第八話 レーズンパンとワカメの臭気が合わさり不協和音を奏でる
警察から解放されたときには既に夜の七時を回っていた。
木刀は隠しておいたので、俺はただの目撃者Aになった。
通報したのは吉乃ナツキということになった。
タカ先輩を筆頭に、不良どもは俺のことをああだこうだ言っていたけど、あまりにもとっぴな証言なので取り合わられなかった。
ざまあみろ。
不良どもの行為は立派な犯罪だから、刑事裁判になって然るべきだが、ナツキはあまりことを荒立てたくないらしく、大した証言もしないで示談金すら取らずにさっさと警察を辞した。
「良いのか、あいつらただのカツアゲじゃなかっただろ」
「いいの。両親に知られたら面倒だから」
その一言で事件は終わった。
こってり絞られた不良ども置いて、俺達はアパートに戻った。
「今度こそまた明日」
「ああ、また明日。……ナツキ。ひとつ訊いても良いか」
「なあに」
「俺の部屋、騒がしくなかったか?」
「なんかやってたの? 気にしないで大丈夫よ。あたしの部屋、大家さんに許可とって六面防音魔改造してるから」
そういえば、ナツキの趣味は音楽鑑賞とエレキギターだった。
去年、大家のおばちゃんとナツキが大喧嘩していていた覚えはある。
昨日の敵は今日の強敵というのか、今では茶飲み友達らしいが。
喧嘩の原因は部屋の魔改造か……よく追い出されなかったな。
「天堂クンは壁際の部屋だから、あたし以外気にしなくて済んで羨ましいわ。あんたもエレキやらない?」
「俺に音楽センスを求めないでくれ。じゃ、また明日」
「気が向いたらギター貸すよ!」
ナツキのスルーして、俺はさっさと玄関をくぐった。
ああいうときはスルーするに限る。
彼女のおしゃべりは際限を知らないのだ。
「ただいま」
天使たちはいない。
部屋はうそみたいに静かだ。
さっきまでの騒動が夢のように思える。
あれは何だったのか。
彼女たちは、天使は、俺の日常に一筋の亀裂を残して消えてしま――――
「おかえりなさいませ、我が主!」
――――っていればよかったのに。
「まだいたのかよ、あんたたち」
俺は素直な感想をこぼした。
部屋には俺の大嫌いなレーズンパン臭が充満している。
それもそのはず、ミカエルが俺の目の前でレーズンパンをかじっているからだ。
ガブリエルは奥の座椅子を陣取り、夜のニュース番組を見ている。
その横にウリエルが小難しい顔で正座している。
人の家で何くつろいでるんですか。
「貴様、警察に逮捕されていたのではなかったのか」
俺が靴を脱いで部屋にあがると、ウリエルからすてきな挨拶を賜った。
「善良な市民たる俺がなんで捕まるかな」
「容疑は暴行罪だ」
「神の狩人を俺に任じたくせにひどすぎる」
「そうですよウリエルさん! 我が主は正義を執行したんです! どうして警察に逮捕されましょう!」
「あのうミカエルさん、暴行の証拠を隠したの俺だからね? いつの間にか消えたと思ったらなんでみなさん俺の家にいるかなあ」
「天界出身のボクたちに、日本の戸籍はないんだ。事情聴取されたら何かとまずいから、警察が来る前に引き上げさせてもらったよ」
「なるほど。それはまったく納得できる」
「我が主、我が主! 我が主の布団をここに敷きますからわたしは隣に寝てよろしいでしょうか?」
「ミカエルはなぜ当たり前のように寝袋を四つ持ちこんでいるんだ」
「もちろん就寝の準備です! もう夜の八時ですから!」
「健康優良児だな。だが待て待て待て。ここは俺の部屋。俺の家。分かる?」
「ええ、わたしたちと我が主の住み家ですよね!」
「駄目だ話が通じねえ」
「耳にワカメが詰まっているのは貴様のほうだ。貴様は母君からの手紙を読んだのではなかったか」
