第十三話 天堂城太郎は大魔術の詠唱をラファエルから聞き損ねる
消毒液やガーゼのにおいが鼻をつく。
真っ白なカーテンに囲まれた数台のベッド。
窓辺に、手折られた桜の花が花瓶に活けられている。
ここは聖地、保健室だ。
「そんなことがあったの。幕下さんも少し気の毒だけど、ミカエルちゃんは不器用ねえ」
文字通り、白衣の天使たるラファエルが、薬棚の整理をしている。
「元気がないわよ、天堂さん。魚の心臓と肝臓はどう? 元気が出るわ」
「腹を壊しそうだから遠慮しとく」
「やあねえ、食べるんじゃないの、いぶした煙を吸うのよ」
「ベツレヘム式健康法は日本人に合ってないと思うんだ」
胸囲はラファエルの圧勝。
フリルつきのシャツからはちきれんばかりだ。
スカートと白衣越しにも柔らかさがよく分かる、グラマラスなラファエルの尻も捨てがたいが、俺的にはミカエルの引き締まった尻のほうが好きだ。
足は……ウリエルの幼女じみたロリ脚線美も良いが、ガブリエルのまっすぐな少年らしい足も……待て待て、俺にショタの趣味はねえ!
慌てて首を横に振り、邪念を追い出す。
「まったく、ミカエルはとんでもないトラブルメーカーだ。登校初日にしてトラブルを起こしている」
「大丈夫よ。何だかんだ言って、ミカエルちゃんは地上の法は犯さないように気をつけているわ。天堂さんだって、オリエンテーションを嫌がって、ここでサボっているじゃない」
「だってかったるいし。俺は無害だからいいんです。それを見逃す西野ラファエル先生も先生だろ」
「あらあら、私は頭痛と腹痛と腰痛を訴える生徒を静養させているだけよ?」
俺は清潔なベッドに上履きを脱いで寝転がり、一時間目の経緯を話していた。
通りすがりの美化委員のことは話していない。
ネタするためには謎が多すぎる。
「ミカエルちゃんはまっすぐな子ねえ」
「あれじゃ無免許運転のブルドーザーだ」
「いまの管理当番はミカエルちゃんだもの。張り切りすぎちゃっているのよ」
「セクン……何だ?」
聞き慣れない言葉だ。
「セクンダディ。上位の天使が受け持つ、地上の管理当番よ。だいたい千二百年前から始まったシステムで、354年ごとに交代するの。ミカエルちゃんは確か、1881年からだから、あと二百年ぐらいはあの子の担当ね」
「掃除当番みたいな言い方だな」
「大丈夫、正鵠を射ているわ。言ってみれば地上の掃除屋。この世の善悪のバランスを監視するの」
ラファエルは薬棚を閉め、ホワイトボードを転がしてきた。
「詠唱をすっかり覚えている天堂さんが、セクンダディを知らないってのも意外ねえ。いくらなんでも、ノアの方舟のお話は知っているでしょう?」
「なんだっけ。神様が洪水を起こしたんだろ?」
母親は古典が好きで、退屈がる幼稚園児の俺をなだめすかし、古典文学を読み聞かせるのが常だった。
旧約、新薬聖書もそのなかに入っている。
内容はほとんど忘れてしまったけど、大洪水の話はインパクトがあった。
ノアの家族と、あらゆる動物のつがいが箱舟に乗り込み、神様が大洪水を起こす。
箱舟に乗ったノアたちは助かり、それ以外の生物は全滅だ。
「唯一にして絶対の力を持つ、私たちすべてのお父さまね。あのとき、地上には悪が蔓延りすぎていた。アザゼルさんの話をしたでしょう? あの事件が起こってねえ、人は知識を得過ぎたのよ」
ああ、あの。
地上で二百人の天使とともに女を孕ませて巨人を生ませまくったっていう。
だけど、なんか根っからの悪いやつには思えないんだよなあ。
俺はかねてからの疑問を口に出す。
「アダムとエヴァの知恵の実の話でも思ったけどさ。なんで人間が知恵をつけちゃいけないんだ」
「エヴァが蛇に誘惑され、知恵の実を二人が食べたことで、ひと恥じらいを覚えてしまった。アザゼルさんが天文学や薬学、魔術などの学問、さらに武器や装飾品、染織などの技術を教えてしまい、男たちは戦いを、女たちは男に媚を売ることを覚え、地上に嫉妬や強欲や淫乱といった悪行が広まったから」
