傷だらけ令嬢、居候を宣言す。
「ただいまー。」
扉が開く音が、商館の昼下がりを裂いた。
差し込んだ春の光の中に立っていたのは――包帯に覆われたイリスだった。
片腕は吊られ、白い包帯の隙間から滲む赤。
それでも姿勢だけは、いつも通りの令嬢らしいまっすぐさを保っている。
一瞬、時が止まった。
帳簿を持ったままのオズも、掃除をしていたマルタも、息を呑んで動けない。
「お、お嬢様……?」
マルタの手から雑巾が落ち、抑えきれない嗚咽がこぼれた。
「お嬢様、なんておいたわしいお姿……!
どうして……どうしてこんなになるまで……!」
駆け寄ったマルタが、包帯の上からそっと手を添える。
その震えが、イリスの皮膚の奥まで伝わるようだった。
「ただいま、マルタ。心配かけてごめんなさいね。」
イリスは笑った。
けれど、その笑みは痛々しかった。唇の端の傷が、笑うたびに切れて滲む。
「……おい。まさかとは思うが――
この前の“反乱”に、お前……行ったのか?」
オズの声は低く、重い。
いつもの軽口は影も形もなく、ただ真っ直ぐな問いがそこにあった。
イリスは目を伏せ、穏やかに微笑む。
「そのまさか、よ。
王命を偽った貴族の内乱。あの戦場の最前線に。」
「嘘だろ……」
オズは拳を握り、言葉を絞り出す。
「お前、なんでそんな――」
「――あぁ、でもしないと何も変わらなかったの。」
イリスの声は静かだった。
焚き火の残り火のように、小さく、確かな熱を宿している。
「本を読んで、祈って、誰かが変えてくれるのを待って。
でも、変えてくれる人なんて現れないから――
多少の力と知恵のある私が、やるしかなかったの。」
その瞳に浮かぶのは、恐怖でも後悔でもない。
“覚悟”の光だった。
マルタは泣きながら首を振る。
「でも……貴族のお嬢様が血を流す必要なんて……!」
「ええ、本来ならね。」
イリスは包帯の下の手を見下ろす。
「けれど、この手はもう血に汚れている。」
“誰かを救おうとしたその手で、誰かを傷つけた。”
そんな事実を、彼女は否定できなかった。
長い沈黙のあと、オズが息を吐いた。
「……お前はほんとに、どうしようもねぇな。」
その声は、呆れにも、どこか誇りにも似ていた。
イリスは微笑んだ。
「知ってるわ。だから帰ってきたの。」
マルタが涙を拭いながら笑う。
「お帰りなさいませ、お嬢様。」
扉の外から、春の風が吹き込む。
焦げた土と花の匂いが混ざり合い、戦場と日常の境を曖昧にしていく。
イリスは深く息を吸い、包帯越しの手で胸を押さえた。
――帰る場所がある。
そのことが、こんなにも温かいなんて。
⸻
その日の午後。
商館の中はいつも通り、陽がやわらかく射していた。
けれど、その光の中で笑うイリスは――もう以前とは違っていた。
包帯の下に残る痛みも、不思議と軽い。
「オズ。家には帰れないから……今度こそ、居候させてもらえないかしら?勘当された時だって結局ホテルだったじゃない?遠くてここまで通うの不便なのよ」
唐突な一言に、オズが顔を上げる。
その表情には、“やっぱりな”という諦めにも似た色があった。
「絶対言ってくると思ったからな。
俺の家の部屋を一つ、もう空けてある。」
「まぁ……準備がいいのね?」
イリスが唇を上げる。
だが次の瞬間、その笑みがふわりと意地悪く変わった。
「でもオズって――確か、お手伝いさん雇ってなかったわよね?
婚前に一つ屋根の下だなんて……まさか、そんな大胆な性格だった?」
「なっ……!?」
オズの顔が一瞬で真っ赤になる。
「お前なぁ!誰がそんなことを――!
マルタと一緒にその部屋を使え!」
「……マルタは家に帰るわよ?ねぇ、マルタ?」
マルタは困ったように手を合わせた。
「弟たちがまだ小さいので……夜は家に帰らせていただいているんです。」
「ほらね?」
イリスは得意げに笑う。
「オズ、あなたったら――やるじゃない。」
「やらねぇよ!!」
オズの声が裏返る。
真っ赤な耳が、必死の否定を裏切っていた。
「俺は商館に寝泊まりする。あの奥の倉庫、使えるからな。」
「まぁ……商人の鑑ねぇ。
でもいいじゃなーい、こんな可愛くて傷だらけの令嬢なかなかいないわよ?」
イリスがくすくす笑うと、オズは机を軽く叩き、
「……この女……!」と頭を抱えた。
マルタが慌てて割って入る。
「お二人とも、朝から喧嘩はだめです!」
その声に、イリスはとうとう吹き出した。
「ふふ……っ、あははは!」
笑い声が商館いっぱいに広がる。
包帯の下で、まだ痛むはずの身体が――不思議と軽くなっていく。
こんなふうに笑うのは、いつぶりだろう。
戦の記憶も、痛みも、春風に溶けていく。
ここは、生きて帰ってこられた場所。
そして、また笑える場所。
――戦うために生きた少女が、
ようやく“生きるために笑う”日常へ帰ってきた。




