畑から届く手紙
陽が傾きかけた頃、畑の端でオズが腰をさすりながらぼやいた。
「なんで廃村なんて買ったんだよ……もう足腰動かねぇ」
鍬を持つ手はすっかり泥まみれ。
額の汗を拭いながら、オズは苦い顔をする。
「オズのその言葉、今日で何度目かしら?」
くすくすと笑いながら、イリスが鍬を振り下ろした。
金の髪が風に揺れ、頬にはうっすらと泥がついている。
それでもその笑顔は、誰よりも楽しそうだった。
「俺はな、商人なんだよ。
こんな鍬を握ったことなんてねぇんだぞ」
「まぁ? 鍬を握ってるあなたも素敵よ。
今の世の中、何が起きるかわからないんだから――いろいろ経験しとかなきゃ」
イリスの軽口に、オズは思わず吹き出す。
その瞬間、背後からマルタの声がした。
「お嬢様! オズ様! 少し休憩にしませんか?
搾乳したので、牛乳を温めてきました!」
「わーい!」
イリスが子どものように手を上げ、駆け寄っていく。
湯気の立つ木のカップを両手で包みながら、幸せそうに目を細めた。
そんな彼女の背を眺めながら、オズがぽつりと呟く。
「……俺は、あいつと出会ってから、
商人じゃなくなってきてるかもしれねぇな。」
風が畑を撫でる。
空は茜に染まり、遠くで牛の鳴く声がした。
新しい暮らしが、少しずつ“村”の形を取り戻していく。
⸻
封を切るたび、胸の奥が少しだけ軽くなる。
政庁の一角で、誰もいない時間を見計らって読む――
それが、いつしか一週間の小さな習慣になっていた。
イリスの筆跡は、いつもまっすぐで、
どこか跳ねるように生きている。
けれど、文面はまるで子どものように無防備だった。
「廃墟の家を壊したらネズミが大量だった。泣きそうになった」
「土が死んでいるから生き返らせるために牛を飼った!かわいい。名前をつけようと思う」
「畑をするために土を耕した。腰が折れそう」
読み進めるうちに、思わず笑ってしまう。
声を立てぬように、喉の奥で。
王都では誰も、イリス・グランディアを“こんな風に”語らない。
図書館に十年引き篭もり、頭のおかしいと噂が立っていたら、見事な社交界デビューを果たし、それからは冷徹で、計算高く、常に先を見据えた狂人令嬢と言われている――
けれど、手紙の中の彼女は違う。
彼女は風だ。
思ったままに動き、傷つき、笑い、前に進む。
「……牛を、飼ったのか。」
呟いた自分の声が、少しだけ柔らかいのに気づいて、セイランは目を伏せた。
政務に追われる日々の中で、
彼女の手紙だけが“色”を持っていた。
それはまるで、
灰色の王都に差し込む一筋の陽光のようだった。
彼は知らない。
自分がいつから、彼女の報告を“政務”ではなく“日々の息抜き”として待つようになったのか。
ただ、封筒を開く指先が、いつも少しだけ丁寧になる。
それが、答えなのかもしれない。
⸻
手紙をたたむ音が、静かな執務室に溶けた。
指先に残るのは、紙の温もり。
「セイラン様」
控えめなノックとともに、柔らかな声が届く。
アデール ノルン。
王家に嫁ぐために育てられた女。
そしてセイランの婚約者。
常に穏やかで、常に正しい。
彼女の一歩には、花弁が散るような規律がある。
「まだお仕事中でしたの?」
「いや、もう終わる。」
短い返事。
机の上の封筒を視界の端に避ける。
その仕草を、アデールは見逃さなかった。
「最近……その手紙が届くたびに、少し楽しそうに見えますわ。」
「そうか。」
それだけ。
彼は顔も見ずに立ち上がり、
彼女の横を通り抜けていった。
残された部屋に、淡い香が残る。
机の上の封筒が、風に揺れた。
アデールはそっと視線を落とし、
微笑みともため息ともつかぬ表情で、
小さく呟いた。
「……わたしには、笑いかけてくれないのね。」