「うーん」
俺はこめかみに指をあてた。
ラファエルの言いたいことは分からないでもない。
「もっと分かりやすい話をしましょうか。人間が核分裂反応を人為的に発生させることに成功したせいで、核爆弾がこの世に生まれ、人類は最後の審判を待たずとも自滅できるようになった。ね、いらぬ知恵は身を滅ぼすでしょう?」
「“核の知識は神から盗まれたのではない、大地から人が盗んだものだ”ってどこかで読んだぜ。人間をあまりにも馬鹿にしてる」
「そんなことないわ。私たちは人の子を神の子に触れるがごとく愛するものよ」
「だけど……」
「それに大地だって私たちすべてのお父さまが創られたのよ。神から盗んだことに変わりはなくて?」
俺は言葉に迷った。
小難しい話は苦手だ。
「俺は……哲学とか、ちっともわからないけど、人間の尊厳ってやつを、おまえたち天使も、神サマも、無視してねえか」
「尊厳?」
ラファエルは目を丸くして、ぽかんとして、柔和に笑んだ。
保育士が乳児をあやすような笑い方だ。
居心地が悪い。
「私たちすべてのお父さま。あなたのいう『神サマ』が人間たちに対して恐れていたことって、なんだと思うかしら」
「人間が知恵をつけること?」
「当たらずといえども遠からずね。人間たちが神に肩を並べることよ」
「肩を並べる……?」
「一旦知恵をつければ、人間は自ら知恵や知識を増大させるわ。もしかしたら神の特性たる『全知』をも手に入れてしまうかもしれない。さらにアダムとエヴァがいた楽園には、知識の木だけでなく、生命の木もあるのよ。その実を食べると不死を得ることができる」
ラファエルは教師のように俺に語る。
「『全知』を手に入れた人間が、楽園を探して『不死』まで手に入れたら、限りなくお父さまに近しい存在になってしまう。それを常に恐れているの。アダムとエヴァを楽園から追いだしたのも、バベルの塔を壊したのも、そういうこと」
「なんだその、成長する部下に嫉妬する上司のような」
「お父さまはね。子供に自分を越えられたくないの。不老不死にして全知全能たる存在は神ただひとり。それ以外の者はあくまで被創造物のままでいてほしい。だから、悪徳を洗い流すために、知識が適度に混乱するために、地上を一度リセットしちゃえって、お父さまがキレたのよ」
「そんな失敗子育てをゲーム・リセットなんて話、あってたまるかよ」
「安心して。あのときは天使もわりと反対してたし、お父さまも後悔していたみたいよ。しばらくあんなことはやらないって仰っていたもの」
大洪水は、失敗育成ゲームをリセットするようなものだったらしい。
何千年前か知らないけど、大昔の人々よ、どんまい。
「そんなことが二度と起こらないように、天使たちにもっと密に監視させることにした。それがセクンダディね」
話を戻されてしまった。
腑に落ちないものがあるが、そもそも天使どもが俺の部屋に住み着いてることも、学校にまで入り込んでることも、どれも納得なんてしてないから、これ以上そんなことがらが増えたところでどうってことはない。
「当番が決まってるなら、何も守護天使なんてまどろっこしいことしなくても、天使がそのまま地上に干渉すればよくないか?」
「聞いただけでセクンダディと神の狩人を結びつけることができるのね」
「この世の善悪の均衡を保つため――とか言ってたじゃねえか。セクンダディの『掃除』ってそういうことだろ」
「そういうことよ。人間は欲望に弱いから、放っておくとどんどん堕落していってしまうもの」
「否定できない。なら天使が直接、人間を善側へ引き戻してくれれば」
「そうもいかないのよ。天使は天使で、お父さまほど完全ではないから……アザゼルさんみたいなことが起こってしまうかもしれないのよ」
