『最終話』ナポリタン。
夜だった。
雨は降っていない。
それでも、路地は静かで、
街の音は、少し遠くにあった。
その店は、そこにあった。
看板はない。
灯りだけが、柔らかく滲んでいる。
女は立ち止まり、しばらく眺めてから、ドアを開けた。
中には、カウンターと、黒猫。
「……まだ、やってるんだ」
答えはない。
猫は、ただこちらを見ている。
女はカウンターに座る。
懐かしい匂いが、すでに漂っていた。
キッチンの火が入る。
鍋を振る音。
やがて、目の前に置かれたのは、ナポリタンだった。
オレンジ色のソース。
玉葱とウインナー、ピーマン。
最初の夜と、変わらない。
女はフォークを取り、一口食べる。
味は、同じだ。
けれど、胸に広がる感覚は、違っていた。
温かい。
だが、もう、縋るような温かさではない。
女はゆっくりと食べ進め、皿を空にする。
「ご馳走様でした」
財布を取り出し、金を置く。
初めて来た夜より、迷いはなかった。
立ち上がり、ドアの前で立ち止まる。
「……ありがとう」
猫は、何も言わない。
ただ、一度だけ、尻尾を揺らした。
外に出る。
路地は、いつもの夜だ。
振り返ると、店の灯りは消えていた。
それでも、女はもう、探さなかった。
必要な時には、
きっと、また現れる。
あるいは――
もう、現れないかもしれない。
それでいい。
女は前を向き、歩き出す。
ナポリタンの匂いは、
いつの間にか、夜に溶けていた。




