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処刑台から始まる、狂人令嬢の記録  作者: 脇汗ベリッシマ
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狂人と呼ばれた伯爵令嬢

石畳を踏みしめ、重たい扉を押し開けると――そこは別世界だった。

図書館の空気はひんやりと澄み、まるで時間そのものが立ち止まっているかのように静まり返っていた。

高くそびえる本棚には革装丁の分厚い書物がずらりと並び、灯りに照らされて金の箔押しがちらちらと瞬く。紙の香りとインクの匂いが混じり合い、私の胸の奥をふるわせた。


この世界では、本はすべて国が管理している。庶民の手に渡ることはなく、読めるのは王族と一部の貴族だけ。だからこそ、人は本を「知識の宝庫」と呼び、憧れを込めて口にする。

けれど今の私には憧れなどない。切実な必要――命をつなぐための唯一の手段として、本を求めていた。


(もう二度と、あれを繰り返さない)

処刑台の冷たさも、木材に押し潰された痛みも、まだ鮮やかに残っている。過去の記憶を持つ私なら、この知識を必ず武器に変えられるはずだ。


だから私は――ほとんど狂気じみた執念で通い詰めた。

図書館は昼も夜も閉じることなく、常に扉を開いている。そのせいで私はほぼ一日中、書物の森に身を沈めるようになった。


けれど、あまりにも入り浸る私に両親はとうとう耐えきれず、ある夜、使用人を連れて迎えに来た。

「イリス、もう遅い。帰るぞ」

無理やり腕を引かれる。抵抗する小さな身体。必死に暴れた。

「いや! まだ読むの! 読まなきゃいけないの!」

涙と嗚咽で喉が焼けた。


そのとき、母がぽつりと漏らしたひと言。

――「狂人だわ……」


その声に父は顔を歪め、沈黙のまま私を抱き上げた。

私は忘れない。二人の絶望に染まった眼差しを。

胸が張り裂けそうに痛んだけれど、それでも叫びたかった。

(違うんだよ。私は必死なんだ……! もう二度と、あんな無力なまま死にたくないんだ!)



———


やがて、子どもの身で図書館に篭り続ける私の存在は、館内でも目立つようになった。

上級貴族の子弟たちが面白半分に声をかけてくる。

「そんなに夢中で本を読むなんて、変わってるな」

「お前にとっては娯楽かもしれない。でも、私には命がかかっているんだ」

心の中で吐き捨てながら、私はページをめくる手を止めなかった。


ある日。

背後から低い声がした。

「なぜ、本を読む?」


またか、とため息をつきたくなった。けれど視線は本に落としたまま、言葉だけを返す。

「無知は恥だからです」


「……へぇ」

興味深げな気配。


私はページをめくりながら続けた。

「学べば、いつか自分が“やりたいこと”に出会えたとき、その足がかりになります」


「だが――やりたいことがあっても、決まったレールしか歩けぬ場合は?」

その声は冷たく、鋭く、まるで刃のように胸を突いた。


私は顔を上げずに答えた。

「そんなのは、周りが勝手に敷いたレールでしょう? 自分のレールぐらい、自分で引ける強さを持てばいい」

喉が熱くなる。

「そのために知識がある。知識とは、自信であり、足がかりです」


しん……と空気が止まった。

返事がない。気になってようやく視線を上げると――そこには誰もいなかった。

声の主は影も形もなく、ただ静寂だけが戻っていた。


(……なんだったんだ、今のは)

胸の奥に不気味な余韻を残したまま、私は再びページに目を落とした。

謎の声と時折言葉を交わすようになったのは、図書館に篭り続けて間もなくのことだった。

声の主は、いつも本棚の陰から低く問いかけてきた。

「何を求めている?」

「お前は何を成す?」


けれど私は顔を上げなかった。

――無礼? 愛想がない? そんなの承知の上だ。


どうせ、こんな子どもに話しかけてくる者なんて、まともじゃない。

頭のおかしいやつか、物好きか。

私に必要なのは顔色を伺うことではなく、知識を積み重ねることだけだった。


———


そうして篭り続ける生活を続けて、気づけば十年の歳月が流れていた。

季節は巡り、外では春が来て夏が去り、雪が降って溶けていった。

けれど私の世界は、常にこの静かな図書館の中にあった。


革表紙の匂い。

乾いた羊皮紙の感触。

古びたインクの滲んだ文字。


私はそれらを喰らうように読み尽くし、気がつけば十六歳になっていた。


――図書館中の本を、すべて読み終えてしまったのだ。

幼馴染のリリアナに出会うこともなく、侯爵家のクラウディオと婚約することもなかった。

本来なら「社交界の花」と呼ばれ、笑顔を取り繕っていたはずの私の姿は、この十年間どこにもなかった。


そりゃそうだ。

貴族たちの間では、私は「本の狂人」と呼ばれているらしい。

社交の場で顔を見せず、ただ本ばかりを読み漁る異様な伯爵令嬢。

そんな噂が風のように広がり、やがて定着した。


両親は……もう半ば諦めていた。

「イリスには、もう何を言っても無駄だ」

そう呟く父の背中を、私は何度か見ている。

母は祈るような眼差しを向けながら、それでも私を止めようとはしなかった。


十年。

長いようで、あっという間だった。


気づけば私は、幼い頃に涙を流していた小さな子どもではなくなっていた。

指先は書物の紙で擦れて硬くなり、目は夜更けの灯火に慣れ、言葉は鋭く研ぎ澄まされていた。


図書館は私を飲み込み、そして育て上げた。

私はそこでただ一人、孤独に、けれど確かに強くなったのだ。


(――でも。これからどうすればいい?)


すべての本を読み尽くした今、胸の奥にぽっかりと穴が空いていた。

知識を得た。

力を蓄えた。

けれど、まだ何も成していない。


その時――。

いつものように背後から低い声が響いた。


「もう十年も籠っていたか。……ずいぶんと狂人らしいな」


私はゆっくりと息を吐き、閉じた本の表紙に手を置いた。

声の主と交わした無数の言葉が、記憶の底から浮かび上がる。

今度こそ、顔を上げるべき時が来ているのかもしれない――そんな予感が胸を打った。


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