「だから、私達はあくまで力を授ける守護天使として派遣されることになったの。それで選ばれたのが、あなたよ、天堂さん」
「具体的に何すりゃいいの? 昨日みたいに悪いやつぶっ倒せばいいのか」
「ええ。人間の堕落を防ぐこと、あとは……滅多にいないんだけど、堕天使を現世から追い出すこと」
ラファエルの声が低くなった。
俺も自然と、つばを呑む。
堕天使。
読んで字のごとく、天から堕ちた天使のことだ。
いわゆる「悪魔」の大半は、こいつらが構成しているらしい。
「彼らを滅ぼす必要はないわ。彼らは彼らで、必要があって存在しているもの。ただ、現世にはびこりすぎても困るのよ。天使の力が与えられてる主な理由は、堕天使にも対抗できるようにするため」
胎児レベルで選ばれちまってるもんな。
俺は頭を掻いた。
地味キャラでいたいんだけどなあ。
「質問ついでにもうひとついい?」
「もちろん。拒否する理由はないわ」
「具体的に、コレって何」
俺はズボンのポケットに無理やりねじ込んだ、血の聖書を取り出し、机に置いた。
革表紙には『THE BIBLE』と金色の文字が押されている。
「これに手をかざして、呪文を唱えると、術が使える。それはわかる。でも俺はこれが何の役割を果たしていて、そもそもどういうものなんか、ちっとも知らない」
「あらあら。それはね、それ自体がひとつの巨大な術式になっているのよ。魔法陣の集合体、そうねえ、魔導書って言えば通じるかしら?」
「なんとなく分かった」
「それがあるおかげで、詠唱も短くて済むし、確実に術を発動できるの。ああ、でも、詠唱に関しては、天堂さんは無詠唱だもの、関係ないわね」
「へーっ。誰が書いたんだ?」
「わからないわ」
「はい?」
俺は素っ頓狂な声を上げた。
「救世主の血で記されてるって噂もあるけど、私たちもよく知らないの」
「イエス・キリストは西アラム語か、せいぜいヘブライ語を使ったはずだ。英語で本を書くかよ」
「あら、それぐらいはわかるのね?」
「うるせー、俺だって『THE BIBLE』ってタイトルが英語だってことぐらいわかるわ。キリストの母語はネットで検索した」
本の中身はさっぱりだけどな。
本当に知らないのか、教えるつもりがないのか、ラファエルはこれ以上答える気がないらしい。
「それにしても、思ったより天堂さんは神の狩人としての能力を知らないのね。私もちょっぴり暇だし、教えようかしら」
「おう。助かる。昨日はノリで不良をぶちのめしたけど、マジで何も知らねーんだって」
「じゃあ、まずは憑依についてね。基本中の基本だから」
ラファエルは手際よくホワイトボードに記していく。
「天使が憑依することによって、主に三つの効果を得られるわ」
・身体能力、自然治癒力の向上。
・精神体界との親和性強化。
・術式の使用。
「一番上は言うまでもないわねえ」
「やけに早く走れたり、バランスとれたり、軽く木刀を片手で振れるとは思ってたけど、自然治癒力まで上がってたのか」
「不良さんたち相手じゃ、怪我なんてしなかったものね。気づかないのも無理ないわ」
「相手がザコすぎた」
「ちょっとした擦り傷ぐらいなら、私たちが憑依すれば、二、三秒で治るわよ。複雑骨折や内蔵損傷も一日かからないんじゃないかしら」
「すげえ!」
やっと日常生活におけるメリットが見えたぜ、神の狩人。
「でも、さすがに死んだらどうしようもないわ」
「不老不死は俺も求めてない……」
終幕があるから人生は面白いのだ。
ナツキじゃねえが、人生はひとつの演劇のようなものだとは、俺も思う。
「精神体界も、いまさら言うまでもないかしらねえ。私たちに見えるものが、見えやすくなるの」
「なあ。それってもしかして霊感とかいうやつか?」
「それに近いわね。悪霊さんがいればよく見えるわ」
「サダコとか……トイレの花子さんとか……」
