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処刑台から始まる、狂人令嬢の記録  作者: 脇汗ベリッシマ
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庶民候補生、理不尽の夜明け

まだ陽は昇りきらず、空は灰色に濁っていた。

冷たい霧が地面を這い、吐く息は白く滲む。


訓練所の裏手に回ると、湿った土の匂いが鼻を突いた。

そこには、広い整地場と伸び放題の雑草が広がっている。

刈り取るための鎌と鍬が、無造作に木箱の中へ放り込まれていた。


「ここを……全部かよ」

ガルドが目を剥く。


教官は涼しい顔で腕を組み、

「文句があるなら、貴族に生まれ直すことだな」とだけ言い残して去っていった。


しばし、沈黙。

その静けさの中で、土の上を歩くリオンの靴音だけが響く。


「……やれやれ。庶民に“働け”とは言うけど、

 道具の手入れすらできてないんじゃ話にならないね」


リオンは木箱から鎌を一本抜き取り、刃先を指で軽く撫でた。

少し触れただけで、刃の鈍さが伝わる。


「ガレス、火打ち石。イオリ、油壺を頼む」

「……了解」

「はい」


指示が飛ぶ。

イオリは言われるまま油を注ぎ、リオンが石を叩いて火花を散らす。

鎌の刃が淡い橙色に染まり、やがて鋭く輝きを取り戻していった。


「どうせ働かされるなら、効率よくやった方がいい。

 “誇り”ってのは、相手の評価じゃなく、自分のやり方に宿るものだからね」


その言葉に、ガルドは思わず顔を上げる。

「リオンさん……あんた、こんな状況でも楽しそうに見えるっす」


リオンは笑った。

「楽しそうに見えるのは、たぶん“負け方”を知ってるからさ」


そう言って、彼は草むらに鍬を突き立てた。

土が重く跳ね、霧の粒が光を反射する。


「ほら、手を動かせ。

 この国が変わるのは、剣より先に“手”だよ」


イオリは無言で鍬を構えた。

手のひらに伝わる冷たさと痛みが、妙に現実的だった。


(十年後……私はこの手で、何を掴んでいるだろう)


霧の向こうで、リオンが笑っていた。

その笑みは、昨夜とは違う。

明るさの奥に、ひと筋の哀しさを滲ませた笑みだった。


やがて朝の鐘が鳴り、

“庶民の訓練”という名の理不尽な朝が、静かに幕を開けた。




日の出の光が、霧を割るように差し込み始めた。

整地場の土は均され、雑草ひとつ残っていない。


「終わった……っすね……」

ガルドが鍬を地に突き立て、荒い息を吐いた。

その肩から湯気が上がる。


イオリも同じく、指先の感覚がなくなるほどに疲労していた。

それでも、胸の奥にはかすかな達成感があった。

――これで、朝食にありつける。


彼らは期待を胸に、訓練所の玄関をくぐる。

だが、食堂の扉を開いた瞬間、その希望は呆気なく砕かれた。


「庶民候補生の配給は終了しました」


給仕が冷たい声で告げた。

まだ湯気の立つパンとスープの匂いが、鼻をくすぐる。


「なっ……日の出までに終わらせたじゃねぇか!」

ガルドが叫ぶ。


だが、返ってきたのは淡々とした言葉だけ。

「“日の出”の定義は、教官の判断によります」


沈黙が落ちた。

リオンはゆっくりと歩み出て、笑みを浮かべる。


「なるほどね。

 働いた分、理不尽を教える授業ってわけだ」


彼は食堂の奥へと向かい、手にした皿を掲げた。

「俺たち“騎士”の食事は、まだ残ってるよね?」


給仕が戸惑いながら頷くと、リオンは軽く受け取った。

パンとスープを持って戻り、仲間の前に腰を下ろす。


「ほら、分けよう。

 庶民ってのは、こうやって困ってる仲間を助け合うもんなんだ」


リオンはパンを二つに割り、迷いなく差し出した。

ガルドの手にパンくずが落ちる。

イオリはその光景を黙って見ていた。


そのとき――

食堂の隅で、数人の貴族候補生が鼻で笑った。


「見ろよ。庶民が庶民に配給してるぞ」

「惨めなもんだな。人の情けでしか食えないなんて」


リオンは顔を上げ、いつもの調子でにこりと笑った。


「そうだねぇ。

 でも庶民は、こうやって“心のある分け方”を知ってるんだ。

 まぁ、腹が満たされてる貴族様には……その優しさ、ちょっと分かりづらいかもね?」


穏やかな声。

だが、その笑みには鋭い刃のような皮肉があった。


貴族たちは言葉を失い、視線を逸らした。

リオンはそのままスープをひと口啜り、静かに息を吐く。


「……うん、薄いけど悪くない味だ」


イオリはふと、彼の横顔を見た。

笑っているのに、どこか哀しげだった。


(この人……本当は、何を見てるんだ?)


朝の光が、ようやく窓から差し込む。

冷えた空気の中で、湯気がゆらりと立ちのぼった。

それはまるで、

“奪われた誇り”がまだ消えていないことを示す、

小さな炎のようだった。


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