間話 Lクラスの女王と薔薇をくわえた王子様
時間を巻き戻そう。
天堂城太郎が2-Aに戻った頃、商業科校舎でちょっとした事件が起きていた。
いや、その場に居合わせた誰もが事件と認識していないだろう。
女王だった彼女以外は。
佐久島樹里は憤っていた。
Lクラスの女子が遠巻きにそれぞれのスマホを見守るなか、自分のスマホを連打している。
「なんでアタシがあんなやつらにバカバカバカバカバカバカアホ死ね」
親指の爪の青いマニキュアは、歯型が浮き上がっていた。
しばらく打って、また親指を噛む。
前歯の先がうっすらと青く色づいていた。
「思い知らせるのよ……アタシの力を……舐めてかかったことを後悔しろ」
佐久島樹里はいくつものSNSにいくつものアカウントを持っていた。
Lクラスのチャットグループには既にいくつも写真が載っている。
『某M高の露出狂デブ』『今まで見た中で一番キモいデブ』『転入生のMってこのデブと付き合ってるらしいよ』『教室でいきなり脱ぎだした』『キスしたって』『どこまでヤったの?』『Tとかいう男子がマジキチ』『Tが女子に暴行を加える直前の写真』『Aクラスには近づかないほうがいいよ』『やっぱりこのデブがキモさナンバーワン』『っていうかコレ犯罪じゃない?』『※恵田市ではよくある光景』『放送事故級』『ハーフはエンコーしてるらしい』
佐久島樹里はコミュニティを選り好みしない。
オタクという人種は大嫌いだったが、そういう掲示板でウケそうなネタなら遠慮なく投稿する。
「みんなみんな暇つぶしを求めてるのよ……それが真実かどうかなんて考えないし興味もない。楽しく叩く対象がほしいだけ」
この写真をあちこちに送信すれば、一瞬で全世界に拡散していくだろう。
掲示板のコラージュ画像のネタになったりすれば最高だ。
「ほらチヨちゃん。『デブ』でググると千四百万件以上ヒットするの」
佐久島樹里は森千代子に誇らしげに検索結果を見せた。
千代子はスマホの画面に目を向けた。
「真実だか嘘だか分からない情報がたっくさんあるなかで、検索結果にあのブタの写真が大量に載るの。考えただけでわくわくする」
千代子は返事をしない。
「たしかに、ね? アタシも嘘つきは嫌い。だけど楽しい嘘は大好き」
樹里は満面の笑みを浮かべた。
「この嘘だらけの世の中で、嘘がひとつ増えたところで何だっていうの?」
「きゃ――――ッ!」
これは千代子ではなかった。
千代子は微動だにしていない。
廊下からだ。
悲鳴が悲鳴を呼び、女子の叫び声で満たされている。
「!?」
佐久島樹里は舌打ちし、スマホのカバーを一旦閉じた。
千代子を伴って廊下に出る。
「何だ、まさかあのブタ共が戻って」
違った。
樹里は絶句した。
廊下は静かだった。
廊下中の女子たちが、一点を見てうっとりとしている。
全員が全員、恋する乙女の表情になっている。
「ああん」
「もう……だめ……」
「胸が苦しいの」
「たえられなぁい」
フェミ系も、ガングロ系も、ギャル系も、パンク系も、ある者は突っ立ったまま恍惚の表情を浮かべ、ある者は床に崩れ落ちている。
教室からもぞろぞろと女子が出てきて、みなみな同じ方向を見つめている。
突然上着を脱ぎだす女子までいて、樹里は急ぎカーディガンを被せた。
「おい……どうしたのよアンタたち!?」
「僕が真実の愛を教えてあげたんだ」
薔薇の芳香が、樹里の鼻をくすぐった。
樹里の知るどんな高級ブランドでも真似できない、蠱惑的な香りだった。
「海の乙女たちもかくやの歌の調べに誘われてしまった。水底の楽園は地上にもあったのだね」
香りの主は、女子たちの視線の主でもあった。
白い。上から下まで真っ白な学ランを纏う、背の高い男子だ。
分かりにくいが、髪をうっすらと紫色に染めている。
ともすれば女と見間違うほど整った顔立ちだが、口に一本、赤い薔薇をくわえているところなんて、普段なら笑いものにしかならない。
「だれ」
樹里が睨むと、男子はくわえた薔薇を細い指でつまんだ。
すべての動きが芝居がかっている。
「僕は通りすがりの美化委員さ。美しき偽りの女王」
「イシュ……? アタシはLクラスの佐久島樹里よ。妙な真似をしたらタダじゃおかないんだから」
「僕には分かる。君はこの穢れた売女らを束ねるには清すぎる……僕に魅了されないのが何よりの証拠だ。ほら、後ろの彼女ですら堕ちようとしているのに」
はたと樹里が振り返ると、千代子がおかっぱ頭をくゆらせて、壁にもたれかかっていた。
息が荒く、熱い。
「チヨちゃんに何をした」
「なにも。僕はただ教えただけさ。君は学ぼうにも、あまりに無垢なのだね」
「アタシに喧嘩売ってるの?」
