第十一話 ミカエルは公平に裁かれ、どすこい京介に謝罪する
教室はひどく静かだった。
ディスコのBGMにレクイエムが流れたかのように、大半の生徒は、なぜミカエルが立ち上がったか理解できなかった。
当たり前と言えば当たり前だ。
彼女はこの世の法で動かない。
京介は照れ笑いのまま、滝川は目をミカエルに向けたまま、固まっている。
動くのはナツキの親指ぐらいだ。
どうせ、チャットアプリで現状を実況しているのだろう。
ガブリエルとウリエルは静観を決め込んでいるようだ。
ラファエルが隣のクラスで連絡している内容が、聞こえるくらいには静かだ。
「『どすこい京介』なんて、幕下さんの外見を侮辱するあだ名を教師自らがつける行為をわたしは許せません。撤回し、謝罪してください」
はっきりと、凛と、硝子の鈴のような声でミカエルは告げた。
俺といえば、心臓が口から飛び出しそうだ。
「……はは」
滝川の笑いが、沈黙を破った。
それを皮切りに、クラスに密やかな笑いの波紋が広がる。
先ほど、京介にあだ名がつけられたときの明るい笑いではない。
強いて言うなら、隔離し愛すべき、哀れなものを見る笑い。
近寄りたくない笑い。
檻の向こうにいる猿のおかしさに向ける笑いだ。
「ミカエルの特技は正義の味方、だったか?」
滝川は場違いなくらい明るく尋ねた。
「はい。正義の味方としても、先生を見逃すことはできません」
「君を不愉快にしたのなら謝るよ。すまない」
「わたしではなく、幕下さんに謝ってください」
「なぜだ? クラスの輪を乱すのはよくないなあ」
「クラスの……輪?」
「そうだ」
ミカエルの眉間のしわが深くなった。
滝川は小学生に足し算を教えるように、丁寧に語りかける。
「見てのとおり、幕下京介君はいかにも内気で引っ込み思案だ。それは彼の個性だ、悪いことじゃない。むしろ尊重すべきだ。だけど、このままじゃうまくクラスに溶け込めない」
そうだろう? と滝川は京介に問いかけた。
京介は小さく頷いた。
困ったような笑顔だった。
俺は心臓が落ち着く代わりに、腹の底が不愉快にうずいた。
「みんな。毎年ひとりはいるよな、休み時間にひとりで寂しそうに本を読んでいる生徒。グループ作りで余ってしまう生徒。俺はああいう生徒をこのクラスからなくしたいんだ」
爽やかに嫌味なく語る滝川には、それ相応の説得力があった。
「クラスの輪を作るのは、楽しい笑顔と、お互いより良く知ることだ。ベツレヘムでは教えられなかったかな?」
ゆっくりと、赤子をあやすように、滝川はミカエルに教える。
ミカエルは断罪者というより、駄々をこねる幼児のように見えた。
「ほら、幕下京介君、もう一度ミカエルさんに自己紹介だ」
「はい」
滝川は京介の背中を軽く叩いた。
京介は小さな声で、所々詰まりつつも、言う。
「幕下、京介です。出身は恵田中学校……メグチューって呼ばれてました。スイーツ作りが趣味の弁護士志望です。小さい頃からお菓子が大好きで、こんなに大きくなってしまいました」
わざとらしく、京介はお腹をゆらした。
ぽよんぽよん。
既に笑いの波が広がっている。
「体重計を壊したこともあります」
もう、何を言われても笑ってしまう、そんな空気すらある。
この際、嘘かホントかはどうでも良いのだ。
楽しければ。
面白ければ。
テレビでお笑い番組を観るのと同じだ。
「あだ名は、『どすこい京介』です」
あだ名の披露に、クラスにまた明るい笑いが戻った。
春の陽気にふさわしい、和やかな空気が流れる。
滝川は満足そうに俺たちを見渡した。
俺は戦隊モノに出てくるマッドサイエンティストを連想した。
もじゃもじゃ頭にフラスコを持った科学者は、出来上がった悪のロボットを見て、頷くのだ。
「ほら。良いあだ名は本人だけじゃない、みんなを楽しくするんだ」
なんて素晴らしいものを俺は作ったんだろう! と。
「……そうかもしれません。ですが!」
笑いに抗うように、ミカエルは机を叩いた。
もう静かにはならなかった。
クラス中が、彼女の愉快な発言を期待していた。
「クラスの輪を保つために、生徒を道化にするのはやはり間違っています!」
特技は正義の味方だって。
何かワケ分かんないこと言ってる。
あの子、すっごいズレてるよね。
マジウケる。
空気を全然読んでない。
海外ってみんなあんな感じなの?
