会うたびに、好きになっていた
「あーーー疲れたぁぁ……!」
私はその場に座り込んだ。
膝から力が抜けて、土の上にへにゃっと崩れる。
もういい、今日はこのまま地面と一体化してもいい。
「久しぶりに“貴族スマイル”なんてしたら顔が攣りそうよ。
あれ絶対、貴族の修行の中でも拷問に分類されるわ……」
モーモーさんが「モォ」と鳴いた。
ええ、あなたはいいのよ。撫でたら笑顔になるんだもの。
人間は面倒くさい。
「やっぱり私、モーモーさん撫でて土いじってる方が
ずっと性に合ってるわ……」
振り返ると、オズが呆れた顔で腕を組んでいた。
「お前……だんだん貴族からかけ離れていってるぞ。」
「元からそんなに近くなかったでしょう?」
「いや、最初はまだ“それっぽい”ところがあったんだよ。
挨拶とか、歩き方とか……なんか優雅だったろ。
それが最近じゃ、牛に名前つけて、
“黄金のうんこ~”とか言い出すし……」
「だって黄金よ?」
私は真剣に言い返す。
「あれがなかったら畑も道も復活しなかったのよ。
必要なものは必要なの。」
オズは頭を抱えた。
「……ほんとに、お前は変わってんな。」
「褒め言葉として受け取っておくわ。」
私は土に手を突く。
ひんやりして、じんわり温かくて――この感じが好き。
貴族としての一日は、胸の奥に薄い鉛を落とす。
気品だの礼儀だの……ああいう鎧は、もう重くて仕方ない。
でも。
土に触れた瞬間だけは、全部が剥がれていく気がする。
(……ああ、ここが“今の私の居場所”なんだな。)
「……今日はもう働くなよ。」
オズがぽつりと呟いた。
「働くわよ?」
私はきっぱりと言う。
「だって、道はまだ終わってないもの。
それに、ジャガイモの芽がどうなってるか見たいし。」
「……はぁ……ほんと貴族じゃねぇな、お前。」
「だから言ったじゃない。
私は、“生きるための仕事”の方が性に合ってるって。」
夕陽が落ちていく。
土の匂い、発酵の匂い、村の夕刻の音。
その全部が――
貴族としてのどの一日よりも、ずっと温かかった。
⸻
政庁の夜は冷たいほど静かだった。
窓の外で灯が消えていくたび、ようやく一日の終わりが近づく。
セイランは机に手を置いたまま、動かなかった。
今日、廃村で見たイリス グランディアの姿が――
脳裏から落ちてくれなかった。
泥まみれで、笑って、
自分のレールを歩くように村を再生させていた。
(……まただ。)
“また” という言葉が頭の中で転がる。
彼女に会うたび、胸の奥がわずかに痛む感覚。
最初は興味だと思った。
図書館で出会った、あの鋭い言葉。
その日からイリスに会った日は、
必ず夜寝る前にその表情を思い出していた。
(……十年。いや、もっとか。)
いつからだろう。
いつから、そうなってしまっていた?
最初は気に留める程度だった。
次に“珍しい”と思った。
その次は“気になる”。
そして今日。
胸の奥が焼けるように熱かった。
「…………」
ペンを取ろうとした指先が、そこで止まる。
書けない。
何も考えられない。
“今日のイリスを思い出したら、言葉が止まる”
そんな経験は、一度としてなかった。
(会うたびに……増えていたのか。)
気づけば心の片隅に彼女がいて、
気づけば彼女の言葉を思い出し、
気づけば、視察でも一番先に彼女を探していた。
それを“恋”とは呼ばなかった。
呼ばせてはいけなかった。
だが今日――
泥まみれで土を触って笑う彼女を見た瞬間、
胸の奥の何かが、音を立てて崩れた。
(本当に……君は、会うたび違う。)
図書館で斬りつけるような言葉を放つかと思えば、
美しい姿で社交界に現れ、
そうかと思ったら男装し、
鉱山で命を賭けて伯爵に背を向け、
騎士候補生に化けたと思ったら傷だらけになり、
今日は泥にまみれて道を作って笑っていた。
どの顔も、俺の想像のずっと先にいる。
(……ああ。今日、ようやく理解した。)
好きだ。
ずっと前から。
積み重なったまま、気づかなかっただけで。
だが。
「……届かない。」
その一言には、迷いも揺らぎもなかった。
王族としての未来も、
王妃となるべき者も、
国の制度も、
すべてが彼の心を縛っている。
イリスは自由だ。
誰の期待も背負わず、泥の中で、風の中で笑っている。
追いかけるには遠く、
手を伸ばすには、許されない。
それでも――
心はどうしようもなく、あの女に向かってしまう。
セイランは顔を覆った。
自覚してしまった以上、
今日が“戻れない夜”になったと理解していた。
それでも――
胸の奥の熱は、消えるどころか、
今日、ようやく形を得て、静かに燃え始めた。
「……イリス。」
呼んだ名前は、誰にも届かない。
その名前を呼ぶたびに、
好きになっていくことに、彼はまだ気づかない。
ただひとつ、確かだった。
会うたびに好きになっていたという真実は、
今日初めて残酷なほど鮮明になった。