「はい?」
ワカメって言われたせいか、なんだかレーズンパンに混じってワカメのにおいがしてきた。最悪のハーモニーだ。
ウリエルは不遜な表情のまま、一枚の紙を机に広げた。
確かにそれは、彼女たちの服に同封されていた、母親からの手紙だった。
バカ息子へ。
先日の手紙で伝えたとおり、呪われた聖書をお送りします。
レーズンパンは役立ちましたか。
餌付けであなたの第一印象が良くなったことでしょう。
あなたに課せられた使命はあまりにも重くて、
いまのいままで伝えることができませんでした。
でもきっと、あなたならどんな危機でも乗り越えられる。
そう信じています。
困ったことがあったら何でも言いなさい。
母より。
追伸:
守護天使は神の狩人といっしょに住むことになってるらしいので、着替えを送ります。
「…………いっしょに住む?」
あのときはナツキが拉致られたことへの怒りに軽く読み飛ばしていたが、追伸にとんでもない一文があった。
「いっしょに住むぅぅぅぅ!?」
「そうよ、天堂さん」
狭苦しい空間に、更にラファエルがやってきた。
「はい、どうぞ。お夜食のワカメスープうどんよ。お腹空いたでしょう」
ワカメ臭いのはこいつのせいか。
俺が買い置きしておいたインスタントのワカメスープに、これまた買い置きしておいた激安白玉うどんが入ったどんぶりだ。
確かに俺は腹が減っている。
そんなの、そんなのいま目の前に置かれたら、
「いただきます」
素直に食べてしまうじゃないか。
箸で白玉うどんをつまみ、すする。
こしのない麺を噛み切るのは容易い。
安っぽい乾燥ワカメとインスタントだしの塩分が、俺の身体に染み渡る。
俺が買い置きしておいたチーズかまぼこが入っているじゃないか。
噛むとわざとらしいチーズ味が口に広がった。
畜生。美味い。
「落ち着いたかしら」
「ああ」
「腹が満たされると怒りもできぬか。哀れな生き物だな」
「うるせえ。怒りはハングリー精神が必要なんだよ」
それに、ラファエルが俺が食べるのをあまりに嬉しそうに見るものだから、怒りなんて萎えてしまう。
「ミカエル。レーズンパンの粉が落ちるから皿の上で食え」
「ふぁい!」
レーズンパンを口に突っ込んだままミカエルが返事した。
俺はひとしきりうどんをかき込んだ。
「どうしてあんたたちがいっしょに住まないといけないんだ?」
「守護天使ですから!」
「ならせいぜい精神体がひとりついてりゃ良いじゃねえか。よその部屋借りてこいよ」
「そういうわけにもいかないんだ、城太郎。これは決まりだからね」
「一人暮らしのワンルームに女子四人が余分に住むことが決まりなのか」
「決まりと言いますか、神の狩人の条件と言いますか、その……」
ミカエルが困ったようにウリエルを見た。
ウリエルは平べったい胸を張り、絶対零度の目で俺を見下した。
「貴様、猿もどきの分際で我ら相手に不潔な妄想をはたらいておるのか?」
なぜそうなる。
「そんなことねーよ。少なくとも幼女には興味ないから安心しろ」
「幼女とは何だ! 仮の肉体とはいえ我は誇り高き熾天使ぞ、貴様の同族といっしょにはされたくない」
「まあ、万が一天堂さんが私達を汚そうとしたら、天界警備システムが働いて私たちは守護天使の任を解除、元通りの力が与えられるわ。天堂さんが本当に灰になってしまうわねえ」
「何もしない、何もしない、俺は何もしませんよ」
「天界は天使と人間の関わりに神経質なんだ。過剰に気にする必要はないけど、気をつけてね」
つまり俺は。
四人の女子と一つ屋根の下でいっしょに寝起きし。
不埒な妄想を一切合切働いてはいけないと。
拷問か! 拷問だ!
