白き医療院で、春が動き出す
「忙しいのに、わざわざ呼んですまない。」
柔らかな声でそう告げたのは、王子――セイランだった。
部屋に入ったイリスたちは一礼し、ガレスが静かに答える。
「いえ。お呼びいただけるだけで、光栄です。」
形式的な挨拶を済ませると、セイランは軽く頷き、
窓際から差す陽光を背にして立ち上がった。
「今日、君たちに見てもらいたいものがある。」
その一言に、三人の視線が彼に集まる。
セイランは扉へと歩き出し、彼らを促した。
「ついてきてくれ。」
長い廊下を抜け、王城の奥――王立医療院へと続く白い扉の前で、彼は足を止めた。
衛兵が控えていたが、セイランの一言で静かに退く。
「……開けてくれ。」
ガレスが取っ手を引くと、光があふれた。
午後の陽が真っ白な部屋を満たし、一瞬、誰もが目を細める。
やがて視界が慣れると――
そこには一つのベッドと、その上に座る懐かしい影があった。
「……え?」
声を漏らしたのはイリスだった。
ベッドの上で、包帯を巻かれた青年がこちらを見つめている。
その顔――忘れようにも忘れられない。
「ガルド……?」
次の瞬間、イリスの体は勝手に動いていた。
行儀も身分も関係なかった。
彼女は駆け寄り、ベッドの上の青年を強く抱きしめていた。
「ごめんね、ごめんね……ガルド……!」
震える声が、部屋に小さく響いた。
「え? え? な、なんでお姉さんが……?」
混乱したように目を瞬かせるガルドに、
リオンが苦笑しながら歩み寄る。
「俺のこと、わかるか?」
「隊長……副隊長……? あれ、イオリは……」
リオンはイリスを顎で示して言った。
「その抱きついてるのが、イオリだよ。」
「……えぇぇぇーーーー!?!?!?」
部屋中に、思わず笑いが弾けた。
涙と笑いが一緒にこぼれる、そんな瞬間だった。
セイランが静かに口を開く。
「――あの時、瀕死のガルドを見つけたのは私の側近だった。
すぐに王立医療院へ運ばせ、最高位の治癒師が治療を行った。
あと数分遅れていたら……命はなかったと聞いている。」
イリスはゆっくりと顔を上げ、深く頭を下げた。
「……ガルドを……私の友を助けてくださり、心より感謝いたします。」
「感謝なんて、いらないよ。」
セイランは静かに微笑んだ。
「貴族の反乱に気付けず、君たちを危険な目に合わせてしまったのは、王家の責任だ。
本当に……すまなかった。」
「いいえ。」
イリスはまっすぐに彼を見つめ返す。
「私が王へ直訴の手紙を出さなければ、庶民の騎士や候補が狙われることもなかったはず。
私の判断が浅はかでした。多くの命を危険に晒してしまい、本当に申し訳ございません。」
その声音には涙が混じっていたが、弱さではなかった。
責任を受け入れ、前に進もうとする人の声だった。
セイランはわずかに目を細め、そして穏やかに言った。
「君は――優しすぎるんだね、イリス・グランディア。」
部屋の中に春風が通り抜ける。
白いカーテンが揺れ、包帯に光が反射してきらめいた。
その光の中で、イリスはもう一度ガルドの手を握りしめた。
生きている――
それだけで、世界が少しだけ温かく感じられた。
その温もりは、もう二度と離したくないものだった。
⸻
それからイリスは、王立医療院にちょくちょく顔を出すようになった。
理由を聞かれれば「お見舞いよ」と言いながら、いつも手には果物籠。
今日もまた、窓辺の光が白く揺れる病室で、リンゴの皮がくるくると舞っていた。
「ねえ、本当にイオリなの?」
ガルドが半身を起こしたまま、何度目かの問いを投げる。
イリスはため息をつきながら、ナイフを止めもせずに返した。
「この会話、もう何回目かしら? ――ええ、私がイオリよ。」
「まじで信じられねー。」
「はいはい。ほら、もうすぐリハビリの時間なんだから、食べちゃって。」
軽く笑いながら、イリスは小さく切ったリンゴをフォークで刺し、
そのままガルドの口へぽんと放り込む。
「んぐっ……いきなり投げるなって!」
「口が暇そうだったから、ちょうどいいでしょ?」
呆れ顔のガルドが何か言い返そうとしたその時、
病室の扉が開いて看護師が顔をのぞかせた。
「ガルドさん、リハビリの時間ですよ。」
「……ほらっ、騎士様行ってらっしゃい!」
イリスが背を押すように笑う。
「頑張らなきゃ、いつまでたっても四人で“復帰祝い”できないじゃない?」
「へーい、へーい。」
ガルドは渋々ベッドから立ち上がり、
それでも小さく笑って廊下へと出ていった。
⸻
静かになった病室。
イリスは残されたベッドを丁寧に整え、
散らばったリンゴの皮をひとつひとつ拾い集める。
――その時、
「コン、コン」と扉を叩く音が響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは――
金糸のような陽光を背にした、王子セイランだった。
「……殿下。」
イリスの声がかすかに揺れる。
セイランは微笑を浮かべ、
「君がここにいると思っていた」と静かに言った。
白い医療院の光が二人のあいだを満たす。
外では春風が吹き、木々がざわめいた。
けれどその瞬間だけ、
世界が息をひそめたように――静かだった。




