光の届かない場所
「今日はわざわざお越しいただき、ありがとうございました。」
夕陽の下、イリスは深く一礼した。
その笑顔はあくまで穏やかで、泥にまみれた手のひらさえ誇らしげに見えた。
「いや……とても有意義な時間だったよ。」
セイランが口元に柔らかな笑みを浮かべる。
その声には、ほんの一瞬だけ――温もりがあった。
アデールは横で見ていた。
その微笑みを、これまで自分に向けられたことがなかったと気づくまでに、
一拍もいらなかった。
⸻
馬車の中。
扉が閉じられると同時に、外の光も消える。
残されたのは、静寂と、車輪が地を噛む鈍い音。
セイランは窓の外を見つめていた。
イリスと話していた時の笑顔は、跡形もなく消えている。
その横顔は、彫像のように整っているのに、どこまでも遠かった。
「殿下。」
アデールは小さく微笑み、声をかける。
「今日は……とても素敵な時間でしたね。」
「ああ。」
短い返事。
視線は窓の外から動かない。
ほんの数刻前、イリスに向けられていたあの穏やかな声色が、
今はどこにもなかった。
代わりに響くのは、冷たく乾いた声。
アデールは、胸の奥で何かが小さく崩れる音を聞いた。
(――わたくしでは、笑わないのですね。)
指先が震えた。
膝の上で組んだ両手を固く握りしめる。
それでも、表情だけは完璧に保った。
それが“婚約者”としての、最後の矜持だった。
窓の外、遠ざかっていく村。
金色の髪が夕陽を受けて光っていた。
まるで彼女だけが、世界の中心にいるかのように。
(……あの方は、光に惹かれる。)
(その光の中に、わたくしはいない。)
胸が焼けるように痛い。
けれど、涙はこぼれなかった。
淑女の頬を濡らすには、まだプライドが勝っていた。
「殿下。」
アデールは微笑んだまま、静かに言った。
「お疲れでしょう。少しお休みくださいませ。」
セイランは返事をしない。
ただ、遠くで笑う誰かを思い出しているように、
わずかに口元を緩めた。
⸻
私は、生まれた時から殿下――セイラン様との婚約が決まっていた。
それは国の意志であり、家の誇りであり、私の“存在理由”だった。
幼いころから、すべてはその日のために用意された。
言葉遣い、立ち居振る舞い、微笑み方、歩幅まで。
息をするたびに「未来の王妃として」と言い聞かせられた。
厳しい日々だったけれど、苦ではなかった。
だって、あの人の隣に立てるなら――それでいいと思っていたから。
初めてお会いしたのは、私が五歳の時。
殿下は八歳で、すでに他の子とは違っていた。
小さな体に似合わぬ静けさ。
笑わず、怒らず、泣かない。
まるで、心というものをどこかに置き忘れてきたようだった。
――何を考えているのかわからない。
――考えているかどうかも、わからない。
――絶望しているのかもしれない。
ただ、“わからない人”だった。
それでも、私は惹かれた。
人は“わからないもの”を理解したくなるものだから。
やがて時が流れ、彼は変わった。
本を片手に、いつも静かに学んでいた。
誰よりも勤勉で、誰よりも冷静で、
政のことを語るときだけ、ほんの少しだけ瞳が揺れるようになった。
その変化が、嬉しかった。
だって、そんな人が――私の夫になるのだから。
……そう、思っていた。
けれど、あの日を境に気づいてしまったの。
彼は、私を“見ていない”。
食事の席でも、報告の時でも、
彼の視線はいつも遠くを見ている。
私の声は、空気のようにすり抜けていく。
笑いかけても、彼はただ頷くだけ。
まるで、私が“いない方が自然”だと言わんばかりに。
それでも私は、笑った。
完璧な王妃になるための、完璧な仮面をかぶって。
でも――今日、あの女を見た時に悟ってしまった。
わかったの。
私は、王妃になるために生きてきたのではない。
ただ――愛されない運命の中で、生かされてきただけ。
ガラスのように磨き上げられた人生の中で、
一度も、誰かに“見つめられた”ことなどなかったのだと。
(……殿下。)
⸻
馬車の外では、イリスの笑い声がまだ響いていた。
それは、春の風よりも柔らかく、
アデールの心を切り裂くほど眩しかった。