いや、妄想は自由だ!
俺は復讐代わりに妄想してやるぞ!
「アザゼルちゃんのときはひどかったものねえ」
俺の密かな決意をよそに、ラファエルはぼやいた。
「誰だそれ」
「地上に降り、武具や染料の製法など、天上の秘技を人間達に教えてしまった堕天使です。ラファエルさんがあのときは捕まえに行って……前に我が主にお話しましたよね」
「ああ、あれか」
「そのとき、いっしょに降りた二百人の天使達は、地上の女性達と交わったのですが、生まれたのは天使でもヒトでもなく巨人だったんです。背たけは3000キュビト――ええと、1350メートルです!」
「でかっ。超大型巨人だな」
「天使と人間が肉体的交わりを持ってもろくなことは無いのだ。わかったか」
「よおく分かりました」
妄想に留めておきます。
とは言わなかった。口が裂けても言えない。
その代わり、俺はひとつ尋ねた。
「何で俺はこいつを使いこなせるんだ」
俺はポケットから血の聖書を取り出し、開いた。
どのページをめくっても、意味不明な文字列や図形で埋め尽くされている。
俺の英語力は落第ギリギリだし、そもそもこれは英語じゃないかもしれない。
「それは、我が主が神の狩人だからです」
ミカエルが自信たっぷりに即答した。
「血の聖書が神の狩人たる我が主に呼応し、神の狩人に相応しい知識を無意識下で伝えたのでしょう」
「なら、神の狩人なら、あれぐらいできて当然、ってことか」
「そういうことです! しかし無詠唱で術を使える者はそうそういません。やはり我が主には天賦の才があるとわたしは思います」
「いままでにも神の狩人はいたのか?」
「いました」
やけに早くミカエルは答えた。
「ですが、いまは我が主ひとりです」
「……そうか。もうひとつ。なぜ俺の母親が神の狩人や、あんたたちのことを知っていたんだ」
「ボクが伝えたんだ。城太郎の母君が妊娠したときにね」
「ガブリエルちゃんは告知の天使だものねえ」
「なら、俺が生まれる前に、俺が神の狩人に選ばれることは決まってたのか」
「そういうことだね」
「てなると、俺の顔が基準で選ばれた云々の話と見事に矛盾するんだが」
「きっと胎児レベルでイケメンだったんですよ!」
「なんだそりゃ」
「城太郎が選ばれた本当の理由は、父にお尋ねしなければわからないよ」
「誰か聞いてきてくれよ。天使だろ? 偉いんだろ?」
「そればかりは我々も知らぬし、教えてくれなくてな」
「…………」
結局、それらしい答えも聞き出せず、夜は更けた。
俺の布団は定位置で、右側にミカエルの寝袋、左側にガブリエルの寝袋。
ラファエルは台所の前に寝転がっていて、ウリエルはどうやら押入れで寝ているらしい。
抜群に狭いし息苦しい。酸素が足りていない。
そうだ、窓を開けて換気をしよう。
俺は慎重に立ち上がり、ミカエルをまたいで窓に手を伸ばす。
「我が主」
足元からささやかれた。
「まだ起きてたのか」
「我が主、神の狩人として頑張りましょうね」
「正義の味方ってガラじゃねーんだよ、あまり期待するな」
「頑張りましょうね!」
「はいはい。良い子は早く寝ろ」
俺は窓を開けた。
涼しくも生ぬるい、春の風が俺の頬を撫でる。
俺は確かに聞いた。
聞こえた。
「おやすみなさい、我が主」
そういう直前、ミカエルは確かに、ほんの掠れるような声で言った。
――あなたは本当に変わりませんね。
天界には企業秘密が多すぎる。
良いだろう。
神の狩人にでも、何にでもなってやるよ。
俺は俺のことを知るために。