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処刑台から始まる、狂人令嬢の記録  作者: 脇汗ベリッシマ
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歩ける国を夢見て――イリスとセイランの春

「図書館から出た君は、随分とお転婆になったな。」


やわらかな声音に、イリスはわずかに目を瞬かせた。

セイランは静かに歩み寄り、その指先で頬に残る包帯の端をなぞる。


「この傷だって……君が戦場にいた証だ。

まさか、あの“イオリ”が君だったとはな。」


白いカーテン越しに差す陽光が、二人を包む。

イリスは瞼を伏せ、穏やかな微笑を浮かべた。


「殿下を驚かせるつもりはありませんでした。

あの日――商人を通して送った手紙を、

殿下が本当に読まれていたとは思いませんでした。」


セイランの瞳が、わずかに陰を帯びる。

「読んだ。……そして震えた。

『試験を、血ではなく力が讃えられるように』――

その一文を見たとき、私は己の無知を恥じた。

君が“イオリ”という仮面の下で、何を見て、何を願ったのか……ようやく理解した気がした。」


イリスは深く息を吸い、静かに頭を垂れた。


「……あれが現実に起きていたことです。

殿下は後悔しておられるでしょうが、

あの改革を提言したのは私。

そして今回の反乱を止められなかったのも、私の至らなさです。

結果、多くの命を奪いました……申し訳ございません。」


その声はかすかに震えていたが、

それは弱さではなく――信念を持つ者の震えだった。


セイランは静かに首を振った。


「謝るのは、私のほうだ。」


イリスが顔を上げる。

セイランの表情はどこまでも穏やかで、けれどその奥に深い痛みを湛えていた。


「君の理想を、私は知っていた。

“知の塔”にこもっていた頃から、ずっと見ていた。

誰とも交わらず、ただ書を読み続け、

腐敗した歴史の記録を何度も書き写していた。

君は言っていたね――“知識とは、自信であり、未来へ進むための足がかりだ”と。

あの言葉は、今も忘れられない。」


彼は少し目を伏せ、苦笑のような息を吐いた。


「だが、“イオリ”から届いた手紙を読んだとき、すぐにわかった。

あの知識と筆の熱は、塔にいた“あの娘”のものだった。

君がどんな覚悟で外に出たのか、文字の一つひとつに刻まれていた。」


イリスは唇を結び、わずかに笑った。

「覚悟というより……反逆でした。

本の中にある理想だけでは、人は救えない。

だから私は騎士候補生になりました。

“貴族の娘”ではなく、“イオリ”として。」


「それでも、君は正しかった。」

セイランの声は静かだった。

「君が書いたあの手紙は、王都の中枢を動かした。

だが同時に――君の手を血で汚させてしまった。

本来、それは王の責務だったのに。」


イリスの胸が痛んだ。

赦しではない、理解の言葉だった。


「殿下……」


「私は知っていたんだ。」

セイランの声が低く落ちる。

「君が塔を出た理由も、戦場に立った意味も。

それでも、王家の名を盾にして何もできなかった。

……君を守るべきだったのに。」


彼はゆっくりと息を吐き、そしてイリスの頬の包帯にまたそっと触れた。


「君がこの傷を負ったとき、

私は初めて“国の罪”というものを見た気がした。

理想を掲げた者の血でしか、

国が浄化されない現実を。」


イリスの瞳に、静かな光が揺れた。


「……それでも私は、人を傷つけました。」


「人を救うために、だろう?」

セイランの声がかすかに笑みを含む。

「君が剣を振るったのは、力を誇示するためじゃない。

“言葉の届かぬ場所”で、希望を繋ぐためだった。」


イリスは瞼を閉じ、微かに震える唇で呟く。

「それでも……怖かったんです。

言葉が届かない世界が。

信じた理想が、血に塗れる瞬間が。」


セイランはそっと手を離し、穏やかに言った。


「君が血に染まったのなら、その痛みを私が背負おう。

君はもう、前を向いてくれ。

贖うためではなく――生きるために。」


イリスの目に、涙が光る。

それは悲しみではなく、ようやく理解された者の涙だった。


「……優しいお言葉を、ありがとうございます。」


セイランは微笑んだ。

「優しさではない。

君が歩むなら、この国はきっと変わる。

それを信じているのは――私だけじゃない。」


窓の外で、春風が花の匂いを運んでくる。

白いカーテンが揺れ、光が二人を包み込んだ。


沈黙の中、イリスは静かに思う。


――この人こそ、“国”というものの重さを、誰よりも知る人なのだと。

イリスは涙を拭い、ゆっくりと顔を上げた。

「殿下。……次は、道を造りたいと思っています。」


「道?」


「はい。車輪が石に取られて転ぶのも、荷を落とすのも、もう終わりにしたい。

 人と物が滞りなく行き交えば、国はもう一度立ち上がれる。

 ――“癒し”とは、血を止めるだけのものではありません。」


セイランの唇に、わずかな笑みが浮かぶ。

「……君らしいな。戦場に花を咲かせる娘だ。」


イリスは静かに笑った。

「花だけでは足りませんわ。

 ――この国を、歩ける国にしたいんです。」


イリスが窓の外を見上げる。

光を受けた横顔は、どこまでも凛として美しかった。


セイランはふと、胸の奥に小さな痛みを覚えた。

それが誇りなのか、惜別なのか、自分でも分からない。


(――歩ける国、か。

 ならば、君の歩む先に道が続くように。

 私は、その空を整えよう。)


白いカーテンがまた揺れた。

春の光が二人の間に落ちて、

まるで、未来という言葉の形をしていた。


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