プロローグ バナナの皮を踏んで滑って死ぬ可能性
『心配させるなよ。俺はおまえの保護者じゃねえんだから』
それが無責任なあのひとの最期の言葉であり口癖だった。
バナナの皮を踏んで滑って転んで死ぬことだって医学的にはありえるのだとあのひとは言っていたけど、わたしからすればそれよりひどい死に方だった。
「百何十年も前の……ルイ十五世の王国が蘇ったようだ」
どうやらわたしの行動はあのひとから見ると絹糸で綱渡りするぐらい危なっかしいものだったらしい。けれどそもそも心配させたくなるくらいわたしを甘やかしたのは天地創造後紐解いてみてもあのひとしかいない。間違いない。暗い氷からわたしを救い出して、べたべたに甘やかして勝手に死んだ。
「骨も残さず遺体は焼かれたらしい」
だからあのひとは無責任なのだ。超絶技巧を駆使して作った百階建てのトランプタワーの管理を赤子に任せてしまうようなひとなのだ。新鮮なバターチーズをネズミとウジに見張らせておくようなひとなのだ。あのひとが死んだせいで何もかもめちゃくちゃになってしまった。この世界はやわらかな狂気につつまれてしまったし正義の味方はどこにもいない。
「八つ裂きですって」
「四肢を強靭な馬に引きちぎられて」
「最後には左脚しか残らなかった」
寒い空気を吸って吐いてわたしはあのひとを思い出す。肉を噛み砕く。あのひとはわたしが抱き付くと優しく髪を撫でてくれた。だけどあのひとはわたしのことなんか見ていなかった。
「親を殺し」
「国を裏切り」
「引き取った孤児を次々と殺して」
「救世主を騙り、女王に刃を向けた!」
わたしがなにもしなくても、あのひとは己に忠実で己を貫いたのだからあのひとはある意味で聖人なのだ。聖人とは狂人なのだ。世界がどうあろうと己の信仰に忠実な、優しくてすてきな狂人。
「野蛮な」
「当然だろ」
「むごたらしい」
「この国は狂っている」
「穢らわしい混血め、地獄に堕ちろ」
「おお、主よ。天上の父よ。哀れな罪人を赦したまえ」
人々が無限の可能性を信じて弱きものを踏みにじっていたあの世界にあのひとは必要な存在だった。あのひとのおかげで人々は偉大な存在を自覚し畏れていた。あのひとの力はそれだけ強く、複雑で、脆く、内側から瓦解するのは簡単だった。核分裂反応のように崩壊したエネルギーは純粋な原子の光ではなく熱や爆風となってなにもかも破壊していった。あのひとという放射能に侵された世界は狂気を分かち合い汚染されていく。狂気は特別なものではなくなった。
「ねえ。
この世界は正義の味方を求めている」
わたしが父にねだってみたら、それは意外な形で実現した。