夜に生まれた車輪
「おめー、見ない顔だな」
どすん、と肩を叩かれた。振り返れば、鉱山の入口で作業員たちに声を飛ばしていた大柄の男が、じろりとこちらを値踏みしている。
胸の奥でどきりと心臓が鳴ったが、帽子を目深にかぶり、声を低くして答える。
「き、今日から来ました。……ばあちゃんが怪我して、薬代稼がなきゃなんねーんです」
男はしばらく睨んでいたが、やがてふんと鼻を鳴らした。
「ずいぶん貧弱そうだな! こんな場所は甘くねぇぞ」
「……頑張ります」
「へっ。根性あるかどうか、試してやるよ。てめーは残土と残石の運搬だ」
案内されたのは、採掘場の端に積まれた山のような残土だった。木製の台車に土砂や石を載せ、坑道の外まで延々と運び出す――それが今日の仕事らしい。
持ち上げた瞬間、腰が抜けそうになるほど重かった。タイヤ代わりの木の車輪はがたがたと揺れ、石畳に取られて前に進まない。汗が滝のように流れ、手のひらはすぐに痛みで痺れた。
(……三輪車があれば、どれだけ楽になるか。いや、レールを敷けばもっと効率がいいのに……!)
ホームセンターで鍛えた脳裏が次々と改良案を弾き出す。それでも今は“少年労働者”でいなければならない。ただ歯を食いしばり、前に押し出すしかない。
「お前! ちゃんと力入れてんのかよ!」
同じくらいの背丈の少年が怒鳴ってきた。額には土と汗が貼りつき、声は喉を裂くように荒い。
「入れてるよ! けど、動かねぇんだよ!」
必死に返しながら、二人で同じ台車を押す。きしむ音。ずるりと動く手応え。……それでも何とか、残土の山はほんの少しずつ崩れていった。
延々と続いた作業のあと、ようやく休憩の声がかかる。倒れ込むように石に腰を下ろすと、隣にいた少年がにやっと笑った。
「おい、イモ兄ちゃん。名前は?」
「え!? イ……イオリだ」
思わず口から出た偽名に、自分でも驚く。
「なんだよそのヘンテコな名前! 俺はガルドだ」
少年――ガルドは白い歯を見せて笑う。
「お前、細いのに根性だけはあるな」
「お、おう。サンキュー」
つい口をついて出た“異国の言葉”に、ガルドが眉をひそめる。
「サン……? 変な言葉使うなよ。お前、ここの国のやつじゃねーのか?」
「ま、まぁいろいろあんだよ」
曖昧に笑ってごまかすと、ガルドは肩をすくめた。
「……まあいいや。お前なんでここで働いてんの?」
「ばあちゃんの薬代」
「俺はな、将来は騎士になりてーんだ」
「騎士?」
思わず問い返す。
「ああ。騎士になりゃ、金に困らねぇ。路地裏で寝ることも、泥水啜ることもなくなる」
その言葉に、胸がちくりと痛んだ。すぐに分かる。――彼はストリートチルドレンだ。
貧しさの中で、それでも夢を抱えている。
「でも……騎士になるには読み書きできなきゃダメなんじゃない?」
問いかけると、ガルドは頭を掻いて照れ笑いを浮かべた。
「それが全然! 俺、文字なんざ一つも読めねぇんだ」
――その瞬間、イリスの心は強く震えた。
(……教えたい。私が十年で積み上げた知識を、この子に分けてやりたい)
けれど、その思いを口にする間もなく、監督の怒号が飛んだ。
「休憩終わりだぞー! 働けー!」
二人同時に「はーい!」と声を張り上げ、また同じ作業に戻った。
やがて夕暮れ。
一日の労働で渡されたのは、銅貨一枚だけだった。
(……なんて安い。けど)
掌に載せたそれは、彼女にとって何よりも重い“価値”を持っていた。
「なぁイオリ! 明日も来るよな!」
汗に濡れた顔で笑うガルドの声。
「……ああ。行くぜ!」
胸がじんわりと温かくなる。約束。――それが、こんなに嬉しいなんて。
鉱山から戻ると、マルタが青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「お嬢様っ……!? 大丈夫ですか!?」
イリスは帽子を外し、髪を揺らして息をつく。
そしてにやりと笑った。
「あー……楽しかった!」
その笑みは、十年間図書館に閉じこもっていた“狂人”ではなく――初めて“世界と繋がった”少女の顔だった。
⸻
次の日も、その次の日も――イリスは“イオリ”として鉱山へ通った。
ガルドと肩を並べて汗を流し、時に大柄の男ハーゲンの怒鳴り声を浴び、背筋を軋ませながら石を運んだ。
不思議と心は軽かった。
――生きている。
十年を閉ざされた図書館で過ごした日々にはなかった、痛みや疲労すらも愛おしいと感じる。
休憩時間、木陰に座って息を整えながらガルドに文字の書き方を教える。
泥だらけの鉱夫仲間に、貴族の娘である自分が筆をとる日が来るとは。
「おめー、本当になにもんだよ?」
疑いの視線に、イリスは帽子を目深にかぶり、低い声で答えた。
「俺は妖怪だー」
二人は吹き出し、腹を抱えて笑った。
――楽しい。
けれど、楽しいだけではすまされない。
腰は痛みで悲鳴を上げ、腕は鉛のように重い。
労働は現実であり、限界は近い。
その夜。
鉱山は昼間の喧噪が嘘のように沈黙していた。
たいまつの明かりは遠く、残土の山の陰は闇に沈んでいる。
イリス――“イオリ”は、そこで静かに膝をついた。
両手を広げ、目を閉じる。
木々の切れ端。
残石に混じる鉄鉱。
――この二つがあれば十分。
造作の力が、彼女の中で蠢いた。
木材がしなやかに組み上がり、鉄は不純物を剥ぎ取りながら車輪を形づくる。
ギシギシと音を立て、形の悪い板切れが均整を保ったフレームへと変貌する。
やがて、月明かりの下に小さな三輪車が姿を現した。
木と鉄で出来た、無骨だが頑丈な道具。
押すと、ごろり、と驚くほど軽く回転した。
「……できた」
額ににじんだ汗を拭い、イリスは小さく息をつく。
(これなら……彼らの腰を守れる。誰も苦しまなくてすむ)
胸が高鳴る。
彼女は三輪車を布で覆い、残土の陰に隠した。
――誰にも知られてはならない。
けれど、これは必ず“誰かの救い”になる。
⸻
翌朝。
鉱山に着いたイリスは、人だかりに気づいた。
ざわめきが響く。
「おい、なんだこれ!」
「荷を乗せる台か? ……おい、残土が入るぞ!」
「おお、動く! 腰が楽だ! 誰がこんなもん置いたんだ?」
「さあな! でも置いてあるってことは使っていいってことだろ!」
怒鳴り声でも罵声でもなく、笑い声が鉱山に広がる。
みんなの顔が明るく、汗に混じる笑みがそこにあった。
遠くからその光景を見ていたイリスは、胸が熱くなるのを感じた。
(……よかった。本当に、よかった)
その笑顔を見られただけで、昨日までの疲労も、痛む腰もどうでもよく思えた。
――秘密裏に造られた三輪車は、ただの道具以上のものだった。
それは彼女にとって、生きている意味を確かめる証だった。




