第三章 風穴の誓い
昼下がりの陽が、白いカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。
病室の一角では、ガルドがベッドの上に腰をかけ、皿の上の肉をうれしそうに頬張っている。
「久しぶりー。元気だったかー?」
その声にガルドが振り返る。
「……イオリ!」
顔を見た瞬間、彼の箸が止まった。
「お前、今までどこほっつき歩いてたんだよ! 頬、怪我してんじゃん!」
怒鳴るように言いながら、目がうるうるしている。
「俺さ……病院中探してもお前いなくて。
看護師に聞いても“そんなやつ居ねぇ”って言われてさ……
俺はてっきり……」
言葉が途切れ、唇が震える。
ガルドの手が、皿の縁でぎゅっと止まった。
イリス――いや、イオリは困ったように笑った。
「ごめんごめん! そんな泣きそうな顔しないでよ」
軽く手を振って、頬をぺちりと叩く。
「石がぶつかっただけだってば。骨は無事。
で、ずっと居なかったのはね、ばあちゃんが事故現場を遠くから見てて、
腰抜かしちゃってさ。それから今まで介護よ〜。寝たきりになっちゃって」
そう言いながら、イオリはガルドの皿に目を留め、
肉をひょいっと摘んでぱくりと食べた。
「おい! それ俺が大事に取っておいた肉だぞ!」
「いいじゃん、一口ぐらい〜」
「よくねぇ! 一番うまいやつなんだぞ!」
ふたりの声が病室に響く。
くだらない口喧嘩に笑いながら、
ついに看護師がカーテンの隙間から顔を出し――
「静かにしなさい!」
ごつん。
見事なゲンコツが飛んできて、二人まとめて病室の外に追い出された。
⸻
廊下に並んで腰を下ろす。
ガルドは頭をさすりながら、外の空を見上げた。
青い空が広がり、風が窓を抜けていく。
「……なぁ、知ってたか?」
「ん?」
「今回の鉱山の事故で運ばれてきたやつら、
国が全部負担してくれるんだと。入院費も食費も」
「へぇ、良かったじゃん」
イオリが足を投げ出して笑う。
「俺、今回の件で少し金が貯まったんだよ」
ガルドが鼻を鳴らした。
「だからさ、思ったんだ。……俺、騎士の試験受けてみようかなって」
「へぇ?」
「お前に字教えてもらっただろ? あれから毎日練習してたんだ。
入院中も暇だからずっと書いてさ。
おかげで署名ぐらいならちゃんと書けるようになった」
イオリがふっと笑った。
「いいじゃん。なら、俺も受けてみようかな。腕試しがてら」
ガルドの目がぱっと見開かれた。
「まじ? 最高じゃん!」
二人は顔を見合わせ、笑い声を上げた。
肩を組んで、少年みたいに笑った。
「よし! 俺たち二人で騎士になって、この国を守ろうぜ!」
その声が病院の廊下に響く。
笑い声と共に差し込む光が、まるで祝福のように二人を包んでいた。
イオリは笑いながらも、少しだけ空を仰いだ。
窓の外では、遠くの山脈に白い雲がかかっている。
――あの鉱山の、あの光景が脳裏に蘇る。
血に濡れた手。泣き叫ぶ人々。
そして、必死に命を繋ごうとした自分。
「……そうだね。守りたいな、ちゃんと」
その声は、どこか静かで、けれど強かった。
ガルドが不思議そうに顔を向ける。
「ん? どうした、真面目な顔して」
「ううん、なんでもないよ」
イオリは軽く笑って立ち上がる。
だがその瞳には、もはや迷いはなかった。
(誰かがやらなきゃ。なら――私がやる)
帽子のつばを指でつまみ、くいっと下げる。
「じゃ、決まりね。次の試験、一緒に受けよ」
「おう! 絶対受かろうな!」
「当然だろ。落ちたら、次こそお前の食事の肉全てもらう」
「はぁ!? それは困る!!」
また笑い合う二人の声が、長い廊下を転がっていく。
だがその笑いの奥で、イオリの心には確かに“誓い”が芽吹いていた。
――もう逃げない。
貴族の娘としてではなく、ひとりの人間としてこの国に風穴を開ける。
それが、彼女自身の戦いの始まりだった。
⸻
白い包帯を頬に貼り、冷気がじんわりと肌に沁みていた。
イリスは深く息をつきながら、書きかけの報告書に目を落とす。
窓辺で同じく書類を整理していたオズが、ちらりと視線を上げた。
「令嬢が兵士に殴られるなんて、聞いたことがないぞ」
「私もよ」
イリスは布越しに口角を上げる。
「でも歯が折れなかっただけ、奇跡だわ」
「奇跡って……」オズは眉をしかめ、紙束を机に置いた。
「その兵士、死刑だな」
「はぁ? 私を殴って死刑? 冗談じゃないわ」
イリスはくすりと笑い、湿布を軽く押さえる。
「彼は命令に従っただけ。グロース伯爵を守ろうとした“正義感”からでしょ。
まぁ……とっても痛くて、ムカつくけどね」
オズはため息をつきながらも、わずかに頬を緩めた。
「お前ってやつは……普通、怒るところだろうに」
イリスは返事の代わりに、視線を窓の外へ向けた。
灰色の雲が流れ、陽がわずかに差し込み始めている。
「あの時、兵士たちは人が目の前で苦しんでいても動かなかった。
命令が下るまで、ただ見ているだけだった……」
言葉を絞り出すように、イリスは呟いた。
「今回のことで、はっきりわかったの。兵士も騎士も、貴族の息がかかりすぎてる。
あの組織は腐ってる。平等も、正義も、存在しない。……だから、風穴を開けるのよ」
オズの顔が険しくなる。
「やめろ。駄目だ、それは」
その声には焦りが滲んでいた。
「お前がまた前に出たら、今度は頬だけじゃ済まないぞ」
「ってことで――」
イリスはどこからともなく一枚の紙を取り出した。
まだ乾ききらぬインクで、ひとつの名が記されている。
『イオリ』
「……お前、まさか」
「そう。騎士候補生の試験、受けようと思うの」
イリスは悪戯っぽく笑った。
「このままじゃ、何も変わらないもの」
「正気か……」
オズは額を押さえた。
「知識はあっても、常識はないんだな」
部屋の隅で控えていたマルタが、慌てて駆け寄る。
「お嬢様、もうおやめください! 次は頬だけじゃ済みませんよ!」
イリスは静かにマルタの手を握り返した。
その手の温もりが、覚悟の証のように震えていた。
「ねぇ、マルタ。あなたたち平民は、いつまで地を這いつくばらないといけないの?
私は、そんな姿を見たくない。
誰かがやらなきゃいけないの。
そして――私には“知識”がある。これは、私にしかできないこと」
マルタの瞳が潤み、何も言えなくなった。
オズは静かに窓の外へ視線を向ける。
その横顔に、わずかな誇りの色が浮かんでいた。
「はぁ……ったく。お前は本当に、手のかかる令嬢だな」
そう呟く声は、呆れと、それに似た温かな敬意に満ちていた。
窓の外では、灰色の空を裂くように、一筋の光が差し込んでいた。
それは、嵐のあとに吹く新しい風――
やがてこの国に、風穴を穿つ者の始まりとなる光だった。
そしてその名は、まだ誰も知らない。
“イオリ”という、ひとりの少女の物語を。




