第十六話 女王が激昂し、聖なるオスブタは左頬を差し出す
俺はミカエルとウリエルに、彼女たちを捕えている女子どもを振り払う許可を与えた。
しかし大丈夫なのか?
守護天使三原則で、人間に危害は加えられない。
いくら女とはいえ、ミカエルとウリエルを捕えているのは三人だ。
分が悪い。
俺の心配をよそに、ミカエルは目を見開き足を踏ん張って、
「ミカエル寸止めパンチ! ミカエル寸止め一本背負い! ミカエル寸止めドロップキィィィィィィィィィック!」
「うわっ」「えっ」「ぎゃっ」
あっという間に周りの女子をなぎ倒した。
え。何この子。
めちゃめちゃ強いんですけど。
しかも決してけがをさせないように、勢いを殺して床に叩き付けている。
「義の天使の力を見るがいい! ふんぬぅぅぅぅぅぅうううっ!」
「なんだ!?」「ひぃっ」「いやぁっ」
ウリエルもミカエル同様、小さい身体で女子をソフトに振り払った。
ソフトに振り払うという表現自体が意味不明だ。
そうとしか表現できないんだよ。
「おまえらってそんなに強かったの?」
「貴様が我らを見くびるとはな。人を傷つけず人を制す術は、守護天使の必須技術。じゃじゃ馬の二人や三人を振り払うなど造作なきこと」
「……危害を加えずに追い払うことができるんだったら、京介があんな目に遭う前に助けてやってほしかった」
《あれもかなりギリギリの行為だからね。言っただろ、ミカエルは決して法を侵す真似はしない。地上には便利な言葉を用いれば、ボクらはお役所仕事なのさ》
「天界の仕事しなさっぷりを責めてもしかたねえな」
ミカエルの目に溜まった涙と、ウリエルの歯の食いしばりっぷりを見てしまったらな。
「おら、京介、さっさとトンズラしろ」
「あ、ありがと」
俺は京介に、佐久島からぶんどった学ランを投げた。
京介はどんくさい動きでなんとかキャッチした。
ミカエルとウリエルが京介の周りに立ち、盾となる。
佐久島が教壇を叩いた。
「なに勝手なことしてんだよ! アタシの遊び場を邪魔するんじゃねーよ!」
「京介もミカエルもウリエルも、あんたのオモチャじゃねえんだよ。遊びたいんならみんな仲良くおままごとでもしてろ!」
佐久島は口角を吊り上げた。
目はまったく笑っていない。
「どーせクラスでもいじられてんだろ? ここでもいじってただけだって」
「あれはいじりじゃねえ」
俺は断言する。
「犯罪だ」
何罪に値するかなんて知らねえが、少なくとも恐喝罪にはなるだろうな。
もちろん俺に警察に通報する気はない。
きっと京介も同じだろう。
ミカエルは通報したがるだろうが……。
昨日のように分かりやすい現行犯でない。
教師はLクラスに関わるのを嫌がっている。
これだけ騒いでいて、誰一人教師の姿が見えないのが何よりの証拠だ。
どうせ世間体とか気にしてるんだろう。
下手に歴史ある私立学校の悲しさだな。
教室の外に集まっている女子が入って来る気配はない。
ミカエルとウリエルの暴れっぷりを見てビビったか?
