十四年前を、迎えに行く日
商館の前――
夕暮れの光が、石畳をやわらかく染めていた。
馬車の扉の前で、イリスがふわりとスカートの裾をつまみ、上品に一礼する。
「今日はとても素敵な時間だったわ」
リオンは、いつもの軽口を浮かべながらも、どこか躊躇いがちに口を開いた。
「なぁ? 一つ聞いていい?」
「なに?」
イリスが首を傾げる。その仕草はいつも通りなのに、今日だけはどこか“距離が近い”気がした。
リオンは頭をかきながら、半分冗談、半分本気で言う。
「……あのさ。
お前が村を買い取ったのってさ――
わざと大盗賊団に目をつけられるため?」
イリスは一瞬だけ目を丸くし、
すぐに口元をおさえてクスクスと笑った。
「さぁ? なんのことかしら?」
まるで何も知らない無邪気な令嬢の顔。
だけどリオンには分かってしまう。
「絶対、確信犯じゃん……!
怖っ! 知らない間に敵討たされて、
俺ら、お前の手のひらで踊らされてたじゃん」
笑いながら言っているのに、声が少しだけ震えていた。
イリスはふっと笑いをおさめ、リオンを見上げた。
その瞳はまっすぐで――けれど、どこか遠くを見ている。
「そんなことないわよ」
静かに、でもはっきりと言葉を紡ぐ。
「リオン。
私はね、あなたに――笑っていてほしいのよ」
その一言に、胸がきゅっと締め付けられた。
リオンは思わず息を飲む。
(……まただ)
その眼差しは、自分を見ているようで、
自分以外の“何か”を重ねているようでもあった。
守れなかった誰か。
救えなかった誰か。
もうこの世界にはいない誰かなのか。
それでも――
今ここで、イリスは確かに“リオン”を見ていた。
「遅くなると、またガルドが怒り出すから。
早く帰ってね」
イリスは、ふっと空気を軽くするように笑う。
「あっ、そうだ。これ、この前のマント、ありがとう」
そう言って、畳まれたマントをリオンの腕にそっと乗せた。
「おやすみなさい、リオン」
そう告げて、イリスは商館の扉へと向かう。
振り返らない。
けれど、背中からでも分かる。
――今日、彼女は確かに、リオンの心を救ってくれた。
リオンは、その背中が扉の向こうに消えるまで黙って見送った。
そして、マントを抱えたまま、馬車に乗り込む。
⸻
馬車がゆっくりと動き出す。
窓の外の景色が離れていく中、
リオンは受け取ったマントの布地を何気なく指で撫でた。
そのとき――
ガサッ、と小さな音がした。
「……ん?」
マントの内側を探ると、
手のひらほどの布袋がひっかかった。
素朴な布で作られたそれには、
見慣れた文字が小さく、丁寧に刺繍されていた。
――“リオン”
「……っ」
喉の奥が熱くなる。
震える指で布袋の口を開くと、
中には一枚の紙が折りたたまれて入っていた。
そっと広げる。
イリスの、整った文字が並んでいた。
『エドラン騎士があの日身につけていた物です。
奥様にお願いして、少しだけ分けていただきました。
――エドラン・ハイゼル騎士の誇りと共に』
紙が、わずかに震える。
震えているのは、リオンの指だった。
ゆっくりと、布袋の中をのぞき込む。
そこには、小さく折りたたまれた布切れがひとつ。
深い赤色――
しかし端は焼け焦げ、ところどころ黒く変色している。
それは、
かつて風をはらんで翻っていたであろう
一人の騎士のマントの端布だった。
指先で触れると、ざらりとした感触。
焦げた跡。血のようなシミ。
一気に、胸にこみ上げるものがあった。
「……っ……」
ぽたり、と涙が布に落ちた。
「……今日の俺、よく泣くな……」
笑おうとした声は、情けないほど掠れていた。
喉の奥から、どうしようもなく込み上げてくる涙。
止めようとしても止まらない。
布袋ごと、端布をぎゅっと握りしめる。
「……あぁ、くそ……」
あの日。
炎の中で、自分の背中を押してくれた手。
“逃げろ”と笑った声。
全部、一緒に燃えて消えたと思っていた。
――でも。
「……ちゃんと……残ってたんだな……」
こんな形で、
こんなふうに、自分の手のひらに戻ってくるなんて。
「……あー、もう……」
涙で視界が滲む。
それでも、窓の外の空はやけに鮮やかで、
さっきまで見ていた“あの村の青空”と同じ色をしていた。
リオンは、布袋を胸に抱きしめたまま、
笑いながら、泣いた。
「……今日、俺があの場所に連れてくって……
分かってたんだろうな、イリス」
こんなもの。
事前に用意していなければ、渡せるはずがない。
つまり――
最初から、このデートは。
リオンの、心の中の“十四年前”を
救いに行くための時間だったのだ。
「……すげーよ、お前……ほんと……」
涙でぐしゃぐしゃになりながら、
それでも笑うことはできた。
布袋の刺繍が、にじんで見える。
“リオン”
それは少年の頃、
誰にも認められないままだった名前。
でも今は違う。
自分の名を呼ぶ仲間がいて。
その名を刺繍してくれる令嬢がいて。
そして、自分が目指した“騎士”の背中に
ようやく手が届いた気がした。
「……ちゃんと、守るからさ」
ぎゅっと端布を握りしめる。
「あんたの息子も。
あの村も。
イリスも。
……俺が、守るから」
小さく、誰にも届かない声で、
それでも確かに誓いを立てた。
馬車は、王都へ向かって進んでいく。
胸の中で揺れる布袋の重みは、
十四年前には持てなかった“誇り”そのものだった。