「お名前は知らないけど、女の子の幽霊なら、この階の女子トイレの一番奥の部屋にいるわ。会いに行きましょうか」
「絶対行かねえ」
「あら、神の狩人なのに幽霊が怖いの? そっとしておけば大抵害はないわ」
「そういう問題じゃねーんだよ」
天使どもを憑依しているときに、ホラースポットは禁物だ。
俺はしっかり学習する。
「精神体界との親和性が強いってことは、向こうからの影響も受けやすいってこと。つまり、普通に暮らしていれば問題ない、ちょっとした呪いや怨念などの力をモロに受けてしまうってことだから、気をつけるのよ」
「いいことばかりじゃないんだなあ」
パワースポットや寺社仏閣も危ないかもしれない。
「そして最後が術式ね」
「俺が昨日使った力か」
「そうそう。天堂さんは、具体的な理論はわかるかしら?」
「直感で使ってるからさっぱり分からない」
「最低限の知識は必要ね。憑依術は大きく分けて二種類あるわ」
・天界共術:どの天使を憑依させても使える術。
・方位座専術:それぞれの天使にしか使えない術。
ラファエルはまたもホワイトボードに書いていく。
金髪美女と一対一の授業。悪くない。
「方位座専術って……ミカエルを憑依させたときの東座専術や、ラファエルを憑依させたときの西座専術とかか」
「そのとおりよ。加速や熾天使六翼陣は天界共術だから、誰を憑依させても使えるけど、焔纏はミカエルちゃんを憑依させなきゃ使えないの」
「なるほどねえ。ミカエルが確か、炎だの何だの言ってたけど、具体的な得意分野もあるのか」
「あるわ。得意なことをまとめてみるわね」
・ミカエル:炎。属性による攻撃術。
・ガブリエル:水。精神や思考の読み取り、操作。
・ウリエル:地。怪力や環境への干渉。
・ラファエル:風。治癒や妨害など、補助的なこと。
「ざっとこんなところかしら」
「RPGに例えると、ミカエルが魔法戦士で、ガブリエルが特殊魔術師、ウリエルが重戦士でラファエルが僧侶ってところか」
「そう思っていればだいたい間違いないわ。ただ、まだ簡単な術式しか使えていないようだから、無茶は禁物よ」
「はいはい。レベルアップとかあるの?」
「そんな分かりやすい数字はないけれど、慣れてくればより強力な術式も使えるようになるんじゃないかしら」
「もともと直感で使ってたんだぜ? 詠唱も覚えていたし。教えてくれれば今からでも大魔術が――」
「そうかしら? じゃあこれの続き、わかるかしら」
ラファエルはいたずらっぽい表情で、口を開いた。
そのときだ。
「城太郎!」
扉が勢いよく開いた。
俺はとっさにホワイトボードの裏表をひっくり返した。
ラファエルが妙な宗教関係者だと思われかねない。
だが、心配はいらなかった。
「なんだ、ガブリエルか。そんなに慌ててどうしたんだ。下痢か?」
「違う!」
青い髪を振り乱し、眼鏡もずり落ちんばかりに慌てている。
学ランが不釣り合いに思えてしまうほど、身体は華奢だし顔も女っぽい。
俺は時計を見た。
いつの間にか、オリエンテーションは終わって休み時間になっている。
「ミカエルが他のクラスの女子を相手に騒ぎを起こしている。幕下君に絡んできた女子たちに怒ってるみたいで……ボクやウリエルじゃ火に油を注いでしまいそうなんだ」
懸念が現実のものになった。
「相手は、商業クラスの女子グループらしくって」
最悪だ。
最悪の人材に最悪の人材を与えてしまった。
「行くぞ、ガブリエル。いざとなったらコレを使ってでも収めてみせる」
「血の聖書……わかったよ、城太郎。急ごう!」
俺は血の聖書を手に、扉を開けた。
「いってらっしゃい、ふたりとも。何かあったら、身体は保健室に運んでちょうだい。ちゃんと保護するから」
「頼んだぜ。ガブリエル、案内してくれ!」
お願いだから、あまり大きな騒ぎになってくれるなよ。
俺のささやかな願いは、虚しくぶち壊されることになる。