ以上はやめよう。
《この状態になって初めて、我が主はわたしたちの力を使いこなせるようになります。まずは急ぎましょう》
ミカエルは透けた指で前方を指差し、
《“天界共術・《・》加速”です!》
「いや“加速”って読みがおかし――――」
俺の発言がトリガーだったのか。
一瞬の出来事だった。
景色が後方にぶっ飛んだ。
俺は重力を感じ、慌てて自転車のハンドルにしがみついた。
ぎゅるんぎゅるんぎゅるるるるるるるん。
ママチャリの限界を超えてペダルと車輪が回転している。
チェーンに火花まで散っている。
《いやっふぅぅっぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅううぅぅうぅぅ!!》
精神体のミカエルは、俺のそばにぴったりついてきて歓声を上げていた。
「ママチャリ壊れるだろうがぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
《大丈夫ですぅぅぅぅ! 後からラファエルさんがぁぁぁぁぁぁ! ベトサダの水でぇぇぇぇぇぇ! ふぉろぉぉぉぉぉ!》
「分かった! 分かったから喋んな、舌を噛みそうだ!」
ベトなんとかの水の意味はさっぱり分からなかったが、情報より安全を優先した。
「死ぬかと思った……」
《これぞ天使必携の術“加速”です》
「コインでも飛ばしたいネーミングだな」
《ほぼ自動操縦で目的地までかっ飛ばせますよ!》
実際には一分もかからなかっただろう。
暴走、いや加速した自転車のおかげであっという間に現場に着いた。
開発途中で放置された空き地が広がる一角だ。
廃材やスクラップされた自動車が積み上げられ、実質粗大ごみ捨場と化している。
俺は自転車から降り、相棒を労った。
よくぞ持ちこたえてくれた。
ブレーキと鍵をかけ、あたりを見渡す。
休日の昼間だ。作業員すらいないここはひっそりとしている。
「他の三人とおまえの身体が見当たらないな」
《距離がありますから、しばらくは来られないと思います》
「俺たちみたいに加速できないのか?」
《はい。わたしたちは現世ではひじょうに無力です》
ミカエルが俺の周りをふわふわ浮遊する。
《はるか昔、地上に降りたとある天使達は大いなる過ちを犯しました。地上で不法を教え、天上の秘技――武具や染料などの知識を明かしてしまったんです》
「ははあ」
《主犯はラファエルさんがふん縛ってくれたんですけどね》
「優しい顔して怖いんだな」
《怒ると怖いですよ》
俺の身体をミカエルがすり抜けた。
《父は二度とこのようなことが起こらぬよう、現世に降りた天使、特に人に直接関わる守護天使には強い制限を課したんです》
「それがガブリエルの言ってた、守護天使三原則とやらか?」
《はい。憑依された人間は、術式を用いて精神体となった守護天使から力を引き出せますが、守護天使自ら力を発揮することはできません。さらに肉体のある状態では、守護天使はただの人間と大差ありません》
「不便だな。精神体のままずっといればいいじゃねーか」
《精神体は地上では非常に不安定なので、肉体が必要なんです》
俺は顎に指を添えた。
まだ四月の上旬だが、廃材やコンクリートが日差しを反射して暑い。
額にじんわりと汗が浮き出る。
「ラファエルのベトなんとかの水やウリエルの剣は、ありゃ何だ」
《あれは物理的に持ち込んだものですね!》
「なるほどなるほど」
ウリエルは立派な銃刀法違反だな。
俺は背中から木刀を抜き、ヘルメットをかぶり直した。
ポケットに血の聖書を突っ込む。
《わたしは太陽であり、炎を司ります。
ガブリエルは水。ウリエルは大地。ラファエルは風。
それぞれ使える力が異なりますが、ここからでも憑依交代できます》
「便利なもんだな」
《我が主が神の狩人であるがゆえです》
複数人の足音が聞こえる。
どうやら俺の判断は間違っていなかったようだ。
廃車の陰にぽつんと留まった趣味の悪い高級車から、人影がそぞろ出てきた。
《有利になるように、ほかの天使に憑依交代してくださっても構いませんが》
ミカエルが俺の耳元で囁く。
《これしきの人数、我が主とわたし一人で十分です!》
俺は無言で頷いた。
天使の力とやら、使ってやろうじゃねえか。
俺は木刀を背中から抜き、不良どもを待ち構えた。