無価値の村で、価値を創る
春の風が、夏の風になろうとしている頃――。
王都の政庁の奥、陽の光がやわらかく差し込む一室で、
イリス・グランディア伯爵令嬢は、一枚の古びた地図を広げていた。
指先が止まる。
かつてハルベルト公爵が支配していた山麓の村――今は荒廃し、
人々も離れ、ただ“無価値な土地”として記録に残るだけの場所。
「……ここを、買い上げたいのです。」
その言葉に、向かいの財務官が顔を上げた。
「イリス様、旧ハルベルト領はすでに国庫の管理地となっておりますが……
ここは随分前に井戸は枯れ、作物も育たず、道も崩れております。
正直、価値など――」
イリスは静かに笑った。
「正直、この土地にそんな価値はありません。
でも――私が金貨三十枚お支払いすると言っているんです。」
淡々とした口調の奥に、強い確信があった。
「……理由を伺っても?」
「村には罪などありません。
罪を犯したのは権力に溺れた者たちです。
けれどそのせいで、無実の人々が生きる場所を失った。
だから私は、その“居場所”を取り戻したいのです。」
室内の空気が、一瞬止まる。
窓の外では、春の風が初夏の香りを運んでいた。
セイランが静かに口を開く。
「……君らしいな、イリス・グランディア。
誰も欲しがらぬ地に、希望を見つけるとは。」
イリスはわずかに微笑んだ。
「価値がないのではなく――
誰も“価値を見ようとしなかった”だけですわ。」
白いカーテンが揺れ、
外の光が彼女の金の髪をやわらかく照らした。
春が終わり、イリスの新しい季節が静かに始まろうとしていた。
⸻
——それから数日後。
金貨三十枚と、正式な譲渡書を携えて、
イリス・グランディアは馬車で王都を発った。
揺れる幌の隙間から差し込む光が、頬を撫でる。
季節はもう初夏。
街道沿いの草花はすっかり背を伸ばし、
遠くの山では、雪解けの水が細い川を作っていた。
「……風が、違うわね。」
イリスは小さくつぶやき、目を細めた。
やがて、馬車がゆっくりと止まる。
そこが、旧ハルベルト領の村――今は地図にも名が載らない場所だった。
⸻
踏み出した一歩目、靴の底に乾いた土がざりと鳴った。
石垣は崩れ、井戸の蓋は割れ、道には雑草が覆いかぶさっている。
風に煽られて転がる空の木箱が、かすかに音を立てた。
それでも――イリスは笑った。
「誰もいないのではなく、
まだ“戻ってきていない”だけですわね。」
足元の草を掻き分けながら、かつての広場へと進む。
崩れかけた掲示板に、古びた文字が残っていた。
『祝・収穫祭』
色あせた赤い布が、風に揺れた。
イリスはそっと指で埃を払い、目を閉じる。
「……覚えていましょう。
この村は、罪を背負わされたけれど、罪などなかった。」
その瞬間、遠くで小鳥の声が響いた。
まるで、それを肯定するように。
イリスは顔を上げ、空を見つめる。
光を受けた金の髪が、夏風にそよいだ。
「さあ……ここから、始めましょう。」
そう言って、イリスは裾を軽くまくり、
壊れた井戸へと歩き出した。
その背に、風がやさしく吹き抜ける。
それは、長く止まっていた時間が――
再び動き出す音だった。
⸻
夏の陽が傾き始めた頃、
広場の真ん中に三人の影が並んでいた。
崩れた井戸、歪んだ柵、草に覆われた小道。
どこを見ても荒れているが、イリスはなぜか楽しそうに頬を緩めた。
「なぁ?お前、廃村なんて買って次何するんだよ?」
オズが腕を組み、呆れたように言う。
イリスは胸を張って、まるで当然のように答えた。
「イリス様の有り余る知識を詰め込んだ村を作るんだよ。」
「……誰が?」とオズ。
イリスは当然とばかりに微笑む。
「私と、オズと、マルタが。」
「おいおい、俺、一応“商人”なんだが?」
「ええ、だから便利よ。物資調達も計算も任せられるでしょ?それに手先が器用そうな顔してるし」
オズが頭をかき、マルタがぷっと笑った。
「私は勘当された貴族令嬢だけど、
体力と気力と頭脳を持ち合わせた天才だから任せなさい!」
言い切ったその顔があまりにも晴れやかで、
二人は思わず顔を見合わせ、苦笑した。
「……こういう時のイリス様、止めても無駄ですよ。」
「だろうな。」
イリスはくるりと背を向け、瓦礫の向こうを見つめた。
「さぁ――“無価値”を価値に変えるわよ。」
その背に、初夏の風が吹き抜ける。
かつて静まり返っていた村が、
今、小さく息を吹き返そうとしていた。




