命は理屈じゃなくて、温度で芽吹く
モーモーさんの発酵槽から、もわりと湯気が立ちのぼる。
甘くも酸っぱいような匂い――生き物の匂い。
イリスは桶を抱えて立ち上がった。
「よし、今日こそこの“黄金”を畑に還すわ!」
「……おい、その言い方やめろ。“黄金”って言うな。」
オズが遠巻きに顔をしかめる。
「なにを言ってるの。これが村を救うのよ?
腐って、混ざって、また命になる。最高じゃない。」
イリスは軽やかに歩き出すと、
ざばぁっと発酵済みの牛糞を土に流し込んだ。
蒸気が上がる。
熱とともに、まるで地面が息をするように膨らむ。
「ね? 見て、オズ! 土が温かい!」
「見ねぇよ!」
「もぉー少しぐらい手伝ってよー!」
イリスが笑いながら振り向く。
「俺は商人だ。畑仕事は専門外だし、うんこなんて論理的に無理」
「はいはい、言い訳上手~」
文句を言いながらも、オズは結局近寄らない。
足元の泥を見て、ひとつため息をつく。
「……ほんとにやりやがったな。」
イリスは膝まで泥にまみれ、頬に汗を流しながら、
桶を振り上げて次の一掬いをぶちまけた。
「いいの、誰かが最初に汚れなきゃ、
きれいなものは育たないのよ。」
「俺はきれいな方でいい。」
「じゃあ、わたしは汚れる方を選ぶわ。」
イリスの笑顔はまっすぐで、
その泥も汗も、まるで光を帯びて見えた。
モーモーさんが遠くで「モー」と鳴いた。
風が吹き抜け、発酵の匂いと一緒に、
少しだけ――春と夏の匂いが混ざった。
⸻
それから、一週間が経った。
モーモーさんの“黄金”はすっかり土に馴染み、
黒く、ふかふかと柔らかい。
イリスはしゃがみ込み、掌で土をすくった。
「ねぇ、オズ。見て、この土。生きてるわ。」
「……生きてるって言うな。」
「じゃがいもを植えるわ。」
「は? また突然だな。」
イリスは笑いながら、袋からごろごろと種芋を取り出した。
「腐ってた土が息をして、
今度は“食べられる命”を返してくれるのよ。
素敵じゃない?」
「お前はほんと、発想が飛んでんな……」
オズが頭をかきながらも、
その光景を目を細めて見つめる。
「大地が蘇るって、こういうことなのね。」
イリスが種芋を埋めながら呟くと、
遠くでモーモーさんがまた一声「モー」。
風が吹き、陽光が畑を照らした。
土の中で、静かに――
新しい命が芽吹き始めていた。
⸻
封を切ると、春の土の匂いがした。
それはインクでも香料でもない。
まるで、風そのものを閉じ込めたような――そんな香りだった。
「じゃがいもを植えました。」
手紙の冒頭は、相変わらず唐突だった。
「土が柔らかくなったの。
モーモーさんの“黄金”がようやく馴染んで、
手を入れると、まるで呼吸しているみたい。
この土なら、きっと命が根を張ると思ったの。
だから今日、最初の種を埋めました。
オズは“論理的に無理”とか言ってましたけど。
でも、わたしは信じてるの。
命は理屈じゃなくて、温度で芽吹くのよ。」
読み進めながら、セイランは小さく息を吐いた。
指先に紙の温もりが残る。
「……モーモーさん……」
呟いた声に、ふと笑いが混じる。
彼女の言葉はいつも、どこか現実離れしている。
それでも――不思議と、灰色の政庁に色をもたらしていた。
窓の外、まだ寒い風が吹いている。
けれど、この手紙の中では春が始まっていた。
セイランは手紙を胸に押し当てた。
まるでそこから、ほんの少しだけ温かさが移る気がした。
「……命は理屈じゃなくて、温度で芽吹く、か。」
誰に言うでもなく呟きながら、
彼は机の端に置かれたペンに目をやった。
それは、まだ返事を書いていない手紙用のペンだ。
彼はそっとインク瓶の蓋を開け、
迷いながらも一行だけ、静かに書き始めた。
――「芽吹いたら、見せてくれ。」
インクの滲む音が、
政庁の静寂に小さく溶けていった。




