夏霞
また寝ているんだな。辟易した彼女はまた、今日も言う。
彼此どれぐらいこのような文字通り、起臥するだけの生活を続けているのか、考えても見なかった。
あれはどれくらい前のことであろうか。
それこそ米作り一筋、先祖代々米農家の我が家を逆遇した、減反政策。
始めの内は奨励金も出されたし、転作も試みた。
然し、次第に奨励金も出されることは無くなり、慣れない別の作物への転作意欲も削がれていった。
農神様でさえどうすることも出来なかったのであろうこの政策は、辛くともそれはそれであった、我が小村の活気すら削ぎ、深閑とさせた。
「まんず、今度は橋んとこのおんちゃんさ死んだんだど」
主婦達の噂話が外から聞こえる。きっと、事実であろうが、噂で終わって欲しい。橋の袂のは古くからの友人だ。
そういえば最後に会ったのは一昨日、将棋を差した時だったか。普段から余り話す奴では無かったが、何時も戯けた様なことをしては、私を笑わせる様な奴であった。だが、あの日は違った。何処か余所余所しく、今までに奴と将棋を差して勝った試しの無かった俺が立て続けに勝ったのであったから。
碁は何時もまず私が勝つのだが、奴は直ぐに悔しさが顔に出る奴であった。だが、あの日は得意の将棋で負けても、負けても、ずっと微笑んで私を見ていた。
相当切り詰められていたのだろうか。奴の妻もつい先日倒れ、そのまま亡くなったと聞く。良い棺すら買ってやれないと嗚咽していた、あの時の奴の顔が忘れられない。
我が家の家計も火の車だ。と妻が日毎言う。だが、食材等も今のところ何とかしてくれている。どうにかしなくてはと考えるも、何の案も浮かばず、毎日寝てばかりいては妻に注意されるが、流石心中察してと言ったところか、余り辛く当たってくることは無い。
妻と結婚したのは丁度、廿四年前の夏、戦後間もなく生活は苦しかれど、それはそれで幸福な日々を過ごし、二年後には娘も生まれた。その時がもしかしたら幸せの絶頂期であったのかもしれない。
娘が漸く十歳になった夏の頃であったろうか、何時もの様に川に遊びに行ってくると言い、家を飛び出して行った娘はそのまま帰ってくることは無かった。
それからの十二年間で何とか気持ちの整理が付いた矢先であった。
妻は良くしてくれている。本当に感謝している。それだのに、何も出来ない自分の無力に愈々嫌気がさす。
そういえば、今日は結婚記念日だった。
娘が生まれた時に買った、懐中時計があった。今では止まっているし、もう使うこともあるまい。あれを売って久しぶりにケーキでも御馳走してやろう。
私はちょっと出掛けて来る。と言って家を出ようとしたが、無言で妻に止められた。その時の妻は何時もの快闊さを微塵も感じさせない、何処か淋しげな表情であった。気をつけてと何処か余所余所しく言う妻は新婚の頃のようで、初々しく、可愛らしかった。
外に出ると風鈴の音がそこそこ暑い外を涼しくしてくれているようであった。まだ日は高く無く、調度以前であれば畑仕事を終えて家に帰ってくる時間であったろう。
幾許か歩いたろうか、山を越え、街に着いた。日は燦燦と照り、益々暑くなってきた。
持ってきた懐中時計を握り締め、街を歩く。
歩いていると古びた質屋が一件目に付いた。店主はもう、80は行っているであろう爺さんで、人の良さそうな感じが良くわかる。 そこで幾らか金を借り、洋菓子店のSaint Germain en Layeに向かった。以前何度か妻と来たことのあるこの店のショートケーキは甘過ぎず、かといって甘くない訳で無く、苺の酸味と甘味を引き立たせたような、良い塩梅のケーキである。
若かりし日の妻のようだとふと笑い、ショートケーキを3つ買う。
それから村に入ると日が少し傾き始めており、夕飯時の良い香がとても心地好かった。
私は走って家へ帰った。
普段ならこの時間にもなれば家の電気は点けられ、夕飯の匂いがしていた筈なのだが、今日は電気が点いていなかった。
昼寝でもしているのかと、たまには料理でも作って驚かせてやろうと台所に立つ。味噌汁と御飯と焼き目刺しだけであるが、日頃の感謝もあるので、慣れない料理をする。
一通り出来たので妻を呼ぼうと寝室へ向かうが、いない。が、妙に片付いているようにも思えた。
居間で寝ているのかと居間に向かうも、妻の姿は見当たらない。代わりにちゃぶ台の上には一通の手紙があった。
暫く家を空けさせて頂きます。
突然で驚かれたと思いますが、すみません。
そういえば今日は結婚記念日でしたね。
Saint Germain en Layeのケーキを買ってきましたので、食べてくださいね。
冷蔵庫の下の棚に入っておりますので。
慕っておりました。
余りに唐突であった。
冷蔵庫の中を確認すると確かに、ショートケーキが一つ入っていた。
私の買ったショートケーキは走った時に崩れたのであろうか、箱の中で無惨な姿に変わり果ててしまっていた。
そのショートケーキを持って居間に行き、今までありがとうな。と一人呟くように嗚咽した。
とうに日は陰っていた。