罪と春
部屋の中に、春の光がこぼれていた。
ガルドは扉を閉めることも忘れて、ただ立ち尽くす。
ベッドの上、イリスが眠っていた。
細い肩を毛布に埋め、金の髪が頬に流れている。
寝息が静かに上下して、唇がかすかに動いた。
(……嘘、だろ)
戦場で剣を振るっていた“イオリ”とは、あまりに違う。
儚くて、柔らかくて――触れたら消えてしまいそうだった。
「……なんで、俺のベッドで寝てんだよ」
声に出しても、彼女は目を覚まさない。
杖を置き、そっと近づく。
そのたびに、心臓の音がうるさくなっていく。
ベッドの端に腰を下ろすと、
イリスの手が布団の隙間からこぼれた。
細くて、あの剣を握っていた手とは思えない。
ガルドは息を飲む。
震える指先で、その手に触れた。
温かい。
触れた瞬間、全身がびりついた。
(……なんで、俺が好きな女の正体が、お前なんだよ)
胸の奥で誰かが叫ぶ。
わかってたはずなのに、現実になると、息が止まる。
ベッドが沈む。
イリスの体がわずかに動いた。
その瞬間、かすかな吐息が空気を震わせて――
頬のすぐそばを、やわらかく通り抜けた。
心臓が、喉まで跳ね上がる。
ほんの数センチ。
けれど、その距離が永遠みたいに遠く感じた。
あたたかい。
かすかな花の匂いがした。
目を閉じたら、夢と現の境が崩れそうで――
ガルドは息を止めた。
頬にかかる髪を、指で払う。
その瞬間、彼女のまつげがふるえた。
動けなくなる。
触れてはいけない。
でも、触れたくてたまらない。
喉の奥で、心臓の音が響いた。
鼓動が、彼女の寝息と重なる。
ゆっくり――指が動いた。
恐る恐る、唇の輪郭に触れる。
柔らかい。思っていたよりも、ずっと。
息を吸う音が、静寂を切った。
彼女の唇が、微かに動く。
その呼気が、彼の指を撫でた。
熱い。
指先から全身に、電流みたいに走った。
(……イリス)
喉が焼ける。
胸が痛い。
それでも指を離せなかった。
彼女の唇をなぞるように、もう一度、そっと撫でた。
その感触を確かめるように、指を見つめる。
――そして、ゆっくりと、自分の唇に当てた。
呼吸が止まる。
心臓が一拍、遅れて跳ねた。
(これが……俺の、罪だ)
唇に残る温もり。
それはもう消せない。
誰にも言えない。
けれど、確かに“生きている”熱だった。
イリスが寝返りを打つ。
彼の肩に、指先がかすった。
ガルドは一瞬で息を呑み、体を引く。
だが、その距離が余計に苦しい。
(――このままじゃ、壊れる)
静寂が戻った。
それでも、彼の胸の中では鼓動が暴れていた。
まるで、あの一瞬に、世界のすべてを掴んでしまったかのように。
⸻
部屋の空気がわずかに動いた。
金の髪が揺れ、陽の粒がきらめく。
――そして、イリスのまつげがふるえた。
「……あれー、ガルド? おかえりー」
寝起きの声。
掠れたその一言で、ガルドの全身が跳ねた。
イリスがゆっくりと目を開け、
柔らかな笑みを浮かべる。
その瞬間、ガルドの顔は真っ赤に染まった。
「な、なっ……!」
喉が鳴る。声が出ない。
心臓が暴れる。
世界で一番触れちゃいけない瞬間に、彼女が目を覚ました。
「なしたの?」
イリスが上体を起こし、
伸ばした手が、ガルドの頬に触れた。
ひやりとした指先が、火照った皮膚をなぞる。
ガルドは硬直したまま動けない。
「顔真っ赤だよ? 熱ある?」
「ち、ちがっ……!」
言葉が詰まる。
視線をそらしても、頬の熱が消えない。
「な、なんでお前が俺のベッドで寝てるんだよ!」
イリスはぽかんとした顔で瞬きをした。
「え? あー……眠くなっちゃって。ごめんね?」
くすっと笑って、寝癖を直すように髪を指で梳く。
その仕草ひとつで、また胸が痛む。
「……あー、こんな時間だ」
イリスは窓の外を見て、軽く伸びをする。
「そろそろ帰らなきゃ」
毛布を整え、
何事もなかったように立ち上がった。
彼女の香りが、ふわりと残る。
扉の前で振り返る。
「また明日ね、ガルド。」
その笑顔に返事をする前に、
扉は静かに閉じられた。
――残されたのは、沈黙だけ。
ベッドには、イリスの形がそのまま残っていた。
彼女が横たわっていた部分だけ、
シーツがまだ温かい。
ガルドはそこに手を伸ばした。
布の向こうから伝わるぬくもりが、
まるで心臓に触れるみたいだった。
(……消えねぇんだよ)
香りが残っている。
淡い花の匂い。
さっき唇で感じた、あの熱と同じ匂い。
指先が震える。
唇が乾く。
息を吸うたびに、彼女がまだそこにいる気がした。
(イリス……)
掠れた声が、空気に溶けた。
窓の外では風が吹き、
白いカーテンが静かに揺れた。
ガルドは額を押さえ、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥が焼けるように熱い。
さっきまでそこにいた温もり。
その残り香の中で、どうしても抑えきれなかった。
「……はぁー、好きだ」
誰に聞かせるでもなく、
春の匂いの中にこぼれた声。
返事はない。
けれど、その沈黙が、彼には答えのように思えた。