「ノンノン。僕は愛と平和をなによりも望んでいる。ひとつ、淫らな乙女たちにお願いしにきただけ」
彼は両手を広げ、女子たちを見渡した。
キャラメルのパッケージに描かれたマラソンランナーみたい。
樹里は連想した。
「ねえ君たち。人生でもっとも蕾の膨らむ十代という時間を、こんなことに使っていいのかい? 君たちはせっかく、蜜を含んだような唇、潤う硝子玉のごとき眼、百合も恥じらう肢体に密かに燃え盛る熱き心をもっている」
樹里は信じられなかった。
話の滑稽さではなく、滑稽な話を誰も彼もが熱心に聞いていることが。
「こんなくだらない遊びはやめないかい? 自分たちが醜いと思っているものを、いつまでも見続ける必要はない。保存する必要はない」
ますます声を高ぶらせ、彼は演説を続けた。
樹里は見た。
「自分たちがつまらないと思っているものをやり続ける必要はない。無理に誰かに従う必要もない。自由を謳歌すべきなんだ」
女子が次々と、スマートフォンの画面を叩いていく。
右手のスマートフォンが震動した。
何度も何度も新着通知のせいで震動した。
狂ったように震動を続けるのはいつものことなのに、冷や汗が止まらなかった。
「自分から自分を解放しよう。君たちはいま、もっとも美しいのだから!」
恐る恐る、樹里はカバーを開いた。
立ち上げっぱなしのチャットアプリのグリープ――Lクラスのグループの人数が、半分になっていた。
「え」
何かの間違いじゃないの。
樹里は更新ボタンを連打した。
読み込まれるたびに、人が減っていく。
見慣れたアイコンが次々と消えていく。
「うそ、うそ」
樹里はチャットアプリを閉じ、他のアプリを立ち上げた。
片っ端からSNSを巡っていく。
あっけなかった。
Lクラスのグループやコミュニティは壊滅していた。
自分以外のアカウントが、いない。
「ちょっとアンタたち! なに勝手に抜けてるのよ、容赦しないよ!?」
樹里は顔を上げ、息を呑んだ。
冷ややかな眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼、眼。
自分の周囲に、ぽっかりと空間の輪ができている。
樹里の脳裏で、さきほどの太った男子、どすこいナントカとかいうあの男子の姿と自分の姿が重なり、消えた。
「これが彼女たちの本当の気持ちだよ」
通りすがりの美化委員が悠然と笑った。
女子たちは彼のそばに控える奴隷か召使いのようだった。
「かわいそうな女王、乙女たちは淫売婦より清き空を求める。その淫らさがハリボテの、ただ人のつながりによって保たれていたのならなおさら」
「うそよ! あんなに、あんなに友だちでいようねって――チヨちゃん!」
樹里は悲鳴を上げて千代子にすがりついた。
千代子の表情はわからない。
いつもと同じように、無表情だ。
「チヨちゃんは離れないよね? ずっとずっと友だちだったもんね? チヨちゃんはアタシ以外の友だちいないもんね? ね? ね? ねえってば!」
どんっ。
軽い衝撃とともに、樹里の視界いっぱいに天井が広がった。
「チヨ……ちゃん?」
床に突き飛ばされた樹里を、立ち上がった千代子は見下ろした。
手には飾り気のないスマートフォン。
「さよなら」
おそろしく久しぶりに聞いたので、佐久島樹里は数秒、それが森千代子のものだと気づかなかった。
チャットのLクラスのグループから、千代子のアカウントが消えた。
樹里はひとりになった。
あんなにカラフルだったタイムラインに、何も流れてこない。
「さて。そろそろお暇しなくては。子羊への屈辱を減らせたことを、太陽の大天使に伝えなければならない」
樹里は身体をやっとの思いで起こした。
女子たちの様子が元に戻っていく。
さっきまでの静寂がうそのように、メイクしたり、スマホを見たり、ほかの教室に遊びにいったり、談笑に嵩じたりしている。
どこへ行ったのか、千代子の姿もない。
「さよなら、哀れで可愛らしい女王様」
座り込んだまま動けない樹里を置いて、通りすがりの美化委員はさっそうと去っていく。
Lクラスは元通りだった。
ただ、女王の存在を無視したまま。
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「ふふっ……あはは、私は自由、私は自由よ。もう何にも縛られない。絶対の孤独。なんて楽しいのでしょう。なんでいままで思いつかなかったんだろう。あいつは女王でもなんでもない、ただの弱い人間なんだ。殺してやる。彼女を殺してやる。私の人生を奪った彼女を殺してやる!」
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