そんな嘲笑が確かに聞こえた。
「そんなことで、真の友情が生まれるんですか。天に対して恥ずかしくない、人として尊厳ある生を送れるんですか」
ミカエルが喋るごとにクラスがやかましくなる。
盛り上がる。
彼女を除いた仲間意識が強くなる。
滝川は既に返事をする気がないようだ。
腕を組んで、呆れた笑みを浮かべ、ミカエルを眺めている。
「先生が生徒に求めているのは、他者を見下すことで生まれる、汚らわしい仲間意識なんですか!」
これ以上は駄目だ。
俺はミカエルを止めようと、彼女の袖に手を伸ばした。
「やめてよ」
ミカエルは黙った。
俺は驚いて顔を上げた。
「やめてよ、東野さん」
京介が困り顔で微笑んで、
「空気読もうよ」
ミカエルを拒絶した。
滝川は勝ち誇った笑みを浮かべた。
「幕下も嫌がっているだろう? これ以上はやめてあげなさい」
「あ…………」
ミカエルの腕から力が抜けた。
誰もがミカエルから目を離し、京介を見た。
京介はクラスを見渡し、両足を広げ、膝に両手を置いた。
大げさに太い眉をしかめ、唇を引き結び、重々しい仕草で片足を上げた。
「どすこい」
どすん。
床に足を下ろす。
二重あごがたぷんと揺れる。
脂肪のついた腹がだゆだゆ揺れる。
「どすこい、どすこい!」
京介は最高のタイミングで、しこを踏んだ。
効果は抜群だった。
「いよっ! どすこい京介!」
「はっけよい、はっけよーい」
「誰か行けよ。横綱と相撲とれよ」
「うわー。絶対勝てる気がしねえ」
「ほらほら、いまは大相撲の時間じゃないぞー」
滝川が軽く手を叩けば、京介を含めた生徒達は温い返事をする。
ミカエルはすとんと席に腰をおろした。
だが、その真っ赤な瞳はいまだに滝川を見上げていた。
「東野。俺があだ名で幕下を侮辱しているって言ったね」
あくまで朗らかに滝川は告げた。
「それは、幕下君の体型が相撲取りに似ているということで、他でもない、君自身が彼を馬鹿にしているんじゃないのか?」
クラス中の眼差しが、ミカエルに向けられた。
ミカエルが息を呑む音すら聞こえた。
「わたしは、そんな」
「言い訳をするんじゃない!」
滝川が机を叩く。表情が一転し、怒りに染まった。
ミカエルへの視線に感情がひとつ加わったかもしれない。
「俺は言い訳が嫌いだ。外見で人を差別することは差別するのは、人として最低の行為だ。人は外見じゃない。心が大切なんだ」
楽しいホームルームだったのに。
おまえのせいでマコっちゃんが怒ってしまった。
「俺が親しみを込めてつけたあだ名に対して、ミカエルは自らの差別する意識から、あんな行動に出たんだ」
クラスから、ミカエルに無言の抗議が為されているようだ。
「みんなも、ミカエルのような差別意識には気をつけような。彼女を許してやってくれ。きっと彼女も、悪気があってやったんじゃないんだ」
ガブリエルは、ミカエルと滝川をしきりに見比べている。
ウリエルは苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「ほら。東野ミカエル。幕下に謝りなさい」
裁かれる側と、裁く側は、あっけなく逆転した。
俺はミカエルの隣の席だからよく見えた。
彼女は拳を固く握り、膝に手を置き、動悸をこらえている。
「東野!」
また滝川が声を荒らげた。
ミカエルは再び立ち上がり、壇上の京介に向かい合った。
「ごめんなさい」
そして、きっかり九十度身体を曲げ、頭を下げた。
俺は初めてミカエルの謝罪を見た。聞いた。
「もう、馬鹿にしません」
ミカエルの声は震えていた。
天使は地上に降りると、力と同じくらい精神も弱くなるのだろうか。
滝川はイケメンに相応しく、にっと口角を上げた。
「よーし、これで仲直りだ。幕下」
おおっと、と滝川は言い換えた。
「どすこい京介にミカエル、席についていいぞ」
それでまた、笑いがおこった。
ミカエルも京介も席に座った。
クラスの空気はすっかり元通りだ。
俺は誰を見たら良いのか分からず、机に視線を落とした。
「長引いてすまない。悪いけど、次から自己紹介は手短に済ませてくれ」
何ごともなかったかのように、ホームルームは再び進んでいく。
俺は壁の時計を眺めて残りの時間を過ごした。
あれだけ騒々しかったミカエルも、ずっと黙りこくっていた。
変わったことと言えば、南野ウリエルが嫌味も傲慢な発言もなにひとつせずに、自己紹介を終わらせたぐらいだろうか。
かくして、2-Aに二人の有名人が新たに誕生した。
ひとりはスイーツが好きで、太った身体が愉快な、どすこい京介くん。
ひとりは我がままでジコチューで空気の読めない変人、東野ミカエル。
俺は地味な男子生徒、天堂城太郎のままでいることに成功し、つかの間の平和を手に入れた。