モーモーさんと黄金の原料
「今日からあなたは――モーモーさんです!」
イリスが胸を張って宣言すると、
牛は「モー」と一声鳴いた。
偶然にも返事のように聞こえて、彼女は満足そうに頷いた。
「可愛い名前でしょう?
ほら、オズ、笑って。名付けって縁起物なのよ。」
「……お前、貴族だよな?」
オズは呆れたように言いながら、
鍬を肩に担いで首を傾げた。
イリスはその言葉など意にも介さず、
木桶を抱えて牛小屋の裏にしゃがみ込む。
「ふふ、これが“黄金の原料”になるのよ。」
「……は?」
「モーモーさんの糞。これを発酵させるの。」
イリスはまるで宝石を扱うように真剣な顔で説明した。
「発酵させて畑に混ぜると、土が生き返るの。
ね、素晴らしいでしょう?」
「……いや、言ってることはわかるけどな。
貴族の口から“モーモーさんの糞”って言葉、
そう軽やかに出てくるのどうかと思うぞ……。」
イリスはくすっと笑い、
その泥と汗と糞の匂いに満ちた空気を、どこか誇らしげに吸い込んだ。
「美しいものだけが世界を変えるわけじゃないのよ。
“汚れたもの”の中にも、命の力はあるの。」
その目は、まっすぐで、澄んでいた。
夕暮れの光が差し込み、
発酵樽の中の湯気が金色に揺れる。
⸻
モーモーさんの発酵樽から、ほのかに湯気が立つ。
腐敗と生命の狭間の匂いが漂う中、イリスは袖をまくった。
「よし、発酵は順調。じゃあ次は――建てるわよ。」
「は? 何をだよ。」
「家よ。」
「……このタイミングでか!?」
イリスは自作定規とチョークを取り出すと、地面に線を引いた。
その線は無駄がなく、寸法の狂いもない。
「通し柱は四寸角。梁は三寸。
この廃材、まだ芯が生きてる。削れば使えるわ。」
「四寸? 三寸? ……なんだそれ、料理の分量か?」
「違うわ。建築の基準。ずれると家が歪むの。」
廃材を抱え、イリスは自作の鉋を動かす。
削り出される木の表面が白く艶を帯び、
木屑が陽の光に舞った。
「木はね、削れば削るほど、声を返してくれるの。
ほら、今の音――これは芯がまだ生きてる証。」
トン、と木槌を打つ音。
ほぞとほぞ穴が噛み合い、柱がぴたりと立つ。
「……おい、本当に釘、使わねぇのか?」
「釘で止めたら、木が呼吸できなくなるのよ。
季節で伸び縮みするのを、ちゃんと許してあげなきゃ。」
オズは呆れながらも、目を離せなかった。
その姿は泥だらけで、貴族の面影はない。
けれど、動きは正確で、無駄がなく、美しかった。
「寸一つ狂わない。
……お前、どこでそんな技術覚えたんだよ。」
「本に書いてあったわ。」
さらりと言いながら、イリスは笑う。
「でも本だけじゃ足りないの。
“木の声”を聞けるようになるまでが、本当の勉強よ。」
風が通り抜けた。
組み上がった骨組みが、きしみもせずに立っている。
まるで、そこに昔から家があったかのように。
日が傾くにつれ、木槌の音が澄んだ空気を打った。
「梁、いきます――三寸、合わせて!」
イリスの声が響く。
汗に濡れた額、巻き上がる木屑。
その姿はもう貴族ではなく、現場の棟梁だった。
オズが柱を支え、マルタが縄を引く。
「お嬢様、ここ少し傾いてます!」
「いいえ、それで正解。木のねじれを逆に使って、力を逃がすの。」
トンッ――木槌の音がもう一度鳴る。
ほぞとほぞ穴がぴたりと噛み合い、
通し柱が、堂々と天を指した。
「……よし、これで立ったわ。」
イリスが小さく息を吐くと、風が通り抜けた。
梁の隙間から光が差し込み、
木の香りがふわりと広がる。
「これが“呼吸する家”よ。」
イリスが呟くと、オズが腕を組んで首を傾げた。
「呼吸する家、ねぇ……聞こえはいいが、
まさか本当に息してるわけじゃねぇだろ。」
「するのよ。」
イリスは微笑み、木肌に触れた。
「木は生きてる。
水を吸って膨らみ、乾けば縮む。
だから、隙間も狂いも“余白”として設計するの。」
オズが呆れ顔で笑う。
「……お前、ほんとに本読んで覚えたのか?」
「ええ、でも“本だけじゃ立たない”ってわかったわ。」
マルタが嬉しそうに声を上げる。
「お嬢様!屋根、完成です!」
夕陽が差し込む中、木組みの家が静かに立っていた。
⸻
三人で中に入る。
土の匂い、木の香り、焚き火の煙。
イリスが窓枠をなぞり、満足げに笑った。
「ほら、ちゃんと風が通るでしょう。」
窓から柔らかな風が吹き抜け、
木壁がかすかに鳴いた。
マルタが歓声を上げる。
「わぁ……森の匂いがする!」
「当然よ。森から生まれた家だもの。」
オズが腰に手を当て、ため息をつく。
「ったく……貴族が建てた家で牛の糞が発酵してんだ。
もう何がなんだかわかんねぇな。」
イリスはくすっと笑う。
「それでいいの。
“人が生きる場所”は、理屈より温かい方がいいのよ。」
三人の笑い声が、木組みの家に響いた。
外ではモーモーさんが鳴き、
発酵樽からはかすかな湯気が昇っている。
その光景は、確かに――再生の始まりだった。
⸻
封を切ると、乾いた紙の匂いと一緒に、
どこか土と風の気配がした。
政庁の執務室。
積み上がる書類の山、その隙間で――
彼はいつものように、誰もいない時間を選んで封を開く。
「モーモーさんの糞は順調に発酵しています。
発酵熱で湯気が出て、まるで呼吸しているみたい。
それに、今日、家が建ちました。
釘を使わず、木と木だけで組んだ家。
木が“呼吸”できるように設計しました。
風が通って、森の匂いがするの。
あなたにも、きっとわかると思いますーー
この村、ようやく生き返りはじめました。」
セイランは指先で便箋の端をなぞりながら、
目を閉じる。
――木が呼吸する家。
――糞が発酵して息をする。
「……何を言っているんだ、あの女は。」
口ではそう言いながらも、
声の奥には、ほんの少し笑いが混じっていた。
窓の外で、風がカーテンを揺らす。
まるで手紙の中の風が、ここまで届いたようだった。
「“人が生きる場所”は、理屈より温かい方がいいのよ。」
最後の一行。
彼女の字はいつもまっすぐで、迷いがない。
セイランは紙をたたみ、胸元で軽く押さえた。
温かさが残っている気がして、少しだけ目を伏せる。
「……理屈より温かい、か。」
冷たい政庁の空気の中で、
ほんのわずかに、彼の頬が緩んだ。