「アタシは『どすこい京介』とかいうブタと遊んでやっただけだよ。ブタ女二名はただのうるせえ邪魔者」
しっし、と空いているほうの手で、佐久島は蚊をはらう仕草をした。
「ブタみたいな見た目とだっせえ外見でさ、ぶっちゃけ死んでもいいと思うんだよね。ソイツ。死んだところで誰も悲しまないでしょ。ブタがブヒブヒ悲しむだけでしょ」
「…………」
彼女は傲然たる態度を崩さない。
俺がゆっくりと手を離すと、腕と足を組んだ。
「生きてて楽しい? 友だちいるの? どいつもこいつもぼっちヅラしやがって。アンタと違ってアタシには友だちめっちゃいるからね。Lクラス全員アタシの友だちだし、商業科みんなアタシのお願い聞いてくれるし」
これ見よがしにスマホの画面を見せつけた。
俺も使っているチャットアプリだ。
タイムラインに、目で追えぬほど大量の発言が流れていく。
「普通科とかマジ嫌い。学力で人生決まるわけじゃねーのに、あんなにガリ勉で、商業科ってだけでアタシらのことバカにして。アタシが殺さずにブタのまま生かしてるだけありがたいと思ってよね。まじクサイし。にきびキモいし。チヨちゃん、アタシのバッグとって!」
「チヨちゃん」は近くの机から、恭しくバッグを佐久島に渡した。
蛍光灯の光に照らされ、ビビットピンクにぬらりと輝いている。
佐久島は無造作にバッグを開き、スマホを放り込んだ。
「このブランドバッグ十万円なんだよ。アタシの靴もカーディガンもブランドものだし、美容院だってすっごい高いトコ通ってるの。アンタたちにそんな金ないでしょ。ビンボーなんでしょ。アタシがうらやましいんだろ!」
俺は返事をしない。
ミカエルとウリエルも、じっと佐久島を見つめているだけだ。
京介は顔を伏せ、精神体のガブリエルは、しきりに佐久島を黙らせないのか尋ねてくる。
「いまなら仲直りできるよ。アタシに謝ってくれれば友だちになってあげる。いままでのこと、許してあげる」
彼女は一方的に喋り続ける。
確かマグロって、一生泳ぎ続けて、泳ぐの止められると死ぬんだっけ。
「ねえチヨちゃんも許してあげるよね?」
「チヨちゃん」は機械的に頷いた。
「みんなも許してあげるよね?」
「うんうん!」
「マジキモいけど許してあげる!」
「謝ってぇ、早く謝りなよぉ」
「みんな」も機械的に返事をしている。
「アタシは助けてあげたんだよ? 佐久島樹里が遊んであげてるんだよ? なんで感謝しないの。なんでブタが抵抗するのよ。アタシが舐めろって言ったら床を舐めろよ」
だんだん声が高くなっていく。
佐久島はド派手なマニキュアをした爪で、京介を指さした。
京介は学ランを着終わっていた。
「床舐めろよ、ブタ」
「……だ」
京介はほんの小声で、言った。
「なによ。聞こえねえんだけど」
「いやだ」
京介は顔を上げた。
にきびだらけの顔をゆがめて、こぶしをキツく握っている。
「佐久島さん。ぼく、2-Aに戻るよ」
「…………は?」
「もう、佐久島さんとは遊ばない」
「なんで?」
「こんなこと、もうしたくないから」
「何が気に入らなかったの?」
「ぜんぶ」
「意味わからないんですけど」
「そう。残念だよ」
京介はしっかりとした足取りで、出口に歩いていく。
ミカエルとウリエルが脇を固める。
俺は扉を開けた。
女子が数人邪魔してきたが、睨んだら避けた。
「アタシと友だちになりたくないの? 2-Lの佐久島樹里だよ!? アンタだって名前は知ってるでしょ。アタシが友だちになってあげるって言ってるんだよ」
京介の脚は震えていた。
こぶしも震えていた。
唇も声も震えていた。
にきびまみれの肌に冷や汗が噴き出していた。
「ブタのアンタに寄りつく虫は追い払ってあげる、たまにはメシだってブランドものだって奢ってあげる。アタシすっごい大金持ちだから、アンタとは違って金持ちだから、ね! ね!?」
「……ごめん」
京介は振り返った。
「ぼくはきみが嫌いだ。もともと友だちじゃなかったけど、絶交する」
京介は教室を出た。
ミカエルも出た。ウリエルも出た。精神体のガブリエルも出た。
俺が最後に出て、扉をぴしゃりと閉めた。
廊下には化粧のキツい女子がわんさかいたが、全員道を空けている。
遠巻きにひそひそと噂しあっている。
「逃げんな! カス! クズ! 死ね! ブタ! アンタたち全員死んじまえ! ゲロ吐いて死ね! クソ吐いて死ね!」
扉の向こうから、佐久島が喚いた。
死ね、死ね、死ね、死ね、と、佐久島ひとりの声に誰かが合わせ、さらに誰かが合わせ、廊下も巻き込んで大合唱になった。
「死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね!」
