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処刑台から始まる、狂人令嬢の記録  作者: 脇汗ベリッシマ
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怒らせてはいけない女

―耳を裂くような悲鳴だった。

モーモーさんの、これまで一度も聞いたことのない声。


イリスは反射的に身体を跳ね起こした。

土壁の小屋の扉を蹴り開けると同時に、左右の部屋からオズとマルタも飛び出し、同じ方向へ駆けていく。


朝霧が地を這う。

冷たい空気が肌を刺し、胸の奥まで焦燥が走る。


「嫌な声だ……ただ事じゃねぇ!」


オズの言葉に、イリスは返事すらしなかった。

心臓がひどく早く打ち、痛いほど脈打っている。

胸騒ぎでは済まない――これは確実な“危険”だ。


牛舎の扉が視界に入る。

中から、さらに弱々しい呻き声が漏れた。


イリスは迷いなく駆け寄り、勢いよく扉を押し開けた。


――瞬間、世界が凍りついた。


薄暗い牛舎の中で、一人の長身の影がモーモーさんの首を掴んでいた。

黒髪は泥で固まり、服はぼろ切れ。

だが、その腕には生々しい筋肉が浮き上がり、獣じみた緊張が張りつめている。


その手には、短い刃物。


モーモーさんの体は震え、その首に冷たく光る刃先が押し当てられていた。


「……なに、してるの」


イリスの声は低く、静かで、氷のように冷えていた。

怒りというより――殺意に近い何かが滲んでいる。


男は振り返り、鋭く笑った。


「見てわかんねぇのか? 盗んでんだよ。牛ってのは金になるんだろ?」


イリスの眉がわずかに動いた。

呼吸は一定のまま。

ただ、胸の奥で何かがじりじりと焼けていく。


「モーモーさん……嫌がってるじゃない。離して」


一歩踏み出した、その刹那。


男が動いた。

手元の刃がきらりと光り――。


ざくり。


モーモーさんの首から、細い赤い線が流れ出た。


「モォ……」


悲痛な声に、イリスの視界が白く弾けた。


熱が、こみ上げる。

怒り……では足りない。

胸の奥に積み上がっていたもの――

理性、礼儀、貴族教育の残滓、そういった全部が崩れ落ちた。


イリスはゆっくり、男を見据える。


「……今の、誰に向けた刃か……わかってるのよね?」


男が刃を構え直す。

イリスは微動だにせず、その刃先を真っ直ぐ見つめた。

その静けさが、逆に恐ろしい。


「近づくな! 殺すぞ!」


叫びと同時に、イリスの姿が掻き消えた。


風が逆流する。


――次の瞬間、男の手首が、不自然な方向へ折れ曲がった。


「ぎッ……!!?」


刃物が地に落ちる。

男がうずくまるより早く、イリスの膝が鳩尾へ沈み、空気が飛び散るような音が響いた。


息を吸う暇すら与えず、拳が横顔を打ち抜く。

頬骨が砕ける鈍い音。


「う……ごっ……!」


男が地に崩れ落ちる。

イリスは背中に膝を落とし、馬乗りになる。


表情は、氷のように冷たい。


「うちの子に……刃を向けるなんて……」


拳が落ちるたび、朝靄の中に重い音が響く。


「許すわけ――ないでしょう?」


血が跳ね、土に染み込む。

男は地を掻きながら、苦しげに声を漏らすばかりだった。


やがてイリスは大きく息を吐き、拳を止める。


倒れた男に一瞥もくれず、モーモーさんのもとへ駆け寄る。


「痛かったでしょう……ごめんね。もう大丈夫よ」


そっと布で首元を押さえる。

先ほどまで暴力の具現だったとは思えないほど優しい手つき。


背後で、ようやくオズが声を絞った。


「……さすが、庶民に化けて騎士試験に受かっただけあるな」


冷や汗が首筋を伝う。


「怒らせたら……マジで終わる女だわ、お前……」


マルタが震えながら呟く。


「お嬢様……こ、怖……いや、でも……カッコいい……」


イリスは振り返らず、モーモーさんを撫でながら言った。


「モーモーさんに触るならね……まずは私に許可を取りなさい」


朝日はまだ昇らない。

だが、この日、村の者たちは理解した。


――イリスを怒らせてはいけない。

そして同時に、

――この女ほど、この村を守れる者はいない。



 目を覚ました時、少年はまず息を呑んだ。


 天井が見える。乾いた藁の匂い。

 体中が痛む。特に――右手首。

 動かそうとした瞬間、激痛が走った。


「っ……いってぇ……!」


 続いて気づいた。

 両手首には鉄の輪がはまり、太い鎖が床に固定されている。


「……は?」


 混乱と痛みでうめく少年の前に、ひとりの少女が影を落とした。


 金色の髪。土に汚れた作業着。

 なのに、背筋だけは研ぎ澄まされた刃のように真っ直ぐだ。


「目が覚めたのね。」


 イリスは淡々と告げた。


「治療はしておいたわ。骨は……まあ、折れてるけど。

 力加減が効かなかったのは謝るわね。あなたが悪いのだけど。

 モーモーさんを傷つけたんだから。」


 少年は顔をしかめた。

 痛みと屈辱で、喉の奥から怒りが滲み上がる。


「……くそ……捕まったのかよ。

 で? どうすんだよこれ。

 騎士団にでも突き出すのか?」


 言った瞬間、横からオズの怒鳴り声が飛んだ。


「おいクソガキ!! 言葉遣いには気をつけろ!

 次は逆の方の腕折られてぇか!?」


「オズ、脅さないの。」

 イリスはさらりと言った。

「折るなら私がやるから。」


「お嬢様!?!?」

 マルタが青ざめる。


 少年は唾を吐き、鎖をガチャガチャと引いた。


「チッ……どうせ騎士団なんだろ?

 どうせ俺みてぇな孤児は、牢にぶち込んで終わりだろが!」


 イリスはふ、と笑った。


「騎士団に引き渡す?

 そんな甘いことするわけないじゃない。」


 少年の動きが止まる。


 イリスはゆっくりしゃがみ込み、目の高さを合わせる。

 その表情は笑っているのに、底が冷え切っていた。


「あなたは一生――」


 言葉の刃がすっと降りる。


「わたしの奴隷よ。バーカ。」


「…………は?」


 少年の瞳に、恐怖がゆっくり浮かぶ。


 後ろでマルタが震えながら囁いた。


「お嬢様……なんだが今日はとてもこ、怖すぎます……」


「逃げた方がいいかもな……あれ怒らせたら俺ら死ぬぞ……」

 オズも声を低くする。


 イリスだけが平然としていた。


「じゃ、まずは名前から聞きましょうか、クソガキくん。

 逃げる気なら先に言っておくけど……」


 微笑み。

 だが、その目はまるで獲物を捕らえた猛獣だった。


「逃げても絶対捕まえるから。

 骨が何本折れても私は構わないわよ?」


 朝の光が差し込む。


 ――この日、ひとりの少年は理解した。


 自分は、とんでもない人間に目をつけられたのだと。


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