タイトル未定2026/09/17 09:41
春になるたび、彼女は鉢を窓辺に置いた。
小さな白い鉢だった。
そこには、三年前に植えた花の種が眠っている。
「今年こそ咲くよ」
母は毎年そう言った。
だから彼女も、水をやった。
朝、カーテンを開けて水をやる。
学校から帰れば、土を覗く。
雨の日には窓を少し開けて、外の匂いを嗅がせた。
けれど、芽は出なかった。
一年目。
「水が足りなかったのかな」
二年目。
「日当たりが悪いのかな」
三年目。
彼女はとうとう、
「私、育てるの下手なんかな」
と言った。
母は何も答えなかった。
その年の夏、彼女は学校へ行かなくなった。
理由を聞かれても、
「わからん」
としか言わなかった。
友達が嫌いなわけでもない。
勉強が嫌いなわけでもない。
ただ、朝になると身体が重かった。
制服を着ると、
自分ではない誰かになっていくような気がした。
先生は言った。
「今はつらくても、ここで頑張ることに意味があるよ」
親戚は言った。
「どこへ行っても同じよ」
父は何も言わなかった。
母も、何も言わなかった。
ただ九月のある朝、
母は窓辺の白い鉢を持って庭へ出た。
彼女は二階から見ていた。
母は鉢を逆さにした。
黒い土が、
どさり、と庭へ落ちた。
「ちょっと!」
彼女は思わず窓を開けた。
「何しよるん!」
母は顔を上げた。
「引っ越し」
「は?」
母は土の中から種を探すこともなく、
そのまま庭の隅へ土を広げた。
「三年も咲かんかったんよ!」
「うん」
「もう死んどるかもしれんやん」
母は手についた土を払いながら言った。
「それなら、それでもいい」
そして空になった白い鉢を持って、
家へ戻ってきた。
その日の午後、
母は彼女を海へ連れていった。
学校のことは一度も話さなかった。
二人でソフトクリームを食べて、
くだらない動画を見て笑って、
夕方まで堤防に座っていた。
帰りの車で、
母が一度だけ言った。
「そこで咲かなくても大丈夫よ」
彼女は窓の外を見たまま、
「花の話?」
と聞いた。
母は笑った。
「さあね」
翌年の春。
庭の隅に、
見覚えのない芽が出た。
誰も水をやっていなかった。
誰も期待していなかった。
誰も毎朝、
まだか、まだかと土を覗かなかった。
五月。
小さな青い花が、
ひとつ咲いた。
彼女はしゃがみこんで、
しばらくそれを見ていた。
母を呼ぼうとして、
やめた。
その花が、
三年前の種だったのかどうかはわからない。
風が運んできた、
まったく別の種だったのかもしれない。
それでいいと思った。
彼女はその春、
新しい学校へ通い始めていた。
まだ友達はいなかった。
将来やりたいことも、
よくわからなかった。
それでも朝は、
少しだけ軽くなっていた。
彼女は青い花には触れず、
立ち上がった。
そして空になったままの白い鉢に、
今度は何も植えなかった。
いつか何かを植えたくなったら、
植えればいい。
花じゃなくてもいい。
咲かなくてもいい。
空っぽのままでも、
そこにはちゃんと、
春の光が入っていた。