「チヨちゃん」はこの状態でも黙っているのだろうか。
佐久島のそばに控えていた、おかっぱ頭の陰気な女子を思い出した。
「京介」
「ぼくなら大丈夫」
「醜い合唱だな。うら若き乙女たち自ら堕する。いつの世も哀れなものよ」
「我が主。わたしが憑依して彼女たちを止めますか?」
「放っておけ」
「ですが」
「俺ひとりが動いて止まるもんじゃねえんだよ。山火事に水滴を落とすようなものだ。火事は大雨じゃないと消せない」
「では、大雨にしましょう! そうです、この学校のみなさんにこのことを知らせましょう!」
「知らせたって相手にされねえよ」
俺はちらりと京介を見た。
例えば、ここで、可愛い女の子がいじめられたなら同情を買えるかもしれない。
しかしオモチャにされたのは、地味でブサイクなデブ男の幕下京介。
京介なら「ちょっとぐらいいじめられてもしかたない」と、誰しも思うだろう。
「……すまねえ」
「いいんだよ」
そのことは、本人も、痛いほどわかっているはずだ。
「死ね! ブタの写真をそこらじゅうにばら撒いてやる!」
俺は立ち止まった。
遠くから佐久島が宣言した。
昨日のお坊ちゃん不良の発言が、脳内でダブった。
「ありったけの知り合いに、ネットに、全部ばら撒いてやる! アンタの人生ぜんぶ汚してやる! いまさらアタシに謝っても遅いんだから!」
「やめろ!」
心臓が早鐘をうつ。
まずい。あれだけ京介の写真を撮っていたじゃないか。
俺は取って返し、Lクラスの飛び込もうとしたところで、
「待って」
襟首を掴まれた。
俺は振り返った。京介だった。
「大丈夫。ぼく、こういうことには慣れてるから」
「ふざけんな。いまからでも打つ手はあるはずだ、やつら全員気絶させて」
「すぐ帰ろう!」
京介が叫んだ。
「ケンカしちゃ駄目だよ。ぼくはもう、怒ってない。佐久島さんの好きにさせてあげればいいよ」
俺は絶句した。
うそだろ。
ばかな。
なんでやられっぱなしのままでいられるんだ。
なんで佐久島を赦しているんだ。
天使どもすら、あっけにとられている。
ずっ。
俺は脳裏に虫が這うような感触を覚えた。
また、あれだ。
キングスクロス駅、九と四分の三番線は帯分数。
これを思い出すときのような。
「Whosoever shall smite thee on thy right cheek, turn to him the other also.」
自然と俺は口にしていた。
マタイの福音書第五章第四十節。
誰か汝の右の頬に於て汝を平手打ちせば、別の頬をもこれに向けよ。
「……あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」
「我が父よ。父の子らよ」
ミカエルが俺の言葉を受け継ぐように呟いた。
ウリエルですら、口を開け、いまにもひれ伏しそうだ。
京介がひとり、きょとんとしている。
頭の感覚はとうに失せてしまい、俺がなぜ聖書の一説を暗記していたのか、自分でもわからなくなってしまった。
俺の家は仏教のはずだ。聖書なんて縁はない。
畜生。気分が悪い。
俺は尋ねた。
「おまえ、本当に怒ってないのか」
「うん。いちいち怒らないよ」
「写真だぞ! ネットだぞ! 一生消えねえんだぞ!」
「ぼくの名前で検索すれば、恥ずかしい写真ならもういっぱい流されてるし。それを見てぼくの価値を決めるようなひととは、付き合うつもりないし」
俺は京介を無視してLクラスに飛び込むこともできた。
そして片っ端から精神遮断して、片っ端からスマホのデータを消していけばいいのだ。
途方もない作業だが、ミカエルやウリエルに手伝わせればなんとかなるだろう。
でも、できなかった。
京介はいつものように笑って、
「ランチの時間になっちゃったね。吉乃さんがぼくのケーキを楽しみにしてくれてるんだもの、早く帰ろう」
「…………」
ガブリエルは離脱させた。
俺たちは女子の笑い声やはしゃぎ声に包まれて、商業科の校舎を抜けた。
ランチタイムの普通科は、似たような笑いに包まれていた。
和やかですらあった。
2-Aに戻ると、生徒といっしょに弁当を食っていた白神先生に事情を問いただされたが、京介自らが適当にはぐらかしてしまった。
いわく、腹痛で京介が保健室に行き、俺たちは付き添いになっていたとか。
滝川はあっさり納得してしまった。
どすこい京介が大食いなのはわかるが、食べ過ぎには注意しろよ、と白神が笑って注意する陰で、
「……この学校には『正義』がありません」
ミカエルが低くうめいた。
冷酷ですらある表情を、俺だけが見てしまった。