令嬢、筋トレ始めました
「お母様やお父様はどちらへ?」
問いかけると、執事が恭しく答えた。
「ただいま遠方に視察に出ておられます。ですが――イリス様が帰宅されたとお伝えすれば、すぐに戻られるでしょう」
「……どのくらいで?」
「三月ほどかと」
三か月。
思ったより、長い。
私は心の中でくすりと笑った。
(じゃあ、準備する時間は十分にあるってことね)
十年。図書館に籠もり、紙とインクをむさぼり続けた私の身体は、情けないほどに鈍っていた。廊下を少し歩くだけで息が切れる。小瓶をいくつも運べば腕が震える。
(これじゃ、知識を武器にしても、実際の行動ができない……!)
窓から差し込む光を仰ぎ、拳を握る。
(体力をつけなきゃ。筋肉を――!)
とはいえ、この屋敷にプロテインもサプリもない。
けれど、私はかつての記憶を思い出す。
前世。ホームセンターのスポーツコーナーで、ダンベルやチューブ、ヨガマットを並べていた日々。
お客様に「どれが初心者向け?」と聞かれて説明したこと。プロテインの棚を整理しながら、自分も買ってみようかと迷ったこと。
あの経験は――無駄じゃなかった。
「造作で作ればいいじゃない」
呟いた声に、胸の奥が熱くなる。
さっそく倉庫へ足を運び、材料を集めた。
木の棒、鉄片、革の端切れ。
思い浮かべるのは前世で何度も見た光景――手にずしりとくるダンベルの重み、ぐっと引き締めるチューブの弾力。
光が走り、私の掌の中で形が変わる。
革のベルトに鉄の塊を通せば、手作りのダンベル。
布を編み込み、伸縮性を与えれば、トレーニングチューブ。
「……これでいい!」
思わず頬がにやけた。
その夜、私は寝室の片隅で、こっそりスクワットを始めた。
一回、二回。太ももが悲鳴を上げる。
腕立て伏せも、十回で潰れた。
「っ、ぐぅ……うおおおおお……! 太もも爆発するうう!」
「はぁ、はぁ……腕、もう動かない……」
床に突っ伏しながら、笑いが漏れた。
(この苦しさ、懐かしい……)
前世、閉店後の売り場で什器を運びながら「筋トレみたいだな」と笑っていた日々。
その時の“汗”の感覚が、今、確かに蘇っていた。
「大丈夫。三か月あれば、必ず取り戻せる」
小さな声でそう誓い、私は再び床に手をついた。
⸻
食事も意識して、できるだけ肉や卵を摂るようにした。豆も欠かさない。十年前の自分なら顔をしかめていた献立も、今は「タンパク質だ」と思えば嬉しくて仕方がなかった。
そうして二ヶ月。汗と筋肉痛にまみれる日々を経て、ようやく廊下を歩いても息が切れなくなった。
(……うん、もう大丈夫。前世の売り場で棚卸ししていた時くらいの体力は戻ってるわね)
窓の外を見やり、私は小さく頷いた。
(体力がついたなら――次は外だ。鉱山を、この目で確かめたい)
けれど、執事に相談すれば間違いなく「ご令嬢には相応しくありません」と止められるだろう。ならば、別の手を使うしかない。
私はふと、最近特別に親しくなった人物の顔を思い浮かべた。
――侍女のマルタ。
ひび割れた手を救ったハンドクリームをきっかけに、彼女は私を信じてくれるようになった。
「マルタ、一緒に街まで出かけましょう」
軽く声をかけると、彼女は嬉しそうに頷いた。
屋敷から少し離れた道で、私はふと切り出した。
「……実は、鉱山に行ってみたいの」
マルタは目を丸くして立ち止まった。
「えっ!? イリス様、それは……無理です。貴族があんな場所に近づいたら、すぐに騒ぎになります」
「どうしても、ダメ?」
私はいたずらっぽく首をかしげる。
マルタは口ごもり、そして小さく言った。
「……もし“働く”なら、入れるかもしれません」
その瞬間、胸が高鳴った。
「働く!? 最高じゃない! 私、働くわ!」
「で、ですが……その服装では」
マルタが困ったように私を見上げる。
「そうねぇ……」
マルタはしばし考え、やがてぽんと手を打った。
「私の実家に弟の服があります。鉱山の近くですから、寄れば……でも、そんなことをしたら罰せられます!」
「大丈夫よ」
私はクスクスと笑い、唇に指を当てる。
「二人だけの秘密、ってことで」
その言葉にマルタの顔は一瞬で真っ赤に染まり、視線を逸らした。
「……秘密、ですね」
彼女の家に通され、差し出されたのは粗末な布のシャツと丈夫なズボン。私は長い髪を帽子に押し込み、鏡の前に立つ。
そこには――どこからどう見ても少年の姿があった。
「ふふ……十年ぶりに、働くわよ」
胸の奥がぞくりと震える。図書館に籠もっていた十年を越えて、再び“現場”に立てるのだ。
ただの伯爵令嬢ではなく、労働者として――鉱山へ足を踏み入れる。
そして、ほんの一瞬。
処刑台で見た青空の記憶が脳裏をよぎった。
(……今度こそ、ここから運命を変える)
私は少年の服をまとい、強く前を見据えた。




