第一話 ナポリタンと黒猫。
静かな雨の夜だった。
女は、目の前の店――初めて見るその店のドアを開けた。
看板はない。
だが、灯りだけがやけに暖かく、逃げ場のように見えた。
カウンターには大きな黒猫が一匹。
丸い目で、じっとこちらを見ている。
「……店員さんはいないのかしら」
独り言のように呟きながら、女は傘を畳み、カウンター席に腰を下ろす。
返事はない。
猫は瞬き一つせず、ただ見ている。
店内にメニューは見当たらなかった。
古い木のカウンター、控えめな照明、低く流れるジャズ。
落ち着いている、というより――時間が緩んでいるような空間だった。
外は雨。
どうせ急いで帰る理由もない。
女はスマホを取り出し、画面を見る。
未送信のまま残っているメッセージ。
指先が一瞬、止まる。
――今さら、送っても。
そう思い、画面を伏せた、その時だった。
キッチンの奥から、金属の触れ合う音がした。
思わず顔を上げる。
先ほどカウンターにいた黒猫が、そこにいた。
前足で器用に鍋を振り、火を操っている。
夢かと思った。
だが、次第に漂ってくる匂いが、現実を否定しなかった。
甘酸っぱく、香ばしい匂い。
どこか懐かしく、胸の奥を直接叩く匂い。
女は、思い出す。
今日は、ろくに食事をしていなかったことを。
それ以上に――ずっと、疲れていたことを。
やがて、目の前に皿が置かれる。
湯気を立てるナポリタン。
オレンジ色のソースが麺に絡み、
玉葱とウインナー、緑のピーマンが控えめに顔を出している。
「……食べて、いいの?」
問いかけると、猫は一度だけ尻尾を揺らした。
女はスマホをカウンターに置き、両手を合わせる。
「いただきます」
フォークで麺を巻き、口に運ぶ。
その瞬間、胸の奥に広がったのは、味よりも先に――感情だった。
懐かしさ。
放課後。
何も考えずに笑っていた頃。
ゆっくりと噛みしめる。
気づけば、体の芯から温まっていく。
――ああ、冷えていたんだ。
それに気づけないほど、余裕がなかった。
最後の一口を食べ終え、女は小さく息を吐く。
「ご馳走様でした」
猫は何も言わない。
ただ、静かに喉を鳴らしている。
女はスマホを手に取り、画面を見る。
先ほどの未送信メッセージ。
今度は、指が止まらなかった。
短く、だが確かに言葉を打ち込む。
送信。
立ち上がり、財布からお金を出してカウンターに置く。
「……これで、足りるかしら」
猫は、もう一度だけ尻尾を揺らした。
女は小さく微笑み、店を出る。
雨は、まだ降っている。
振り返ると、そこにあったはずの店は、灯りを落とし、闇に溶けていた。
看板は、やはりない。
女は少しだけ考え、
そして前を向く。
足取りは、来た時よりも、ほんの少しだけ軽かった。




